12:目覚め
12: 目覚め
いま自分は、眼を開けている。
けれど、起きているのか、夢を見ているのかが、判らない。
眼にしている光景が、現実に、自分が見ているものなのか、
夢の中で、漂うように見ているものなのか――。
「――オレのこと、知ってるの?」
満面の笑みで、手を差し伸べるナハという男に、カラもおずおずと手を伸ばした。 初対面にも関わらず、緊張や警戒心を全く抱かせない。 カラには、初めての経験だった。
ナハの褐色の大きな手が、カラの小さな白い手を包み込むように握る。 やはり、温かい。
「うーん。 知っている、という程ではないけれど、君のことはアラスター殿から聞いていてね。 あと、イリスからも少し。 君とアルフィナの仲の良さについて、とか」
楽しい事を思い出したように、ナハは眼を細める。 嫌味のない、素直な笑顔だった。
「アラスターって、ラスター? イリスさんも知ってるんですか? えっと――ナ、ハ……さん?」
「ナハ、でいいよ。 まあ、相互理解はここを出てからゆっくりすることにして、差し当たって今は――」
カラの頭をくしゃと撫でると、ナハは、カラの胸元で淡い光を放つ貴石に視線を落とす。
「その〈映月石〉は、アルが持っていたものだね? ちょっと、私に貸してもらえるかな」
カラは思いだしたように、銀細工のペンダントに手をやると、首から外し、ナハの手にそっと乗せた。
アルから渡された時には光っていなかった貴石は、オスティルよりは弱いものの、月の光のような、丸い輝きを放っている。
ナハはユーシュに左手をかざすと、瞳を閉じ、耳慣れない言葉を低く呟いた。
ユーシュは一瞬、白く燃え上がるように輝き、そして再び優しい月の光に戻る。
土色の瞳を開け、ナハは満足げに頷く。
「これを、アルの首に戻すことを、カラ、君に頼んでいいかな? 閉ざされた扉の、奥深くに眠らされているアルが、驚いて目を覚ますくらい大きな声で呼びかけながら、ね」
ナハはカラの手にユーシュを戻しながら、視線で、頭を抱え床に蹲っているアルを示す。
「これを戻したら、呼んだら、アルは元に戻るの?」
「可能性は高いけれど、成功するかどうかは、君にかかっている――かな? アルは現在、あの偏執狂の術で、とても、とても深い眠りに着かされているんだ。 君の姿も声も、君の知る〈アル〉には全く届いていない。 今動いているアルは、外見はアルだけれど、中身は別人。 別人がアルの身体を、自由勝手に操っているんだ。 さしずめ、留守宅に忍び込んだ空き巣が、家人の不在を良いことに、家人のふりをして、好き勝手している様なものかな? ――外側から密閉された寝室で、深く眠っているアルの身体に、〝空き巣〟の魔物が入り、アルの持ち物――身体を、好き勝手に使っている。 昏々と眠り続けるアルは、それに気付けない。 起きて、寝室から出ない限り、ね」
「空き巣って、グール? グリオルス・ルーンス、ってやつ?」
少し下がり気味の眼を大きくし、ナハはカラを見た。
「よく知っていたね? そう、大した力は無いけれど、凶暴でしつこい、嫌らしい魔物だ。 オスティルの光にだいぶ参っているみたいだけれど、まだアルの身体にしがみ付いて離れていない。 アルの身体を使い、まだ抵抗するだろう。 正直、危険も伴う頼みだけれど、できるかい?」
穏やかなナハの顔を見上げ、カラは即座に肯首する。 不思議な程に迷いはない。
真っ直ぐ見上げる金の瞳に、ナハは破顔し、カラの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「いい瞳だ。 その君の思いが、アルに届くかどうかが勝負だ。 ユーシュは、閉ざされた扉を開け、アルが眠る闇間に光を射す。 けれど、それだけでは呼び戻す事は出来ない。 ユーシュの光を届け、アルの瞼を開かせ、元いた世界へ援け導く者。 それがカラ、君だ。 そうだな――さしずめ、魔物に囲まれた城の、奥深くで眠るお姫様を救い出す騎士、といったところだね。 重要な役目だよ」
切迫した状況のはずだが、ナハの落ち着きある声と、どこかのんびりした穏やかな笑顔が、カラに安心と力を与える。
ユーシュを握り締めると、カラはオスティルの短剣を腰帯に吊るしていた鞘に戻す。
剣で、アルフィナを傷付けはしない。 自分の思いで、アルを呼び戻してみせる。 そう、決意した。
