3:操骸師
3:操骸師
「カラ、大丈夫なのっ。 カラっ」
アルフィナの叫びが耳に入り、カラは身体の痛みに顔を歪めながら、周囲を見回した。
何が、自分の腹を殴ったのかを確かめたかったが、四つの赤い光が周囲をゆらゆらと漂っている以外、何者の姿も、カラの瞳には映らなかった。
「カラ、ねぇ、何処? 何処にいるの?」
「――ア……こ、こ――」
返事を返そうとしたが、腹と背の痛みが酷く、思うように声が出せなかった。
オスティルの光が消えた闇の中に、アルは一人、身体を強張らせ立っていた。
幾つもの赤い光が、アルを取り囲んでいることが、痛みに霞む目に映った。 闇中で目が利かないアルにも、赤い光に囲まれていることは見えるらしく、不安げに周囲を見回している。
目に見えない透明な蝋燭に、見えない手が火を灯していくかのように、赤い光は突然ポッと空間に現れ、ゆらゆらと彷徨うように、二個一対で動き始める。
赤光の数が増えるに従い、地鳴りのような、低くうねる音が、通路内に重く響き始めた。
地鳴りは次第に、様々な獣の唸り声へと変化し、赤光は、闇中で輝く獣の眼であることが、明らかとなった。
「なんで――どこからこんな数の獣……」
カラは、自分が今見ている光景が信じられなかった。
獣達は、穴一つ開いていない岩壁や何も無い空間から、突然すぅと、湧き出してくる。
現れて直ぐの身体は、限りなく透明か半透明だが、しばらくすると、絵筆で着色されるように、身体が色を持ち、はっきりと目に見えるようになる。
「う――な、なん、いったい――……」
獣の数は見る間に増え、終には、カラとアルの間に壁を作る程の獣が現れていた。
鼠、猫、犬、鹿、熊、猿、鴉、梟――ありとあらゆる獣がそこには存在した。 どの獣も、低い唸り声を漏らす程度で、吠えたり鳴いたりするものはなかった。
「カラ。 いるんでしょう、返事をしてっ」
アルの再度の呼びかけに、呆然としていたカラは、はっと我に返った。
「アル。 ここ、ここだよ――」
痛む身体をゆっくり動かすと、カラは四つん這いにまで身体を起こし、ふと、前を見た。
「――……な」
鼻先に、巨大な牙があった。
生臭い、赤黒い口から剥き出された、獰猛な肉食獣――狼の牙だった。
その長い鼻面には、威嚇のシワが深く寄り、鼻面の上では、熾のようにちらちらと輝く赤光が眼窩で揺らめき、カラを見据えていた。
視線を僅かに横にずらすと、同じ凶暴な口がもうひとつ、カラの喉笛を狙うように、牙を剥き、長い唸りを上げていた。
「――っ。 な、なな、なん――……」
カラは、ひっくり返るように座り込んだ。
二匹の大狼の威嚇に身体が竦み、頭を動かすことすら出来ず、目だけで自分の回りを見た。 いつの間にか、カラはぐるりと囲まれていた。
大狼の足下には、大型の鼠がたむろし、背後には狐や猫、熊といった獣が控えていた。
それらの獣達からは、独特の体臭が漂っていた。 薬草の苦く青臭い香りと、肉が腐れたような、胸の悪くなる腐臭とが混ざりあった、禍々しいまでの悪臭だった。
込み上げてくる吐き気に、涙目になりながらも、カラは腕で口元と鼻を覆い、獣の様子を更に観察した。
カラの眼前の大狼は、二尾を有し、見事な銀毛に覆われていた。 アルの傍に立ち頭を下げている大鹿は三本の角があり、五尾の狐の毛は、雲のように真白だった。
何れの獣も、カラが知っているものより身体が大きく、優れた姿形をしている。
しかし、獣の腹には決まって、赤黒い不吉な穴が開いていた。
まるで、そこから何かを取り出したように、腹の周囲の毛が、どす黒く染まっている。
獣の口は、どれもだらしなく半開きで、舌が垂れ下がり、唾液のような汁が滴り落ちている。
それらの窪んだ眼窩に、眼球はなかった。 そこにはただ、赤い光が、熾のようにくすぶり宿っているだけだった。
カラの背に、ぞっと寒気が走った。
