4:地下牢
今回試しに、ひたすたら作者の自己満足な挿絵を、末尾に付けて見ました。
サイズが少々大きいので、携帯で御覧下さっている方には、不向きなイラストかもしれません。 予めご了承ください。
4:地下牢
室のあるという、北側の一角に続く地下通路は、地下大堂へ下りる際に歩いた通路よりも薄暗く、空間を満たす、どろりと粘る淀んだ闇は、獲物を絡め捕ろうと張り巡らされた、見えない蜘蛛の巣のように、身体に纏わり付いては、通る者の歩みを遅くさせる。
手燭を持つトマを先頭に、ラスターが続き、その周囲を取り囲むように、まだ見習いであろう修道士が、左右に二人、後方同じく二人、一定の間を開け同行している。
白い修道服に身を包んだ彼等は、一様に俯き加減で無言、その足取りは慎重であった。
進むにつれ、通路は手燭の灯りなど意味を成さぬ程、更に黒く、濃い闇に満たされていく。
その場に滞る空気は、手先や足先、顔面など、皮膚を曝している部分に明らかな痛みを与える程、凍てついている。
幾つ目かの角を曲がった頃、進むべき道があるのかも見通せぬ黒闇の先から、微かだが、爽やかな香りが漂って来た。
香りは、進むほどに朧なものから確かな匂いへと変わっていく。 それは、陰鬱とした闇間には似つかわしくない、瑞々しく清らかな香りで、花盛りの果樹の木陰で休息を取っているような、心落ちつかせる芳しさがあった。
漂い来る香りに包まれるうち、死人の如く沈黙し、重い足を引きずるように歩んでいた修道士達は、固い縛めから開放されたように、表情は和らぎ、背筋は伸び、足取りは軽くなっていた。
だが、ラスターに先立ち案内するトマだけは、口を堅く引き結び、苦しげな表情で沈黙を守っている。
ラスターの周りを歩く四人の修道士達は、香りの影響で気が緩んだのか、仲間同士、横目で見交わし、無言の会話を行っては、ラスターと自分達の長であるトマへ、好奇と怖れと不満が混ざり合った視線を、フード越しに投げ付けていた。
トマは、そんな修道士達の行動に気付きつつも、注意の言葉も視線も投げず、また、ラスターへの警戒すら、一度も行うことなく、ただひたすらに、目的地に向け歩んでいた。
細い通路に入り、更に幾つかの角を曲がると、トマは黒い鉄扉の前で歩を止め、若い修道士に命じ、扉を引き開けさせた。
重い響きをたて鉄扉が開けられると、先から漂っていたよりも濃厚な香りが、堰を切り溢れ出る大水のように、通路にどっと流れ出して来た。
トマを始め、四人の修道士達は激しく咳き込み、ラスターもまた、息を止め眉を顰めた。
トマは咳をいち早く抑えると、ラスターに非礼を侘び、扉の中を指し示した。
「手狭ではございますが、こちらの室で、御身体をお休め下さい」
頭巾に覆われた頭を深く下げ、トマはラスターに、室内へ入るよう促した。 後ろに従っていた修道士達もまた、ラスターを囲むように立ち位置を変え、トマに倣い、頭を深く下げた。
ラスターが入室したことを、頭巾の端から確認すると、トマだけが扉の内に入り、残りの者達は通路で控え待つ姿勢をとった。
室内に入ると、トマは「命でございますゆえ」と断り、ラスターの足に枷を取り付け、代わりに手を縛めていた縄を切った。
足の枷には、室の隅の杭から伸びる長い鎖が繋がっており、ラスターが動く度に、ジャラリと、重い音が響く。
室内には、やはり香が焚かれていた。
甘すぎぬ、爽やかな香りを乗せた白煙が、ゆるゆると彷徨うように、室の四方に広がり漂っている。
室はさして広くはなく、大堂と同じ磨かれた青黒色の石が、床から壁、天井部に至るまで使用されていた。
窓ひとつない室内の四隅はかなり暗く、凍えた空気の所為もあり、通される者によっては、巨大な石棺に押し込められたような錯覚を覚えるであろう、閉塞された空間だった。。