だが、行動に出ようと顔を上げた途端、灰色の物体が視界に落ちてくる。
投げ捨てられるように、ドサリと落ちて来たそれは、操骸師セナの骸骨のような身体。
見開かれた瞳に、金の色はない。 どころか、眼球自体がなかった。
『ちっ、こやつ〈器〉を捨てて逃げおった。 小癪にも、近くに次の〈器〉を置いていたと見得る。 ナハ、準備をおし。 こやつ去り際に、残りの死獣共を集結させおった』
女の、怒気に満ちた声が飛ばされる。
突然、ズゥンと突き上げるような振動が足下から襲い、続いて、不気味な地鳴りが、岩岩の間から滲み出してくる。
慌てて周囲を見ると、赤い眼の死獣・死魔獣が、石壁や床からズルズルと、次々に這い出して来る。 これまで倒した数の、軽く倍以上はいる。
「次の〈器〉を準備済みとは、相変わらず周到で、逃げの上手い奴だな。 そうまでして、生きたいのかねえ――。 しかも、この数。 せめて、見て楽しめる姿ならまだいいが、見た目も臭いも最悪だ。 こういった存在とは、あまり長く一緒の空間に居ないほうがいい。 それに、こいつらがいたら、君の任務の妨げにもなるね。 おまけに、せっかくの清めが台無しだ」
ナハは、ほんの一瞬笑顔を消し、「ふむ」と唸った。
「カナル。 あいつに逃げられたのは腹立たしいところだけど、追うのは後回しにして、この地下が崩れないように、しっかり支えていて貰えるかい? 皆が一緒に潰れてしまっては、元も子もない」
いつの間にか、ナハのすぐ脇に現われたカナルという女は、切れ長の緋色の瞳でナハを睨む。 長い黒髪が、意思を持つようにうねっている。
『この広さを、あたし一人で支えろとは、簡単に言うじゃあないか? まあ、いい。 だが、〈半刻〉で終わらせなけりゃあ見限るぞ。 キリキリやっちまいな。 岩牢の中の獣共は、護ってやる。 お前はまず、そっちに集中しな』
壁や床からは、ナハと、カナルが話している間にも、死魔獣が湧き出している。
カラに一番近い、巨大な双頭の死狼が咆哮を上げ、虚ろな赤の眼でカラを見捉える。 背後に連なる死獣達も、猛り狂ったような声を上げる。 幾重にも重なる獣達の咆哮は、周囲の岩陰を振動させ、岩牢の中の、生きた獣達の恐怖を煽り、空気を緊張させていく。
音の大渦に、地下は飲み込まれる。
空気が、生死を問わぬ獣達の叫びでビリビリと揺れ、先程までの清らかで心地よい空気が、再び濁り淀んでいくかに感じられた。
ふいにナハは膝を折り、地に手を触れ、三つの詞を口にした。 それから、手近に落ちていた子供の拳ほどある石塊を握り立ち上がると、顔の高さまで持ち上げ、ゆっくりと指を解く。
開かれた、掌の上に見えるはずの石塊は、砕け、砂のように細かく崩れている。
ナハは左手をカラに伸ばし、自分の傍に寄せる。
「私に掴まって、しっかり足を踏ん張っておいてくれるかい? そこの男は、肩の黄色い方が、護ってくれるのだろう?」
背後で、膝を付きこちらを見ていたレセルとナジャに、ナハは肩越しに言葉を投げた。
ナジャは小さな火矢を吐く。 それを見て、「安心だね」と、ナハは眼を細める。
その僅かなやり取りの間にも、死魔獣はカラとナハを取り囲み、未だ蹲っているアルの周囲には死獣が集おうとしている。
「アル――」
駆け出しそうになったカラを、ナハはやんわりと腕を掴み押さえる。
「大丈夫だよ。 今のアルは、死獣にとっては魅力がない。 幸か不幸か、入れられたグールのお陰で、同属のような存在になっているから、襲われるのは私達の後だよ。 あの操骸師が、そう命じているだろうしね。 だから安心して、しっかり掴まって」
笑顔で指示され、カラは再びナハの外套を握り、ナハに寄り添うように立ったが、やはりアルが気になり、そわそわと落ち着かない。
そんなカラを励ますように、ナハはカラの頭をくしゃと撫でた。
「まあここは私と、私の相方のカナルを信じて、任せてくれるかい。 時間が無いから、一気に片付ける。 カナル、後方の奴等は君に任せるよ。 奴を逃がした怒りを、存分にぶつけていいから」
『この期に及んで手抜きかい? ったく、こやつ等はそも、あたしの相手ではないだろうが。 ――まあ、いい。 承知した』
カナルの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