昔聞いた物語の中に、世を拗ねた老術師が、死んだ人間や獣の死骸に偽りの魂を込め、自在に操り、自分に従わない人々に害をなす、という話があった。
これらの獣は、カラの思い描いた〈死した獣〉にそっくりだった。
この獣達は、死んでいる――。
カラは、そう確信した。 どの獣も己の足で動き、カラを、そしてアルを、牙を剥き威嚇している。 だが、彼等は生きていない。
言い知れない恐怖が、カラの身体を締め付けた。 鼻を突く異臭と、腹を血に染めた獣達の姿に、吐き気を覚えた。
物語と同じだとしたら、この死した獣達を操る術師が、どこかに隠れているかもしれない。
早くここから逃げなければ、と、気ばかりが急いたが、身体が強張り、思うように動けない。
「カラっ、どこ? もっと大きい声で応えて。 どこなのっ?」
アルは張り詰めた声で、カラを呼び続けていた。
ごくりと唾を飲み込むと、カラは大狼の動きに神経を集中させ、恐る恐る立ち上がった。
二匹の大狼は、カラの動きを見据えたまま動かなかった。 だが、立ち上がったカラに、足下の鼠達が次々と飛び付き、腕や足を齧り始め、上からは、大鴉が耳障りな鳴き声を上げながら、首筋や耳を鋭い嘴で突付き始めた。
「い、痛いっ、や、やめっ、やめろよっ」
カラは必死に、鼠と鴉を追い払いながら、なんとかアルの傍に歩み寄ろうとしたが、次々と襲ってくる獣達に邪魔をされ、アルの姿すら、なかなか確認できずにいた。
「カラ、どうしたの? この声、鴉? いったい、何があってるのっ?」
カラの声を聞き取った事で、僅かにでも安心したのか、アルの声はほんの少し潤んでいた。 カラは必死に身をよじり、獣達の間を数歩すり抜け、横目でアルの姿を確認した。
「ア、アルっ。 こっち、ここにい――てっ、いててっ、噛み付くなよっ」
「噛み付くって、いったい何が起こっているの? この声、すごくたくさんの獣の声――それにこの臭い。 周りで赤く光っているのは、獣の目ね? さっきから、私の身体を押し続けているのは、獣の頭なのね?」
カラの声が上がった方角に、アルは声を張り上げ呼びかけた。 赤い光取り囲まれている事は分かっているが、目の利かないアルは、その姿を見ることが出来ずにいた。 見えない何かが、自分の身体を前に進ませまいと押し続けるので、じりじりと、アルは後方に下がり続けていた。 だが、自分に危害を加える気配は、全くと言ってよい程感じられなかった。
「ア、アル――動かないでっ。 そう、なんだっ。 すっごくたくさんの獣が、オレ達を取り囲んで――痛っ」
「カラどこ? あんたはあたしが見えるんでしょう?」
「こっち、君の右斜め前――痛っ、噛むなっ、突付くなっ」
悲鳴交じりの声を頼りに、アルは目を眇め、カラの姿を見出そうとしたが、赤光の乱舞する以外、全ては闇に塗り込められ、見ることは出来なかった。
「カラ、叫び声でも何でもいいから、声を出してっ。 あんたの声で居場所を――っやっ、なに――……」
アルの声は、言葉の途中で呻きに変わり、全く聞こえなくなった。
「アルっ、どうした――」
鼠と鴉を追い払ったカラは、ようやくアルの立つ場所へと視線を向けた。
目に飛び込んだのは、灰色の男に口を押さえられたアルの、ぐったりとした姿だった。
亡霊のように痩せやつれた男は、アルフィナを右腕に抱えながら、眼鏡をかけた骸骨の如き顔を、俯き気味にカラに向けていた。
「あ、あんた……だ、誰だよ。 アルに何を――」
カラはよろめく様に一歩、足を踏み出した。
灰色の男は、空いている左手を胸の前で、右から左へ、水平にすぅっと動かした。
すると、それまで何の行動も起こさなかった大狼が、突然激しい唸りを上げ、牙を剥き、カラに飛び掛って来た。
とっさに身をよじり、喰い付かれるのを寸ででかわしたが、頭を下げ、牙を剥き出し、じりじりと迫ってくる大狼に、カラは壁際まで追い詰められ、アルに近付くどころではなかった。