壁際に置かれた、紫黒檀で拵えられた寝台と小卓、その上に置かれた真鍮の水差しと高足の杯、天井から吊るされた銀の香炉、硬い石壁に固定された燭台に灯る小さな炎。 それが、この室にある全てであった。
「後ほど、ささやかながら夕餉をお運びいたしまが、その前に、まずはこの果実酒で喉を潤し下さい。 この果実酒は、南部カイセルで収穫された白葡萄の中から、厳選されたものだけで醸造させたものでございます」
いつのまに用意されていたのか、銀の盆の上には、淡い金色の液体が注がれた、美しい切子の杯がひとつ載せられ、ラスターの前に差し出されていた。
盆を掲げているのは、一番年若い修道士であった。 顔は決して上げず、跪き俯いたままであったが、緊張が激しいのか、手足がガタガタと震え、杯の果実酒は、飛び散りなくなるのではないかと思えた。
トマは、杯を捧げている修道士とラスターの様子を、落ち着かなげに見ている。
「頂こう――」
杯を取ると、ラスターは躊躇いもなく、一気に金色の液体を飲み干し、揺れる盆の上へ杯を置いた。 盆を捧げていた修道士は、杯が戻されたのを知ると、そそくさと仲間の待つ通路へと戻った。
杯を干した後も、ラスターは何事にも関心がないかのように、無言で、揺れる燭台の炎に視線を向け続けている。
トマはその横顔をちらと見ると、胸元で手を合わせ、頭を深く下げる去辞の礼をとった。
先程から、酷い眩暈がトマを襲っていた。
冷や汗が流れ、深く息を吸うことができず、息苦しさに、視界が霞む。 一刻も早くこの場を去り、オリ=オナに次の指示を仰ぎたかった。
「それでは、私は、これにて退がらせて頂きますが、何かご入用の品がございましたら、後ほど参る者にお申し付け下さい。 即刻、ご準備いたしますゆえ」
眩暈に耐えながら、言葉を言い終えると、トマはふらつきながら、いま一度深く頭を下げた。
「"再会を祝して、杯を交わしたい"」
唐突なラスターの言葉に、トマは思わず伏せていた顔を上げ、その横顔に瞠目した。
「――は?」
「戻られたら、大神官殿に伝え頂きたい。 酒は、こちらが用意をしよう。 杯は――そちらで選ばれたものを、と」
言葉を終えると、ラスターはトマの顔に視線を移した。 何の感情も見せない青の瞳が、トマの姿を映している。
トマが、ラスターの姿を直視したのは、これが初めてだった。
噂に違わず、女と見紛う程に麗しい、端整な容貌の青年だった。 その姿は、髪型を除けば、神殿で見慣れた神像そのものである。
白い顔の中で、鮮やかな天青の瞳に、燭台の光りが揺らめき輝くことで、この青年が石像や人形ではなく、生きた人間であることを、トマに思い起こさせる。
我知らず見つめていると、不意にラスターが微笑み、口を開いた。
「もう、戻られるがいい。 これ以上この部屋に留まれば、そなたの命は、消える」
「そ、それは……いったい――」
思いがけぬ言葉に、トマは曲げていた背を伸ばした。 それは、ほんの僅かな動作だった。 だがその動きは、更に激しい眩暈と息苦しさをトマに与えた。
真っ直ぐに立つ事が出来なくなり、トマは崩れるように膝を折り、床に座り込んだ。 両腕でなんとか上半身を支えてはいたが、腕は激しく震え、今にも倒れてしまいそうだった。
俯いた鼻先や顎から、脂汗が黒石の床に滴り落ちていく。 ぱたりぱたりと、滴の落ちる微音が、静寂の室内に、妙に響いて感じられる。
「この室に焚かれている香には、エガが含まれている」
ラスターの言葉に、トマは目を剥いた。
エガといえば、ほんの微量で数百人の命を奪えるという、無味無臭の猛毒である。 高山に自生する植物の種子から、極僅かしか得られぬ稀少品ゆえ、滅多な事では用いられることのない毒だと、トマは耳にした事があった。
「な――そん――……」