相方の笑顔を見てナハも微笑んだが、視線を眼前の死魔獣に戻すや、それまでの笑顔をすっと消し、険しい眼差しとなる。
それまでの柔らかな印象は、欠片もない。
「〈地〉は、全ての生命の護り。 〈地〉に、僅かの関わりも持たぬ存在は、ない。 それが例え聖獣であれ、闇に潜む魔獣であれ、〈地〉との関わりは断てない。 そのようなものにされる前に、あの者達を止められなかったことを、謝罪したい」
ナハは、瞼を伏せ黙祷した。
ふっと、掌の砂礫に息を吹きかけ、再び握り包み、短い詞を呟いた。 それからゆっくりと瞼を開き、取り囲む死魔獣達を一瞥する。
「〈仮魂〉とされた〈地〉の精霊、〈器〉とされた聖獣、そして魔獣。 何れの自我もなく、操られるまま、生きても、死んでもいない、曖昧な存在であることを強いられるなど、誇り高い君達には、拷問のような日々だったろう――。 死した獣達には、穏やかな眠りを。 〈仮魂〉とされた〈地〉の方々には、〈器〉などに縛られぬ自由を。 本来在るべき地へ、各々が還るための手助けを――」
一呼吸の後、カラの耳に慣れない言葉を、ナハは鋭く発した。
意味は分からない。 ただ、とても強い言葉だと、感じた。
動きは、見えなかった。
ナハが手を、水平に大きく払った事は、現在彼の手が、右後方に広げられている事で分かった。
握られていた手は開かれ、その上に載っていたはずの砂礫は、全く残っていない。
ずぅん、と重い物が倒れる音が続けざまに響く。 視線を上げると、カラ達を囲んでいた死魔獣の身体が、ぐにゃりと力を失い、巨音を伴い床に倒れていく。 不気味に輝いていた赤の眼は濁り、次第に灰に、何も映さない白濁した色へと変わっていく。
よく見ると、獣達の額には等しく小さな穴が開いている。 とても小さな、針の穴ほどのそこから、淡い緋色の光が漏れ出すように覗く。 しばらくすると、穴から丸い光の珠がふうっと舞い出し、宙を数回回転した後、闇へ溶ける様に消えていく。
「――すごい」
カラがあれほど苦労して倒した死魔獣を、ナハは一瞬で、十数頭は倒した。 しかも血を流し、苦しませることなく。
驚きの眼差しを向けるカラに、ナハは元の柔和な笑顔で応じ、ポンと頭を叩く。
「気を付けて。 揺れるよ、かなり」
ナハの言葉が終わらぬ内、ズズゥンと突き上げるような衝撃が足下を走る。
石床を突き破るように、黒いうねる触手が生え立ち上り、後方でまだ動いていた死獣達を絡め取る。
黒の触手に巻き取られた死獣の姿は、瞬く間に黒に飲み込まれ見えなくなる。 姿が消えると、先程と同じ光の珠が、黒い渦の中から吐き出される。
繰り返し、地が大きく揺れる。
黒の触手――恐らくは、カナルという女の髪が、カラには見えなかった死獣か死魔獣を、また捕らえたのだろう。
地が揺れる度に、地下の空気が清んでいく気がする。 まるで、振動で穢れを粉砕し、消し去っているようにカラには感じられた。
見たこともない光景に呆然となっていたカラは、足に力が入らず、幾度目かの大揺れで倒れそうになった。 ナハの手がカラの肩を押さえ、再び転倒を防いでくれる。
「カナル、もう少し控えめに願えるかな? これでは捕らわれた獣達を開放する前に、岩牢が崩れてしまうんじゃあないか? この子達まで、巻き添えにするつもりかい?」
カラを支えながら、ナハはカナルへ苦笑混じりの声をかける。
『あたし、を疑うのかい? ぼさっとしてないで、お前もさっさと次の仕事にかからんか。 小童、お前もだ。 子供だからって、ぼんやりしているんじゃあないよ』
「こ、こわっぱ――?」
困惑したカラの顔を見て、ナハは肩をすくめ笑う。
「ごめんね。 彼女、口もちょっと悪くて――。 でも悪意はないから。 棘があるだけで」
確かに、怒っているような口調であるが、カナルの声に悪意は感じられない。 感じられるのは、痛快なまでの余裕。
「――さて、私はその男を診た後、岩牢の住人達を解放するから、君はアルを。 多分、まだ大きく揺れることがあるだろうから、足下には気を付けて。 それと、グールが離れたらこれを必ず、飲ませてくれるかい? アルの身体を治すために必要な薬だ」
ナハは、小さな小瓶をカラに手渡す。
深い緑色の小瓶一杯に、黒っぽい液体が入っている。 口の中に苦味が甦る。