うろたえるカラの正面から、くっくっと忍び笑う声が聞こえた。
頭を上げると、男が愉快そう、大狼に追い詰められたカラを見ていた。
「あ、あんたがこいつらに命じてるんだろ? な、何なんだよ、あんた。 アルを離せよ。 アルっ、アルっ。 目を開けてよっ」
カラは拳を握り締め、アルに呼びかけ続けた。 しかし、アルは完全に気を失っているのか、だらりと身体の力が抜け、目は閉じたまま、指先一つ動く気配はなかった。
離れているためか、まるで、息すらしていないように、カラには見えた。
すうっと、血の気が引いた。
頭の芯が痺れ、視界が薄く霞んだ。
少しでもアルに近付きたかったが、二匹の大狼は、牙を剥き出したままカラ威嚇し続け、動く隙を与えてはくれない。
「アルを離せ、アルを離せよっ」
焦りと怒りに唇を噛みながら、カラは男を睨みつけた。
蒼白く頬の削げた顔に、丸い銀縁の眼鏡をかけ、ゆったりとした長衣を着ていてもなお、ぎすぎすと痩せていることが判る身体は、酷い猫背をしている。
髪は、白髪に黒髪が交じる斑様で、着ている長衣も腰帯すらも、全てが色褪せた灰色をしていた。
足で立ち、アルを抱えているからには、生きているに違いないのだろうが、死人と見間違うほど、まるで生気というものを感じられなかった。
目線は、確かにカラに向けられているが、本当にカラを見ているのか判らない、虚ろな目をしている。
「聞こえてるんだろっ。 アルを離せよ。 あんたいったい、何なんだよっ」
声の限り、カラは怒鳴った。
カラの怒る様が面白いのか、猫背の男は口を左右に引き、引き攣れた笑い顔を作った。
「――君、人間なの?」
一瞬、誰が喋ったのか分からなかった。
あまりにしっかりとした、明るい声だったので、いま目にしている男の口から発せられた声なのだと、カラは分からなかった。
「そんなに透けている身体、始めて見たよ。それにその瞳、オスティルの瞳だ。 生きている状態で、初めて見たよ。 本当にこんな闇中でも、見えているんだね? それ、君の生まれながらのモノなんだろう? ――ああ、ごめん。 その前に質問に答えなきゃだね? 僕はセナといってね、〈操骸師〉を生業にしているんだ」
セナは、俯きぎみだった顔を上げ、カラの顔にはっきりと焦点を合わせた。
「そ、そうがいし――?」
「術師の一種だよ。 〈屍術師〉とも言われているけどね。 この獣達。 死んでいるんだ。 可哀相にね、ただの屍体として、捨てられる運命だったんだ。 でも、綺麗だろう? このまま打ち捨てられ、朽ちていくなんて、可哀相だろう? だからね、屍体に薬を塗って腐敗を遅くして、抜けてしまった魂の代わりに、捕まえた小精霊を入れるんだ。 そうすると、ほら。 この獣達のように、また自分の足で動く事ができるんだよ。 ――もっとも、自分の意思では、動けない。 僕の命じたままにしか、動けないのだけどね。 だから、僕はこの獣達にとっては親みたいなもの。 それとも、エランのような、神、のような存在かも知れないな」
目を細め、うっとりと笑うセナを、カラは拳握り、睨みつけた。
「ねえ、君。 ひょっとして、大きな呪いを受けているのじゃない?」
「な、なんで――……」
"呪い"という言葉に反応したカラに、セナは口の端を上げ笑った。
「ふふ。 その透けた身体。 ひょっとして、《影》、ないんじゃないの? そうだ。 君、《名》は? ちゃんと持っているのかな? 僕に君の名前を、教えてくれるかい?」
セナは眼鏡越しに、カラを値踏みするように見回した。 カラは、セナに自分の呪いを知られては危険だと感じた。 理由などはなかったが、普通の人に知られる以上に、危険なことに感じられた。
「ア、アルを離せ。 早くアルを離――っ」
言葉を言い終わらぬ内に、カラは左腕に、激しい衝撃を受けた。
一匹の大狼ががっちりと、カラの左腕に喰らい付いていた。