懸命に言葉を続けようとしたが、身体がとうとう音を上げ、トマは泡を吹き、完全に床に崩れ落ちた。
ラスターは、倒れたトマの傍に膝を着くと、その容態を窺った。 トマは白目を剥き、呼吸は浅く速く、時折痙攣を起こしている。
通路では二名の者が同じような症状に陥ったらしく、残り二名が、苦しげな息の下で、仲間の身体を揺さぶり、名を呼んでいた。
トマの意識が混濁し、動けないことを確認すると、ラスターは寝台の掛け布を剥ぎ、一端を固く二・三段に結ぶと、吊るされた香炉に投げて巻き付け、床へ引き落とした。 落ちた香炉を布で包み、煙を漏らさぬようにすると、ラスターはトマを仰向けにし、衣を緩め、胸部を三ヵ所指で突いた。
しばらくすると、トマの呼吸は穏やかな、規則正しいものに変化し、意識が戻り始めた。
呼吸の安定を確認すると、ラスターは左手の手袋を外し、指に傷を付け、トマの口に一滴、血を垂らした。 次いで、額に傷のない指を当てると、聞き取れぬほど小さな声で、詞を呟いた。 トマの耳には馴染まぬ、古い詞のようだった。
「……な……にを――」
重い瞼を上げ、トマはラスターの顔を見上げた。 ラスターは、手袋をはめながら無表情に、トマを見下ろしている。
まだ力の戻りきらぬ腕で、何とか身体を支え上半身を起こすと、トマは改めてラスターの顔を怯えたように見上げた。
「私に――何を……」
ラスターは、トマの耳元に顔を近づけ、トマの問いに答えた。 その言葉に、トマは目を見開き、よろけながら立ち上がった。
「――わ、私……こ、れにて、失礼を――」
己を見据えている青の瞳から逃れるように、トマは顔を奇妙な方角に逸らせ、去辞の礼もそこそこに、室の外へ転び出て、鉄扉を乱雑に閉めた。
口早に、倒れずにいた修道士に命じ、施錠と封印の呪を施させると、慌しい足音を響かせ去っていった。
足音が遠ざかると、入れ替わるように女の含み笑いの声が、灯火の光届かぬ隅の闇から響いてきた。
『滑稽な奴等だねぇ――』
女としては低音の、独特の艶のある声は、嘲るような笑いを漏らし続けている。
「――カナル」
ラスターは、声の方角へと視線を向けた。
『どうだい、あの慌てよう。 鍵を七つに封印の呪符を五枚貼っておいでだよ。 しかし、足枷はするが、手の枷は無しかい? 剣を取り上げ、足の自由を奪うだけで、外には看守の一人も置かぬとは、お前も、舐められたものだな。 ユーシィス』
燭台に火を灯したように、闇の中心に白い円光がぽぅと生じ、それは次第に大きく広がり、人の姿へと変化をしていく。
『ま、大した持て成されようではあるか。 エガ入りの香とは。 一息吸えば夢心地、ふた息で自我を失い、次の呼吸で永久の眠りへ誘うとかいう、なかなか物騒な代物だろう? 相当値が張るものだと、ナハが言っていたよ。 極僅かといえど、この量で、ナハの一年分の稼ぎになるんじゃないか? ――あの酒も、なかなか高級そうな毒酒、だったろう?』
闇中に姿を現し終えると、カナルは愉快そうに、切れ長な緋色の瞳でラスターを見下ろした。
「――そのようでしたね」
『〈聖血の器〉に効く毒の研究でも、するつもりかね、金の掛るこった。 しかし、常人と異なるというは、こういった場合、便利なものだろう? ユーシィス。 それとも――他者と同じように、"アラスター"と、呼んだ方がよいか?』
「御随意に」
カナルは、しばし無言でラスターを見据えると、額に掛る黒髪をかき上げ、皮肉げな笑みを浮べた。
『相変わらず、可愛げの欠片もないガキだ。 見かけも中身も、いけ好かないシーラと、実によく似ている。 花の如く麗しい容貌、柳の若木の如き肢体。 その内に隠された、毒と荊の棘。 お前らは、内面の毒がなくなれば、美しいその外面にも、陰りが出るのであろうな』