顔をしかめるカラの肩を、ナハは笑いながらポンと叩く。
「まあ、まずはユーシュをアルに戻す事に集中をして。 君になら出来る。 自分を信じて、諦めないこと。 アルを、頼んだよ」
もう一度、軽く肩を叩かれた。
温かな土色の眼を見返すと、カラは無言で頷き、アルへ視線を移す。
深く息を吸い込み、一歩を踏み出す。
*
歩み出したカラの背をしばらく見守った後、ナハは背後の男と、その肩に座る暗黄色の蜥蜴へ視線を移す。 蜥蜴の額に、第三の眼がある事を確認し、「ふむ」と顎に手をやる。
「カナルが正体を知れないほどの存在、は君かな? 聖獣――火を吐いたからには、火竜……のようだけれど、なんとも評し難い姿だね。 ――額のその眼。 君、もしかしてカラと契約をしたのかい?」
ナジャは大欠伸をすると、フンと横を向き火の粉の混じる鼻息を吐いてみせる。
「そうなんだ。 君、随分と年季が入っていそうだ。 見え難くなっているけれど、背の古傷も、曰くありげだねえ。 ――ふふ、見た目のままではないね、君も。 ところで、私はその男を診たいのだけれど、近付いても、問題はないかな?」
ナジャはそっぽを向いたまま、レセルの肩からするりと下り、少しはなれた場所にどかりと腰を下ろし、再び大欠伸をしてみせた。 一連の動作を見て小さく笑ったナハは、頭を掻きながらゆっくりとレセルへ近付く。
荒い呼吸をしているレセルの手には、未だ大剣が握られているが、持ち上げるだけの体力は残っていないようで、鼻先まで近付いたナハを、上目に睨むのが精一杯の様子だった。 膝をつく石床には、大きな血溜まりが出来ている。
束の間笑顔を消すと、ナハはレセルの視線を真っ直ぐに受け止めた。 上下に激しく揺れるレセルの肩に手を伸ばすと、上体をお構いなしに起こさせる。 苦痛に歪むレセルの顔などには目もくれず、どす黒く濡れた腹部の傷だけを見た。
「――よくもまだ、生きていられたもんだ。 あんた、体力があるな。 耐性も、あるようだが。 しかし、コーテスールの毒尾に貫かれて未だこの状態を保てるとは、大したものだよ」
レセルの傷の周囲を触診した後、ナハは外套の内ポケットから小さな紙包を出し、レセルの顔の前で広げる。
「飲めるか?」
多量の脂汗を滲ませながら、レセルはナハの眼を、険しい黒の瞳で睨み返す。
「――貴様……が、トルサキアのナハ=ラスクス、か?」
ナハはおどける様に瞳を大きくした後、眼を細め、ふふ、と小さく笑った。
「私のこと、知っているんだ。 そうだな、あんたと私は似たような立場だ。 隠したところで噂は流れる。 様々な存在を介し、様々な脚色をされて、ね。 特に同類の間に流れるのは、速い」
眉間に深い皺を刻むレセルと同じ目線まで屈むと、ナハは改めてその黒の瞳を覗き込む。
「アドラのレセル=ホーン。 直に会うのは初めて、かな? ま、私の素性を大雑把にでも知っているなら、この薬も、安心して飲めるだろう? これでも〈薬呪師〉として、大陸では比肩する存在なし、と称えられた一族の裔だ。 半端な薬は調合しないさ。 まあ――毒も薬も、場合によっては大差ない、けどね」
悪戯っぽく笑うと、ナハは握られたままだった大剣を地に置かせ、その手に二粒の丸薬を落すように置いた。
無表情に、掌に置かれた黒い丸薬を見詰めた後、レセルは一飲みにする。 飲み下すのに、少々苦しげな表情を見せたが、薬は確実にレセルの体内へ入った。 それを見届けたナハは満足げに微笑むと、レセルの額に右手をかざした。
「予想外に素直だなあ、助かるけど。 さて、では術に移る。 あんたの身体の時間を、一時、止めさせてもらう。 死の淵の手前まで行って貰うが、その先には行くなよ。 〈光〉と〈闇〉の境界線で留まれるかどうかは、あんたの、〈生〉への執着次第だ。 境界を越えられたら、呼び戻すのは一苦労だから、超えてくれるなよ。 アルに恨まれるのはごめんだ。 あの子は気が強い。 誰に似たのか、知らんがね」
レセルの表情が瞬間険しくなる。 しかし、ナハの口から零れ出した詞に、レセルの瞼は次第に重くなり、視界は暗転していく。
混濁していく意識の中、ふうっと、白く淡い光が瞼の裏に広がる。
柔らかな光の中に、懐かしい声が、聞こえた――。
(それはとても素敵なことだと、思いませんか――?)
