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9:困惑

   9:困惑


 いま、眼にしているものが全て〈真〉とは限らない。

 誰かが、そう言った――。



「アル、アルフィナだよね、ねぇ、アルっ」


 白銀の長い髪を地まで垂らし、白い長衣の少女はただ、無言で立っている。 その脇に立つ灰色の操骸師(そうがいし)は、ひき()れた笑みを、肉のない顔に浮べている。


「アルっ、どうしたんだよ、ねえ――」


 カラの言葉を遮るように、墨色の衣の男の手が伸ばされる。


「――無駄だ。 誰の言葉も、アルフィナの耳には届かぬ」


 男の言葉は至って平坦だった。

 だが、見上げたその黒の瞳は、背筋が凍るような冷たさを、見る者に感じさせる。


「やっぱりアルフィナなんだね? どういうこと? 耳に届かないって、なんでっ」


『五感を封じられておるのさ、あの骨に皮の猫背男にな。 あの娘はいま、人形も同じよ。 立っているだけ、動かされるままに動く』


 カラに抱えられたままの蜥蜴(とかげ)が、クルクルとひとつだけ残された右の瞳を動かし、しゃがれ声の言葉を挟む。


「ごかん――って、人形って、どういうことだよ? 髪だってさ、白? 銀色? 何にしろさ、なんであんな色になっちゃってんだよっ」


 抱えぶら下げている蜥蜴に向かい、傍目を気にする事なく喰いかかっているカラを見て、セナは金色の瞳を大きく開き、下がりかけの眼鏡を左中指で上げると、口角を大袈裟に引き上げ、笑顔らしきものを作って見せた。


「驚いた。 それ、もしかして聖獣だったんだ? そんな薄汚い蜥蜴が? これは一本取られたな。 実に上手く、化けの皮を被っていたものだ。 それで、それ。 火竜なのかな? ずいぶんしょぼくれているけど、まあ、智慧はそれなりにありそう、かな? ――ふふ、今日は驚く事が一杯だなあ。 しかも君、それ、の言葉が分るんだ? 君、素質があるんだね」


 セナの感嘆とも嘲りともつかぬ言葉に、カラに抱えられたままの蜥蜴は、止めさせる隙も与えず火の矢を吐き出す。


「あ、熱いっ。 何すんだよっ。 アルに当たったらどうすんだよっ」


『うるさいのぅ。 よう見い、何者も焼いてはおらんだろうが。 あの骨皮猫背男に挨拶をしたまでじゃ。 (わめ)く前に、顛末(てんまつ)をしかと見んかい』


 蜥蜴は鼻息荒く言い放つと、硬い尻尾をブンブン振り回し、カラの腹と腕を叩き続ける。

 確かに、何も変化は起きていない。 蜥蜴が放った火矢は暗闇を僅かに裂いたが、何者も焼きはしていなかった。


「今の炎は挨拶、ってところかな? 僕の言ったことを理解している、ってこと? ふうん? これはこれは。 やはりその蜥蜴も、僕の元へ御招待しなくては、だな。 もちろん、君と一緒に、だよ」


 セナは上目遣いで、カラの金の瞳を見つめる。 無意識に、カラはじりと後ずさる。

 蜥蜴を抱える手には、金色の輝く貴石が、その場には不似合いな清い光を放っている。


「その手の短剣。 すごいオスティルが付いているね。 先刻は、君の存在ばかりに気を取られて気付かなかったけど、君を護っていた残りかすの光、そのオスティルの名残だったんだ。 納得だな」


「な、何言ってるのか知らないけど、アルを、離せよっ」


 カラは、詰まりそうな喉から、必死に言葉を搾り出す。 あの金の瞳に見据えられている事が、怖い。 それでも、眼を逸らすわけにはいかない。


「オスティルのこと、君、どれくらい知っているかな?」


 小さな子供に問いかけるように、セナは柔らかな口調でカラに言葉を向ける。

 カラはただ、セナの金の瞳を睨みつけるしか出来ない。 その視線を受け、セナはふふと笑う。


「オスティルという貴石は、主人を選ぶ、とても我が侭な石なんだ。 気に入らない主人に持たれると、その本来の力の半分も示さない。 聖獣のように、とても、気位の高い、扱い難い石なんだ」