語りながら、カナルは灯明の灯りの届く場へと、足音無く姿を移動させていく。
褐色の肌に白い衣を纏ったカナルの、艶やかな黒髪に縁取られた彫りの深い、鼻筋通る華やかな顔立ちは、彼女の強烈な意志の強さを如実に表している。
『ま、そんなことはこの際どうだっていい。 ――調べてきてやったぞ』
それまで浮かべていた笑みを引くと、カナルは腕を組み、ラスターを見据えながら話を始めた。
『ナハが捕らえた〈狩り人〉の話によれば、このキトナ大神殿の地下が〈聖神聖教〉の地下教会となっている。 といっても、仮のようだがな。 大神官が、東方の教区長を務めている。 〈狩り人〉の長は〈総帥〉と呼ばれる老いた女で、その女の指示で、聖獣狩りを行っているという話だ。 総帥は、お前が察した通り、精霊王殿より、あの"二宝"を持ち出した、件の巫子だ』
「――姿を、確認されたか?」
ラスターの声は平坦であったが、青の瞳に、極僅かだが揺らぎが生じた。
『見たから断言している。 かなり衰えておったが、あれはあの巫子に間違いない。 しかし、流石なお前も、ここでそんな奴と出くわすとは、想像していなかったようだな?』
ラスターは寝台に腰を下ろすと、膝の上で両手を組み、思案気に瞳を伏せた。 カナルはラスターの正面に立つと、右の指二本を己の眉間に当て、同じ指でラスターの額に触れた。 一拍の後、額に触れたカナルの指先が、ぽぅと、淡い光りを放ち始める。
『地下の見取りだ。 一度しか見せん。 しっかり頭にお入れ。 岩牢、地下祭壇、施術の間、屍室、大堂――そしてここがお前の封じられている、西翼地下の独房棟だ。 祭壇の奥には隠し部屋が連なっている。 この部屋は、妙に厳重な呪いが掛けてある。 恐らくは、お前が探し求める奴が、この中にいるのだろうが、下手うって気付かれても面倒だからね、中までは確認をしてはいないよ。 自分で確認をし』
「承知した」
『全ては地下道でつながっているが、余分な通路も多く造られている。 誤った道へ入れば、そこに待ち構えている屍獣や小物の魔の者に襲われる。 この地下は、まるで迷宮だ。 〈地の者〉であるあたしすら、容易に忍び込ませぬ程、奇怪な結界が蜘蛛の巣の如く張り巡らされている。 糸に触れずお前の居所を探し当てるにも、苦労させられたよ。 ここには、ロクでもない術師がいるようだ。 人間のみならず、精霊であろうと、この地下に忍び込めば絡め捕るつもりの、強欲な毒蜘蛛がいる。 そやつはあろうことか、捉えた〈地の者〉を、屍体に封じて仮魂にしているらしいが、我等〈地〉への、許し難い行いだ。 捨て置けないね』
ラスターを見下ろしながら、カナルは吐き捨てるように言い放った。 怒りに近いその表情は、カナルの艶やかさを引き立てる。
「これしきの結界、貴女ならば破るは容易かろう」
『あたしはキソスでは余所者だ。 キソスの〈地の者〉を措いて、あたしが先に何かを起こすは、我等〈地の者〉の礼に反する。 地の長であるナハが、礼を尽くしてキソスの者に協力を仰いでいるよ』
「〈地の四王〉の一人である貴女が、下位の者への礼をそこまで重んじるとは、少々意外ですね」
無表情に言い放ったラスターの言葉に、カナルは眉を上げ、明らかに不機嫌となった。
『他人の働きを恃んで、自ら虜になり、楽をして乗り込んだ奴がよくもお言いだよ。 まあ、いい。 すぐにでも動けるよう、このあたしが、下見をしてやったんだから、さっさと行動に移して、結果をお出し。 イリスミルトの小娘とお前の連れの小僧が、蜘蛛の巣に掛っているようだったぞ』
ラスターは伏せていた瞳を上げ、カナルに視線を向けた。
『お前の相方の有翼獣を探しに忍び込んだのだろうさ。 イリスミルトに頼まれて、ナハが面倒をみるとは言っているが、あれは謀殺は出来ても、立ち回りには向かん』