*
「――っ、う、うわっわっ」
ナハの忠告は、正しかった。
凄まじい怒りの形相で、アルは近付いたカラに襲い掛かった。
剣を落としたままのアルは、拳でカラを打ちのめそうとしてくる。 身のこなしは、先程よりも鈍い。 それでも、次々と繰り出される拳に、カラは飛び込む隙を見出せず、避けることに精一杯だった。
――出来る、出来る、必ず、できる――
心の中で繰り返し呟く。 「まずはユーシュをアルに戻すこと」だけを考えた。
しかし、考えるだけでは事は進まない、逃げるばかりでは埒が明かない。 そう思い、カラの方から仕掛けてみても、今度はアルが、ひらりひらりとカラの拳をかわし逃げる。 長い髪と裾を翻しながら、軽やかに宙を舞う姿に、思わず眼を奪われる。
勢いあまり、空振りになったカラの拳が壁や床に当たると、そこに大穴が開き、砕けた岩があたりに飛び散る。 足下には小石が散乱し、うっかりすると足をとられ転びそうになる。
こんな力を直にぶつけては、アルを救うどころではない。 緊張が、カラの身体を固くする。
――加減を、もっとしなくちゃ――
カラの腰元で、オスティルが輝きを放ち続けているためか、アル――というより、グールは一定の距離を保ち、カラの方から近付かれるのを嫌っていた。 視界に、オスティルの光を極力入れたくない、といった様子だ。
カラを襲い、引き裂きたいという魔物の欲望と、オスティルの光に対する怯えと嫌悪が、アルの整った顔を複雑に歪ませている。
『いっそ、その短剣を投げつけてはどうだ? その貴石の力で、低級の魔物なぞ確実に追い出せるぞ。 当たれば、だがな』
肩で息をし、次の手を考えていたカラの背後から、暢気なしゃがれ声が響く。 言葉の後には、ししし、と例の笑いを付け加えて。
「なんで、そこにいるん、だよっ」
同じく息の乱れているアルから視線を外すことなく、肩越しに言葉を返す。
『簡単なこと。 お前の無様を観に来ただけよ』
「あの人を護ってって、オレ言ったよな」
『あの男なら、ナハとかいう男が診ると言うておったろうが。 元々、ワシはお前を護るが第一の役目よ』
「何が〝護る〟だよっ、笑いに来ただけのくせ。 だいたい短剣を投げつけろなんて、ふざけんなよっ」
『ワシは一案を言ったまでよ。 そも、鞘から抜いて投げろとは言うておらん。 剣を投げつけるが嫌ならば、腕力で、押さえ込む術を考えればよかろう。 如何な手段を選ぶかはお前の裁量。 だが早くせねば、小娘の身体が持ち堪えられん。 死が、近い』
ナジャの最後の言葉に、カラは思わず視線を背後へ向けた。
明るい右の眼をクルクルと動かし、ナジャは愉快そうに見ていた。 新しく出現した額の眼は、同じ緑をしているが、妙に無表情に見開かれ、カラを映している。
手が、オスティルの短剣へ伸びる
その一瞬の隙を衝かれた。
カラが視線を外した途端、アルは地を蹴った。
軽い、放たれた矢のような勢いで、カラの首へ手をかけると、あり得ない力でカラを持ち上げ、締め上げようと指に力を込める。
手に取りかけた短剣が、カチャンと落ちる。
ギリリギリリと、白い、細い指がカラの首に喰い込む。 凄まじい力。 呼吸が自由に出来ず、視界が霞む。 ガンガンと頭が痛む。
苦しい――助けて――……。 そんな言葉だけが、繰り返し浮かぶ。
首を絞めるアルの手に、自分の指を喰い込ませる。 この指を剥がしたい、剥がさなければ――死。
「――……っつ、う……うあぁああぁっ」
足下に落としたオスティルが、それまでにない激しい輝きを放った。 辺り一帯を染める、強く、容赦のない金棘のような光。
カラの首を締めるアルの手が、ふっと緩む。
その瞬間、カラの身体に自由が戻る。
どう、動かしたかわからない。
ただ、手を払った。 首を絞めるものを払い除けようと、ただ息をしたいと、身体が求めるままに、動いた。
ガツン、と鈍い音が耳に届く。 その音は二回――いや、二種類、前方で続けて起こった。
いつの間にか閉じていた瞳を、開けた。
視界が白い。 ぐにゃりと、全てが歪んで見える。 地が揺れているように感じる。
視界前方に、白い長衣を着た、長い髪の少女が横たわっている。 長い白銀の髪が、流れる水のように、石床に広がっている。
流れの末端から、源となる頭、そして、乱れた髪の間に見え隠れする顔へと、金の瞳でなぞった。
「――ア……ル……?」
長い睫毛の下に、薄く開かれた黒の瞳が見える。 虚ろな、光を宿さない瞳は、僅かも動くことはない。 元より白い顔は、青白く、蝋のように無機質に感じられる。 額に紅い筋が見える。 同じ紅の染みが、アルの倒れるすぐ側の壁面上にも見える。