「ど、どういう意味だよ――」


「君は、その貴石に選ばれている。 というより、仕えられている、かな? その貴石が護ろうとするのは、(いにしえ)の民の血を引く者。 その血が濃いほど、オスティルはその役目を果たそうとする、と伝えられているんだ。 もう一度問うけれど、君、《名》は?」


 カラは服に隠れたペンダントを握り締め、口を固く結んだ。 カラの様子を見て眼を細くすると、セナは隣の男に視線を移す。


「――ところで、レセル。 君はさ、いったい、何がしたいんだい?」


 愉快そうに、セナはレセルと呼びかけた男の表情を伺う。 レセルは答えることはせず、カラを隠すように立ち位置を移す。 その一連の動きを見た後、セナは目を更に細め、声を出さずに笑う。


「この女の子。 アルフィナ、っていったっけ? 娘、なんだろう?」


 セナの言葉に、後方のカラが驚きの眼差しをレセルに向ける。 レセルは先と変わらず、険しい眼でセナを見据えている。


「〈鏡の巫子〉と称された、先の〈斎王(さいおう)〉と君の間の子、なんだろう? 君は知らないかもしれないけど、君達夫婦、一部では意外と知られているよ。 特に、〈聖神聖教(シン・エルナイ)〉には、ね。 歴代でも屈指の能力者だったというその巫子を、精霊王殿であれ他の大神殿であれ、手放すとは誰も思わなかったからね。 それが、一騎士と夫婦になるなんて、僕だって始めに聞いた時は冗談かと思ったよ。 各大神殿からの反対も、相当大きかったらしいじゃない? それでも、二人は一緒になった。 そして、この子が生まれた。 ――そんな大切な娘が、〈器〉にされようとしているのにレセル。 君、暢気だねえ。 その男の子は、君とは何の縁もない子供だろう? なのに、信を置きもしない僕のところに自分の娘を残して助けに行くなんて、何を、企んでいるのかなあ? オリ=オナ殿に知れたら、殺されちゃうよ」


「――知られようが知られまいが、老師は俺を生かすつもりはない。 あんたが一番、知っていることだろう? 俺を見張るは、あんたの役割のひとつのはず。 キソスの地の何処にも、あんたの眼となる物が()かれている。 そうだろう? イセラド=ソイル=ナジェル=オークス」


 セナはわざとらしく驚きの表情を作る。


「へえ? よく、その名を知っていたね? ああ、まぁ、君の過去を考えれば、知っていても不思議ではないのかな? 僕、結構高価(たか)い賞金かけられてるみたいだったよね? 〝(けが)れた術師〟って理由だっけ? でも、何回も〈器〉を替えたから捕まらなかった。 手に職は、付けておくものだと思うよね、つくづくさ」


 セナは、にいと笑うと、アルフィナの腕を掴み自分の前に立たせる。 どんな乱雑な扱いにも、アルの表情は僅かな変化も見せない。


「アル、アルっ。 本当に聞こえないのっ、お願いだよっ、何か言ってよ、そんな奴にされるままになってるなんて、アルっ」


「いくら呼んでも無駄だよ。 〝アルフィナ〟って子はいま、深い眠りについているんだから。 どのみち〈器〉になるんだから、この子自身は、邪魔なだけなんだよ」


 アルフィナの白銀の髪をひと房持ち上げると、セナは水を(こぼ)すように、サラサラと流して見せる。


「ど、どういう意味だよ、眠らせてるって。 だいたいなんでそんな白い髪――」


「この姿は、この子の本当の姿だよ。 美しいだろう? 母親譲りの、美しい、白金の髪だ。 ねえ? そうだよね、レセル?」


 カラはレセルを見上げた。 だが、レセルの表情は(いささ)かも変わらない。


「オリ=オナ殿がこの娘に目を付けなければ、僕も、この子の身体を貰おうかと思った。こんな、容量豊かな身体って、そうそうはないんだよ。 〈器〉に選ばれるわけだ」


「さっきから器うつわって、何なんだよ、〈器〉って――」


 つんのめるようにカラが言葉を投げつけると、セナはアルに視線を向け、くくと笑う。


「〈器〉は器だよ。 モノを入れる物のこと。 〈斎王〉となるに相応しい、感応力に富んだ、素晴らしい媒体。 神を降ろすに相応しい身体は、同時に、魔物にも魅入られ易い。 この子、此処までよく耐えて来たもんだよ。 キソスはいま、僕の撒いた魔物の毒気で穢されているからね。 この子、外に出ると体調、かなり悪かったはずなのに。 大した精神力だよね」