腕を咥えた大狼は、腰を落としてカラを引きずり、時に頭を激しく振って、カラが力尽きるのを早めようとした。
引きずり倒そうとする大狼に、カラは力で抗ったが、鋭い牙が腕の皮膚を割き、肉に喰い込み、骨が軋んだ。 あまりの激しい痛みに、カラは堪らず悲鳴を上げた。
その様を、セナは笑って見ていたが、しばらくすると、口の中で何かを呟き、右から左へ、手を水平に払った。 すると大狼は突然口を開き、カラの腕から離れると、数歩後ろに下がり、もう一匹と共にべたりと地に伏せた。
開放されたカラも、地べたに座り込み、腕を押さえ、蹲り呻いた。
「人の質問に、ちゃんと答えないから、罰をうけるんだよ。 ま、今回だけは、これくらいで大目に見てあげるよ」
セナはくっくっと笑いながら、カラを見た。
カラは唇を噛み、血の滴る腕を押さえながら、痛みに眩む目でセナを睨み上げた。
セナは、ぐったりとしたアルを抱え上げると、すぐ傍に控えていた三本角の大鹿の背に、うつ伏せにアルの身体を乗せた。
「――アルを、どうするつもりだよ」
カラはよろめきながら立ち上がり、アルに近付こうと足を踏み出した。 だが、カラの動きに合わせる様に、大狼も立ち上がり、再び牙を剥き、カラを威嚇し始めた。
「このお嬢さんは、お招き予定の客人のようだから、お連れするんだよ。 何か問題でもあるかい?」
アルを乗せた大鹿の首を、セナがポンと叩くと、大鹿はゆっくりと歩み出し、数歩も歩まないうちに、その姿は闇に溶け、消えていった。
「だけど――君は、招待客の名簿には載ってないみたいだから、本当は僕、君を始末しなければいけないのだけど」
セナは、乾いた薄い唇を舐め、カラをじっくりと、宝物でも鑑賞するように見つめた。
「君、とても面白いから、僕が、君をお持て成ししようかと思ってね」
カラはこの時始めて、眼鏡の奥の、瞳の異質さに気が付いた。
先から、セナは一切の光がない闇の中で、間違いなく自分を見て、話している。
「あ、あんたの瞳――」
セナは眼鏡を指で下ろし、瞳を見せた。
金色――だった。
「これ? そうだよ。 君と同じ、オスティルの瞳だよ。 もっとも、僕の元の目は茶色、だったかな? もうずいぶん昔に捨ててしまったから、よくは覚えていないけれど、面白くない、ただの目だった」
「元の目って――」
「この素敵な瞳は、貰ったんだ。 だって、死んだ人にこんな宝物、要らないだろ? 我ながら上手に取り外して付け直せたと思うよ。 傷が入ったらお終いだからね。 でも、悔しいな。 やっぱり本物の、生来の持ち主だと、その瞳は光り輝くんだね。 僕のは金色というだけだ。 ああ、話に聞いたとおり、満ちた月の輝きだ。 皓皓とした、闇を照らす美しい宝石だよ。 君のは、僕のより断然質がいい。 同じオスティルでも、等級が全く違う。 だけど、君。 まだ半分も、使い方を知っていないようだね? なんて、もったいないことだろう」
セナは謳うように、言葉を吐き続けた。
セナが喋っている間、カラは身じろぎひとつできずにいた。 大狼に噛まれた傷が熱を持ち、激しく脈打つ。 傷から生じる熱が全身を火照らせ、脂汗が流れる。
「本当にさ、生きていると、いいことがあるよね――」
言葉を止めると、セナは再び、胸の前でゆっくりと、左手を払う動きを始めた。
***
地下大堂より西に伸びる地下道を、レセルは大股に歩いていた。
地下道は大堂を起点に、キソスの町の地下に、蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
町の地下を、縦横無尽に伸びる地下道を用いれば、一度も地上に出ることなく、キソスの何処へでも行く事が可能だった。
だが、この秘密の道を通ることが出来るのは、大神殿に深く関わる一部の者だけで、町の人々は、その存在すら知りもしない。