がくがくと、膝が震える。
よろけながら、足はアルの前までカラを運んだが、止まった途端、膝はがくりと折れ、ぺたんと冷たい石床に座り込んだ。
「――あ……アル。 アル、眼を開けてよ。 ねえ、アル、僕の声、聞こえないの?」
そっと、アルの頬に指先を当てた。
白い肌は、色のままに冷たかった。
もう一度、はっきりと白い頬に触れた。
けれど、冷たさを更に感じるだけで、言葉は返ってこない。 どんなに、待っても――。
凍えた石床が、それに触れる脚から体温を奪う。 寒さに身体が震える。 震えは全身へと伝わる。
歯が合わず、ガチガチと音を立てる。
アルの肩に手をかけ、白に包まれた身体を強く揺さぶった。 それでも反応はない。
「――……だ、嘘だよね、違うよね。 ……ねえ、起きてよ。 ねえ、アル、嫌だよ、いやだ、こんなの、ねえ……起きてぇっ」
頭を振りながら、カラは叫んだ。
あの時の悪夢が甦る。
口から紅い泡を吹き、痙攣しながら死んでいった男。 名前も知らない、カラを化物と呼び、殺そうとした男。 その男の亡骸に駆け寄り、カラへ憎悪の眼差しを向けた、男達の眼。 呪詛の言葉のように、カラを「殺せ」と叫び続けた口、口、口――。
耳を覆い、蹲るように上体を屈める。
聞こえない声が、身体の中で響く。 カラを責める声が突き刺さる。 カラを憎悪する視線が、カラを切り裂く。
助けて、たすけて、タスケテ――。
同じ言葉ばかりが、頭を駆け巡る。 身体が震え、口の中がカラカラになる。
「み、た……ない、見たく、ない――やだ、嫌だ、ちがう、こんなこと、違う、僕は、こんなこと――こんなところ、嫌だ、僕は、ぼくは――こんなこんな、コンナ――」
痛い。 頭の中をかき混ぜられているかのように、思考がぐちゃぐちゃに乱れ、呼吸よりも早く打つ心臓は破裂しそうだった。
もう何も見たくない。 もう何も、聞きたくない。 何もかも、もう忘れたい――。
この闇に溶け込んで、闇に溶かし込んで、何もカモ、ナクナッテシマエバイイ――。
言葉にならない思いが、カラの中に満ちる。
満ちると共に、全てが遠退いていく。
それは、恍惚とも言える弛緩と、ふわりとした浮遊感を与える――。
ガツンと、後頭部に強烈な衝撃が走った。
二回、三回――衝撃は、続けざま加えられる。
痛みに耐えかねて、カラは思わず叫ぶ。
「――痛い、痛いじゃないかっ」
『〝痛い〟、ということはまだ〝こちら側〟に残っておったか。 正体失くしたならば、喰ってやろうと思ったが、つまらんの』
耳慣れた悪態が、カラを混乱の中から引き戻した。 頭を抱え肩越しに振り返ると、ナジャが尻尾を振りながら、済まし顔で据わっている。 口には、カラが落としたオスティルの短剣を銜えている。
明るい緑の眼が、クルクルと光る。
『しかし、本当に手間のかかる小僧だな。 これを小娘に戻すを第一にせよと、あの男は言っておっただろうが。 その頭はザルか?』
目の前に、ナジャの尻尾が突き出される。
尾の先には、繊細な銀細工の鎖が下がる。 先端には、柔らかな光を放つ貴石が揺れていた。
カラが銀の鎖を手に取ると、ナジャは口を突き出し、短剣をカラに押し付ける。
『簡単に落としおって。 二度と落すな。 何につけ、これはお前の役に立つ貴石よ』
カラは短剣を受け取ると、ボロボロの袖で目鼻を拭った。 未だに、眩しい光を放つオスティルを呆然と見た後、虚ろに開かれたままのアルの眼に視線を移す。
「――何も、出来ないよ。 オレは何も出来ない。 オレは殺すばかりで、こんな貴石を持ったって、何の、役にも立たない……。 どうやって使うかも、どうやったら使えるのかも知らないのに、何の、何の役に立つって言うんだよっ」
荒げそうになる声を、必死に抑えた。
涙が滲む。 激しい無力感が、カラを苛む。
また、同じ過ちを繰り返した。 愚かな自分が望んだ末に得た大きすぎる力が、二人もの命を奪った。 しかも、自分を友達だと、家族だと言ってくれた、助けたいと思った友人まで――。
『その貴石を小娘に戻し、〝名前を呼べ〟と言ったあの男の言葉、忘れたか?』
「――死人がそれで、生き返るの……かよ」
『やれやれ。 トロくさいくせに、せっかちな小僧だ。 この小娘は確かに瀕死。 だが、意識は眠ったまま、まだ生死の境で留まっておる。 だが、眠った小娘を起こし、表に呼び戻さねば、確実に、間違いなく、死ぬだろうよ』
アルの顔を覗き込んだ後、ナジャの右目はカラを映し、細められる。