 セナはアルフィナを前へ数歩押し出すと、左手をゆっくり、アルの肩に乗せる。 その手には、ぶら下げるように剣が握られている。 アルの手が、吸い寄せられるように剣の柄を掴む。


「――だから、もう少しは大丈夫だろうと思って。 試しに、入れてみたんだ」


「――それは、老師の命か?」


 レセルの表情が険しさを増す。 手にしている大剣が僅かに揺れる。


「いいや? もちろん、違うさ。 これは僕の遊び、だよ。 オナ殿が知ったら、はは、まぁ怒るだろうねえ。 だけど、大丈夫だろう? この子、結構鍛えているみたいだし、なんて言ったって、君達にこの子は、傷付けられない――」


 セナは眼鏡を押し上げながら、正面に立つ二人を見遣った。 セナの金の瞳が、三日月のように細くなる。


「――入れたって……いったい、何を、何をアルにしたっ」


 身体の芯が熱くなっていく。 握り締めた短剣のオスティルが、更に光を増す。


『グリオルス・ルーンス、だな』


 蜥蜴が、正面に立つアルを緑の瞳で見据え、チラチラと炎の混じる言葉を吐く。


「ぐ、グリ……な、何、それ?」


 セナはくくっと笑うと、蜥蜴に細めた眼を向ける。


「〝グリオルス・ルーンス〟って、その蜥蜴は言った?」


「そ、それ、な、何なんだよっ」


「ふふ。 その蜥蜴、(あなど)れないね。 知らないかな? ああ、昔語りの中ではよく〝影鬼のグール〟なんて、妙な名で出て来ているみたいだけど、そっちなら知っているかな?」


 カラは、かつて聞いたことのある昔語りの中から、その魔物についての知識を必死になって引きずり出した。

 〝影鬼のグール〟。 血肉を好む魔物。

 自分自身の身体を持たず、影の中を伝い動き、気に入った身体を見つけると、その身体に寄生する。 寄生された宿主は凶暴化し、グールの求めるままに殺戮(さつりく)を始める――。


「そんな――そんなのをアルに……」


 カラの声に反応するように、アルは剣を握り直し構えると、弓から放たれた矢の如く、地を蹴り、カラへと一直線に向かって来た。 前に割り入ったレセルの脇を、身体を屈め、するりと流れ抜けると、低い姿勢から、カラの喉元に切っ先を向け、弾ける勢いで切り込む。

 蜥蜴を(いまし)めていた腕を開き、カラもオスティルの短剣で最初の一撃をなんとか弾きかわすと、再びの攻撃に備え、短剣をしっかりと握り直し、防御の姿勢を取る。 柄先のオスティルは、カラの緊張が高まるに連れ、蛇顔の男を払った時と同じ鮮やかな金光を帯び始める。

 オスティルの光がいよいよ溢れると、アルは短い呻きを上げ、ふっと、身体の力が抜け崩れそうになったが、すぐに体勢を立て直すと、さっと後方へ飛び退り、短剣を構え直した。

 長い白銀の髪が、光の線を引きながら闇中を流れる。

 ラスターにも劣らない、流れるような動き。

 隙のない構えで立つアルに目を奪われたが、すぐに、その足下の淀みに気を取られる。

 剣を構えるアルの左右の石床から、既に見慣れた赤い眼を持つものが、ずるずると這い出して来る。 虚ろな赤い眼。 だがその姿は、それまでに目にした獣とは異なっていた。

 魔獣、と呼ばれる闇に潜む獣だと、その異様な姿からカラは推測をした。 少なくとも、例え死んではいても、美しさや気高さをどこかに感じさせた聖獣とは、まるで違う。 いま現れたそれらは、双頭であったり、全身を棘で覆っていたり、尾頭が蛇であったり、額に裂けた第二の口があったりと、明らかに通常の獣ではない姿をしており、何より、(まと)う空気が禍々しい。 しかも、いずれもが巨体。