地下道は迷路の如く、幾本もの道が複雑に交差しており、もし、道を知らぬ者が進入すれば、目的地にも、元来た道にも戻れなくなる危険があったが、現在レセルの進む道は、枝分かれすることなく、ひたすら真っ直ぐ進めば目的の空間に辿り着く、この地下には珍しい単純な道であった。
固い岩盤を掘り抜いただけの壁面は、ごつごつと粗く、手燭の灯りに照らされ、ゆらゆらと、歪な影を作り出す。
あまり動く事の無い空気は凍え、意思を持つかのように、地下を行く者に覆い被さり、凍えた圧力で歩みを遅くし、じわじわと体温を奪っていく。
目的の空間が近付くと、レセルは僅かに眉を寄せた。
流れの乏しかった地下道の空気が動き、独特の異臭が漂い始める。
様々な薬草と、その陰に紛れた血の臭い、そして腐敗臭。 幾度嗅いでも、胸の悪くなる臭いだった。
目的の空間――操骸師の部屋の扉を、レセルは三度敲いた。
内からは、何の応えも返って来なかった。
「セナ。 おらぬのか?」
いま一度扉を敲きながら、レセルは部屋の主の名を呼んだ。 しかし、やはり応えはなく、止むを得ず、レセルは鍵の無い扉を開いた。
扉が開かれた途端、燻らせた香煙と共に、例の悪臭が、レセルを迎えた。 眉を顰め室内に入ると、部屋の主であるセナは、次部屋の中央に描かれた円陣の真ん中に、目を見開いたまま倒れていた。 円陣の周囲には、香と塩を載せた皿が置かれ、セナの口には、半透明の石が咥えられていた。
「――飛魂の術か」
レセルは、呪術の知識はほとんど無かったが、セナが現在、魂だけを別場所に飛ばす術を行っていることは分かった。
灰色の長衣を着た、骸骨と見紛いかねない風貌の操骸師は、この広大な地下空間に入り込んだ異物を、処理する役割を担っていた。
侵入者が現れた場合、セナは実体を残し、魂だけで侵入者の元へ行き、始末するのだとオリ=オナは言っていた。
――では、あの蛇の男が言った侵入者は、真にあった、ということか――
地下大堂で、レセルとオリ=オナが話していた最中、蛇顔の男が現れ、地下に侵入者があった事を告げた。
一人は、旅籠の娘であることを、蛇顔は確かな口調で報告したが、いま一人のこととなると、蛇顔の記憶は曖昧になった。
子供であったと、蛇顔は開口一番に告げたが、話している内に、それが本当に子供だったのか、他の何かだったかも知れない、と、曖昧で要領を得ない内容に変化していった。
ただ確かな事は、旅籠の娘と行動を共にしている何かがいる、ということだった。
蛇顔の報告を聞いたオリ=オナは、レセルに地下の番人であるセナの所へ行くよう命じた。 セナが術の最中であれば、侵入者は確実にいたことになる。
「まだ、捕らえられてはおらぬか」
室内に、子供の姿がない事を確認し、レセルはふっと、肩の力を抜いた。
旅籠の娘は、決して殺される事はない。
この地下に集う全ての者は、あの娘を傷付けることなく、オリ=オナの元へ連れて行かねばならないことを周知している。
それに対し、他の侵入者は、如何なる者であれ、生きて地上に出してはならぬと厳命されている。
だが、オリ=オナは「娘と共に進入したものを、生きたまま、ここへ連れて参れ」と、レセルに命じた。
――あの蛇の男の報せの、何が心に掛ったのか――。
寸前の出来事であるにも関わらず、蛇顔の記憶は混乱し、話す内容は支離滅裂で、レセルは信憑性に欠けると感じた。
娘が侵入してきたのが旧宝物庫から、という話が、まずあり得ないことだった。
三階の破損部までよじ登らない限り、子供が宝物庫側から侵入することは考えられない。 破損部まで登りきること自体が、握力の乏しい少女には、到底不可能な行為である。
蛇顔は、「大扉を開けて入ってきた」と言い張っていたが、大人六人がかりでようやく開く事の出来る重い鉄扉を、子供が開けることなど、出来よう筈もない。
だが、そのように指摘をしても、蛇顔は、そちらから侵入してきたのだという主張を曲げなかった。
――老師は何かを、気に留めた。 娘のこと以上に、もう一方の侵入者に、大きな注意を向けていた。