「無理をせずともよいと、ナハには伝えてあります。 カナル、御助力感謝する。 だがここからは、貴女の半身を守る事にのみ、徹されるがいい」
ラスターの言葉に、カナルは片眉を上げた。
『娘はともかく、小僧は、奴等が何も気付かぬままなら、殺されかねんぞ』
「ここで果てるならば、あの者の命運はそれまでだったということ」
カナルは、伺うようにラスターの顔を見据えたが、その表情に何ら変化は現れない。
「ナハは何処に?」
『――西郊外の丘だ。 旧宝物庫から地下に向かっている。 あの丘に居る〈地の者〉の話では宝物殿の扉を押し開いて、子供が入ったと言っておったのでな。 エアルースもあちらの入り口を勧めた。 ユーラの愛馬だった奴が言うのならば、まずは確実だろうさ』
カナルは腹立たし気に言うと、ラスターの顎に指をかけ、上を向かせた。
『――お前。 子供達を、"奴"を誘き出す餌に、しようというのではなかろうな?』
ラスターはカナルの指を外すと、閉じられている扉に視線を向けた。
「――子供達が、既に見つかっているのならば、ナハにも危害が及ぶ。 貴女も早くナハの傍へ戻られた方がいい」
『お前などに言われずとも行くさ。 だがな、ユーシィス。 ――いや、アラスター。 お前にとって、その子供は、容易に切り捨てられる存在ではあるまい? もう少し、己の心底を見よ。 おまけにその子供。 万一、あの巫子の目に触れれば、正体が知れるは必至であろう? 利用されるぞ』
「その時は、あれ共々、私の手で始末を着けるまで」
さらりと言い放ったラスターに、カナルは眉を顰め、厳しい眼差しを向けた。
ラスターの鮮やかな青の瞳は、燭台の炎を映し揺らめいていたが、その表情は何を考えているのか計りかねる静けさである。
カナルは目を伏せ、大きくため息を吐くと、眉間を指で押さえながら舌打ちをした。
『まったく、ナハの気が知れないよ。 こんな冷血無情の輩と、付き合いを絶たないなんぞ、物好きとしか言いようがないね。 まあ、いいさ。 ああ、そういや、渡りの〈風〉に聞いたが、ティルナあたりでは、お前を早く戻したがっているって話だ。 お前の師も、お前を探しているようだ』
ラスターの顔に、僅かだが変化が現れたのを見て、女は艶やかな笑みを浮かべた。
「気になるのなら、まずは、さっさとここでのケリを付けちまいな。 こんな穴蔵の中にいたところで、何ら埒は明くまい? ――縛を解け。 さすれば、こんなチンケな牢など、お前ならば、簡単に出られるであろうが」
カナルの姿は淡く輝きながら薄れ、闇に溶けるように、すぅと、消滅していった。
カナルの去った薄闇を、ラスターは見つめ続けていたが、燭台の炎が、微かな音を伴い揺れたのを機に、足枷の鎖に手を伸ばした。
「――確かに、甘く見られたものだ」
両手で鎖を持ち、左右に引いた。
鎖は、紙縒りでも千切るように、容易に絶たれた。 縛めを解くと、ラスターはゆるりと立ち上がり、鉄扉の前へ歩み寄ると、硬く冷たい扉の表面に触れた。
「如何なる、結末を望むのか――キサ」
視線を手に移すと、ラスターはゆっくりと、両手袋を外した。
露わになった手首から五指の先に至るまで、暗赤色の刺青が、白い肌を綾なしている。
ラスターは右手の甲に左手を重ね、深く息を吐き出すと、静かに瞼を閉じた。
《我、精霊王シーラの血を護りし者。 アラスター・ユーシィス・ディアナ=リージェス=シン=エラノールの《名》において、炎帝サーラムに告ぐ。 汝が霊を宿す我が腕、その封縛を今、解き放たん。 汝、我が声に眼を開き、我が声に耳を傾け、我が声に従うがよし。 古き盟約の下、今、この時より、我、汝が力を我が力とせん――》
詞を終えると、ラスターはゆるりと瞳を開き、右手を黒い扉に当てた。
次回、〈5:逃走〉に続きます。