 引き()ったカラの表情を見て、セナは満足の笑みを浮かべる。


「君には、普通の死獣じゃ相手不足のようだから、死んだ魔獣も、用意してみたんだ。 そいつらは、その貴石(オスティル)の光にも多少は耐えるから、先より楽しめると思うよ。 ふふ、大丈夫。 あんまり酷く傷つけないようには、一応、言い含めてあるから。 ただ、こいつらはすごく頭が悪いから、もし死んじゃうような傷を負ったら、ごめんね」


 アルは、オスティルの光に多少の躊躇(ちゅうちょ)をしているようにも見えたが、カラに剣先を向け、再び打ちかかる隙を見計らっている。 その周囲に群がる死魔獣達も、やや怯えた様子を見せてはいるものの、じりじりと距離を狭めてきている。

 動かなければ、アルの剣か魔獣の牙に裂かれる。 そう、頭の隅では解っていても、闇中に白く輝くアルフィナの姿に目を奪われる。


『暢気に呆けておるようだが、お前、ここを死場に選ぶのか?』


 しゃがれ声がすぐ耳元で響く。 同時に、左耳に鋭い痛みが走る。 視線を向けると、いつの間に上ったのか、蜥蜴が肩に座っている。

 口から覗く牙に、血の滴りが見える。


「っつ、おっさん、いまオレの耳に噛み付いただろう? あー、やっぱりっ。 血が出てるじゃないか。 何すんだよっ」


 カラは左耳を押さえながら、肩の蜥蜴に向かい怒鳴った。 蜥蜴はしれっと舌なめずりをすると、右だけの眼をカラの顔へ向ける。


『先刻の放炎で腹が空いた。 お前のために放った炎じゃ、お前の血で(あがな)うは至極当然であろうが。 ったく、たかがその程度のすり傷がなんじゃい。 そんな些細(ささい)なことをぐちゃぐちゃ言う前に、逃げるかアレと戦う覚悟を決めるか、が先であろうが』


「た、戦うって――」


『お前の血、なかなか悪くない。 あんな低級の魔獣共にも、〝影鬼のグール〟にも、くれてやるには、惜しい』


 蜥蜴は緑の隻眼(せきがん)を細め、愉快そうな声を出す。 その声と重なるように、硬い、金属のぶつかり擦れ合う音が上がる。

 顔を上げると、レセルの大剣に、アルの細い剣がギリリと音をたて喰らいついている。

 アルの白い顔は、乱れた白銀の長い髪に半ば隠れているが、剣呑な笑みを浮べているのが覗き見える。

 一人、離れた後方に立つセナを苦々しげに睨み付けると、レセルは大剣を払い、アルを壁まで弾き飛ばした。

 壁に背を打ち付けたアルは、瞬間顔を歪めたが、すぐに体勢を戻すと、剣を構え直し、翔るように、再びレセルへと向かう。 続けざまに、剣と剣が交わる硬質な音が上がり、岩壁に当たって幾重にも響く。


「小僧。 己の命は己で助けるがいい。 俺はこれ以上お前に関わらん。 生きたくば自力で、己の道を拓け」


 剣を操り、振り返ることなく発せられたレセルの声は、カラに現実の緊張を与えた。 見開いた金の瞳に、三頭の、赤い眼の魔獣が映る。 いずれも頭を垂らし、一定の位置で鈍重な足踏みを繰り返しているが、カラの様子を伺っているのは明らかである。


『その男の言うとおりだ。 ヤル気がないのなら、さっさとこの場から逃げる算段をつけんと、その死んだ魔獣共に引き裂かれるだけよ』


「ふざけんなっ。 アルが目の前にいるのに、置いて逃げるなんて――っう、わっ」


 死魔獣の裂けた口が、僅か数歩先で開かれていた。 猪のような巨大な身体に、猿のような頭を持つ魔獣。 その額には、二つ目の口が(よだれ)を垂らしている。 頭を僅かに低くした後、二つ口の死魔獣は地を蹴る。

 とっさにオスティルの剣を払ったが、死魔獣の第一の口は剣の刃を咥え、カラからそれを奪おうとした。 オスティルは光を放っているが、この死魔獣はそれに耐え、額にあるいま一つの口を触手のように伸ばし、カラに喰らい付こうとする。