『何もせぬうちから諦め、投げ捨てるとは、お前は真に、見下げ果てた腰抜けよ。 小娘も憐れよな。 ようやく魔物が離れたというに、友人に見殺しにされようとは。 もっとも、お前はこの小娘を友人、とは思っておらぬか――?』
カラは無言で、横に座ったナジャを睨んだ。 悔しさと怒りで、堪えていた涙が零れる。
『後頭部に傷を負っておる。 その傷が一番大きく、危うい。 お前がいつもするように、傷に息をかけ、元に戻るよう、何事も無かった状態に戻るよう、願ってみろ』
普段のような、含み笑いのない声でナジャは言った。 その語気の厳しさに、カラの身体はびくりとし、のろのろとだが従い動いた。
ナジャの言った通り、アルの後頭部は血に濡れ、その中心に、大きな傷がぱっくりと口を開けている。
真っ赤に染まった傷を見た瞬間、身体が強張りそうになったが、カラは深呼吸をすると、傷口に強く息を吹きかけ、両手を当て、傷のない状態に戻るよう願った。
カラが願うに合わせ、腰に戻したオスティルが金光を放つ。
暫くすると、出血は完全に止まり、傷も次第に薄く、そして終には見えなくなった。
カラは大きく息を吐き出す。
身体が重く、妙にだるい。
これほど強く、誰かの傷の治癒を願った事はない。 この作業が、これほど体力を消耗するということも、始めて感じたことだった。
『――傷が塞がったならば、次はその貴石だ。 〈映月石〉を、小娘の首に掛けろ』
ナジャに言われるまま、カラは仰向けに寝かせたアルの細い首に、繊細な銀鎖を付け、 先端のユーシュを胸元に丁寧に置いた。
優しい月の光が、アルの白い顔を照らす。
流れる涙を、止められない。
『貴石の上に手を重ね、小娘の《名》を呼べ。 声に出さぬでよい。 お前の思いを、小娘に届けよ。 深く眠る小娘を見つけ出し、起きろ、戻れ、と、伝えてみい』
促されるまま、カラはユーシュの上に両手を重ねる。 すぅと、息を深く吸った。
「――アルフィナ。 起きて。 カラだよ。 アル、起きて――」
数度、アルフィナの名前を口にした後、カラは額を両手の上に載せ、願うように、心の中でアルの名前を呼んだ。
再び、オスティルの輝きが増す。 手の下にあるユーシュも、更に白い、銀の輝きを放つ。
金と銀の光が、カラとアルを包み込む。
瞼を開いた世界は、薄暗く霞んでいた。
上にも下にも、何もないように感じる。 前後左右、ただ茫漠とした薄闇が広がっているばかりに思えた。
空気は全く動かず、かといって淀んだ感もない。 風も音も匂いも、湿気も乾燥もない。
全てを、立ちこめる靄のようなものが、吸い取っているように感じる。
自分は、ここにいる。 しかし、自分の姿は靄と同じで、曖昧ではっきりとしない。
確かに〝見ている〟という感覚はあるのに、自分の手も足も、はっきりと見ることは出来ない。 自分には腕がある、足がある、と思い込んでいるだけのような、なんとも不安定な感覚だった。
優しい銀色の光が、そんな曖昧な自分を護るように包んでいる。
この優しい光が、そういう模糊とした不安を、和らげてくれる気がした。
これが、ユーシュの光なのだろうと思った。
視線を上げる。
何も見えず、何も聞こえない虚ろな空間。
どうやってこんな世界に来たのか、本当に自分が、この場所に存在しているかすら、自信は持てない。 けれど、この何処かにアルがいるのだと、理由のない確信を、カラは抱いていた。
――どこにいるの? アルフィナ、アルフィナ、応えて――
カラはアルを呼んだ。
足下も定かではない未知の世界で、カラは手探るようにアルを求め、呼び続けた。
声は、たちどころ靄に吸い込まれ、少しも響かない。 口にした傍から消えていく。
こんなことで、アルに声が届くのか、不安になる。
それでも、アルの姿が見えるまで、アルの声が聞こえるまで、幾度でも呼び続け、探し続けるしかない。
世界は、無限に広がるように感じられる。
時間は永遠のようで、どれほどの刻が過ぎたのか、まったく分からない。
何処まで行っても、どれ程呼んでも、アルフィナの姿を、声を確認することが出来ない。
焦りが募る。
進めば進むほど、呼べば呼ぶほど、不安ばかりが大きくなる。
どこまで歩んでも、変わらない眺め。
何も見出せず、何を聞くことも出来ない。 自分の発している言葉すら、音声となって響いているのか疑問な状況が延々と続く。
虚しさが、カラの中に生まれる。
こんな事をいつまでやっても、無駄なのではないか――。
そんな思いが大きくなっていく。
視線が、次第に下がる。
(――もう少し……)
ふいに、柔らかな声がカラの耳に響く。
(諦めないで。 あの子を、見つけてあげて。 あの子はあなたを、待っている――)
――だ、誰――?