「あの娘が、行動を共にする者――」
ひとり呟きながら、円陣の中に倒れているセナに視線を移すと、セナの足下に描かれた紋様のひとつが、淡い光りを放ち始めた。
見る間に、光は柱の様に天井まで伸び、床の紋様部には黒い洞が生じた。 しばらくすると、洞の中心から、ずるりと、三本角のある大鹿が姿を現した。
現れた大鹿の眼窩に眼球は無く、時折、熾の如き赤光が、頼りなげに明滅をしていた。 足取りは覚束なく、今にも足を折り倒れそうだった。 腹に開いた黒い穴から、時々ぼたりと、赤黒い塊が落ちる。 それは、崩れ落ちた肉体の一部だった。
「屍の鹿――操骸の禍術か」
レセルは眉を顰め、大鹿から視線を外そうとした瞬間、長い髪を編んだ少女の姿を、大鹿の背に認めた。
「アルフィナ――」
レセルは大鹿に寄り、背の少女を下ろそうとした。 しかし、レセルが陣内に足を踏み入れた途端、大鹿の眼窩の赤光が燃え立ち、頭を大きく上下させ、巨大な角を突き付けるように、レセルを威嚇し始めた。
大鹿の急な動きで、背に乗せられていたアルフィナは床にドサリと落ち、小さな呻き声を上げたが、閉じた目を開けることはなかった。
大鹿は、身軽になった身体を大きく振るわせると、天に向けて鼻をひくつかせ、いびつな奇声を上げると、レセルに突進してきた。
レセルは大鹿の突きをかわすと、すれ違いざま腰の大刀を引き抜き、大鹿の首を深く斬った。 大刀の刃は厚く、大鹿の首に正しく切り込んだが、一太刀で落とすには、大鹿の首はあまりに大き過ぎた。
大鹿は、斬られた傷からどろりとした赤黒い液体を流した。 それが床に落ちると、部屋に漂う悪臭はより濃厚になった。
深手を負いつつも、大鹿は何も感じていないかのように、ぐらつく頭を振り、再びレセルに突進を始めた。
レセルは大鹿の突きを寸ででかわすと、中央の角を掴んで大鹿の身体を押さえ込み、半ばまで斬れた首を、一気に掻き切った。
大鹿の頭はごとりと床に落ち、身体は、糸の切れた操り人形のように、ぐしゃりと床に崩れ、動かなくなった。 首を掻き切る際に、頬飛んだ液体が熱を放ち、皮膚を焼かれるような痛みが走った。
「まさに毒だな――」
レセルは袖口で頬を拭いながら、床に倒れているアルフィナの傍に寄り、膝をついた。
アルフィナの顔は蒼白く、あちらこちらに擦り傷を負っていた。 乱れた髪の中から、行く筋かの白い髪が見え隠れしている。
「――無謀な事を……」
額に乱れかかった髪を梳いてやりながら、レセルはアルフィナの顔を見つめた。
幼い頃から気が強く、男顔負けの行動力を見せる娘には、いつもすり傷が絶えないと、娘の祖母がこぼしていた。 この気の強さは、いったい誰に似たのかと、苦笑しながら話していた。
――彼女も、思いがけぬ行動をすることがあった。
眉間の傷が鈍く疼いた。
瞼を閉じると、赤く染まった床に倒れる女の姿が、まざまざと甦った。
頭を振り、レセルは記憶を払い落とすと、アルフィナを抱え起こした。 この時になって、少女がいつも首に下げていた、銀細工の鎖がないことに気付いた。
「騒ぎの中で、落としたか」
円陣の中央のセナは、大鹿の騒ぎがあってもなお、意識の戻る気配は無く、見開いた虚ろな目を天井に向け続けている。
――未だ戻らぬということは、やはり他にも侵入者がいた、ということか――。
レセルは、いま在る部屋の奥に連なる、薄暗い一室に視線を向けた。 薄闇の中で、不安定な赤い光が瞬いていた。 獣の弱々しい唸りが、切れ切れに聞こえてくる。
アルフィナが、あの地下に忍び込み求めたものは、一つしか考えられない。 師と慕う騎士に従う、聖獣グリフィスの奪還。
それならば、アルフィナと共に忍び込んだ者もまた、同じ目的を持っているに違いなかった。
「岩牢か――」
レセルは、アルフィナを部屋の隅に横たえると、円陣の中心にあるセナを見据えた。
次回、〈4:地下牢〉に続きます。