見回しても、誰の姿も見えない。
感じられるものは、ユーシュの柔らかな銀の光だけ。
(信じて。 あなたには、あの子を見つけることができる。 あなただから、できるのよ――)
声は、ふわりとカラの頬に触れ消えてゆく。
消えてもなお耳に残る、優しい女性の声。 手で触れられたような、温かな感触が残る。
ユーシュの光が、より明るさを増したように感じた。 オスティルとはまた違う、優しさに満ちた柔らかな輝き。
深く息を吸い、ゆっくり吐き出すと、落しかけた視線を真っ直ぐに上げた。
――アルフィナ。 アル、何処にいるの? 帰ろう、こんな所を出て、一緒に帰ろうよ。 帰って、ガーランを探して、イリスさんが待つ家に帰ろう。 ラスターもきっと帰って来る。 皆で、帰ろう。 僕、もっと、アルと話がしたい。 もっと、もっと話して、一緒にいたいよ――だから、起きて。 声を、聞かせて。 アルフィナ――
ユーシュの光が、膨張するように広がり、カラの前方へ、集約するように一直線に伸びる。
銀光は、一点を射し照らす。
懐かしい声が、応えた――。
閉じていた瞼を開き、カラは手から額を離す。 まだ、夢現のようだ。
『戻ったな――』
ナジャのしゃがれ声が、ぼやけた意識を鮮明にさせた。
一度頭を振り、眼をしっかり開くと、横たわったままのアルを見詰める。
胸が、微かに上下を始める。 長い睫毛が、時折動く。 口元に耳を近づけると、弱いが、確かに息をしている。
苦しげではあるが、数回、唇が動いた。
涙が滲む。
「アル、アルっ、聞こえる? オレの――」
ナジャの尻尾が、カラの後頭部を叩く。
『あの男に、薬を飲ませろと言われたであろうが。 あれは、小娘の内に溜まった毒を抜く薬よ。 呼び戻すだけでは、小娘の危険は完全に去ってはおらん』
ナジャの指摘に、カラは慌ててポケットに入れていた小瓶を取り出す。
小瓶の栓を抜くと、やはり、苦味に満ちた異臭が鼻を衝く。 カラが飲んだ薬酒より更に濃厚そうな、強烈な香り。
小瓶をアルの口元に運び、数滴垂らしてみる。 しかし、飲み込んではくれず、薬は口の端から零れるばかりだった。
「や、やっぱり、苦いから飲めないのかな? どうしよう、そんなにたくさんないのに、吐き出しちゃったら意味がないよ」
おろおろするカラに、ナジャは呆れたような鼻息を吐き、一つの提案をした。
「そうか、く――……」
鸚鵡返しに、その提案を口にしかけた途端、カラは耳まで熱くなった。
他の方法はないかと尋ね、自分でも考えたが、それ以上の方法を考え付かず、結局、実行した。
気恥ずかしさの前に、痺れる様な苦味がカラの口に広がる。 だが、その行為は確実に目的を達した。 アルフィナの喉が、飲み下す動きを見せる。 やはり苦いのか、アルの顔も僅かに顰められる。
口内に残る刺激に耐えながら、カラはアルフィナの顔を、息を詰めるように見続けた。
数呼吸の後、瞼の下で眼が動く。
長い睫毛が数回微動し、ゆっくりと、瞼が開かれる。 大きな黒の瞳がカラを映す。
「――こ……こ? あんた――……は」
「――……っ」
喉に詰まり、言葉は声にならなかった。
言葉の代わりに、アルの手を握り締めた。
今回で、第三章『白日の月』は終わりです。
ここまで読んで下さった皆様。
本当に、ありがとうございました。
話は、第四章『往きし者 過ぎし刻』に続きます。
※9~10月に再開予定です。
これからもまた、頼りないお子様たちや歪んだ大人を
温かい、大らかな目で見てくださると幸せです。