「――うっ……っ。 こいつ――っ」


 右手だけで剣を握ると、伸びてくる口を左手で殴る。 殴られた口は、その瞬間は平たく潰れ額へと戻るが、少しの間を置くと、再び伸び出して赤黒い口を開く。

 力の限りを尽くし、死魔獣を横倒しにしようとした。 しかし、先刻相手した死獣と違い、死魔獣はどっしりと地に足を着け、なかなか動かせはしない。

 二つ口の死魔獣と組み合い動けないカラの左右に、他の死魔獣が舌を垂らし、ゆらゆらと歩み寄ってくる。 しかし、オスティルの光が効いているのか、この二頭は、一定以上には近寄って来ない。

 だが、いつまでもそうだとは限らない。


「く――うっ……っ」


 焦りがつのる。

 しかし、思うように動きが取れない。

 頭の芯が、凍えたようにキンと痛むのを感じた瞬間、間の抜けた欠伸声が耳元で上がる。


『まったく、やはり見た目のままにトロい子供だの。この程度に、このように時間を取られる奴が、あやつを相手になど、ふざけた妄想だな。 こやつが喰らう前に、ワシが喰ってやろうか? その方が、お前もまだ嬉しかろう?』


「――うれし……わけないだ、ろっ」


 言葉を張り上げると共に、カラは短剣を離し、死魔獣の首に両腕を可能な限り巻きつけると、力任せに魔獣の巨体を抱え上げ、地に叩きつけた。 すかさず咥えられていたオスティルの短剣を抜き取ると、額の口に突っ込むように、剣を突き立てる。 口の深部で、オスティルが放った金色の閃光が、死魔獣の歯間から漏れ出だし見える。

 光が和らぐと共に、死魔獣は激しい痙攣を起こし、終には動かなくなった。

 大きく息を吐くと、カラは死魔獣の口から右腕をずるりと引き抜いた。 唾液と血の混じった液体がべっとりと付いている。 蒸れた悪臭が鼻を()く。

 思わず顔を左に背けると、大欠伸をする蜥蜴と眼が合った。 そのクルクルと光る緑の瞳は、カラを映し笑っている。


「――な、なんだよっ?」


『それは、ワシの言う事だろうが。 ま、ワシに、何ぞ――そうだな、礼でも言いたいというのならば、聞いてやるぞ』

 

 神経を逆なでするしゃがれ声に、カラはまたもや力を与えられる形となった。 それは認めるが、礼を言う気などはもちろんない。 カラは顔をしかめつつ、右にそっぽを向く。


『ま、礼は後で十分言わせてやろう。 それよりこいつ等をどうにかせい。 臭うてかなわん』


 蜥蜴は視線をカラから逸らし、左右に立つ死魔獣へと向ける。

 どちらも、先に相手した熊や獅子の数倍の身体をしている。 左でカラを威嚇する双頭の狼の如き魔獣の、四本の尾は蛇頭をしており、青黒い舌を、せわしなく出し入れしている。 額の左右と中央に、巨大な角を有する野牛のような魔獣は、見るからに硬そうな、棘の有る鱗が全身をびっしりと覆っている。 その尾の先端は鋭い剣のように、不気味に黒光りをしている。


『カカムリクにコーテスールなあ』


「知ってるの? あの魔獣。 つ、強いの?」


 カラも死魔獣へ視線を定めたまま、蜥蜴へ短く問いかける。 蜥蜴はしばらく黙り込んでいたが、ししし、と愉快そうに笑った。


『――頭は悪いが、力は強い。 力だけならいまのお前には何とかなろうが、カカムリクの牙と尾の蛇、コーテスールは全身』


「そ、それが何っ?」


『僅かにでも触れれば、一瞬で死ねるな』


 さらりと出された蜥蜴の言葉に、カラは溜まってもいない唾を飲み込む。


「毒――ってこと?」


『他に何がある?』


 呆れたように蜥蜴は欠伸をする。 腹も立つが、恐怖の方が勝る。 迷った末にカラは、ぼそと口を開く。


「――あのさ、おっさんの火で、あいつらを――その、やっつける、とかできない?」


『出来るだろうな』


 即答する蜥蜴に、カラは希望を見出す。


「それじゃあ――」


『だが、やらん』


「なんでっ」


 再び即答で拒絶する蜥蜴に、カラは顔を向け不満をぶつける。


『タダでは――な』


 しししと笑うと、蜥蜴はカラへ視線を戻し、先程噛み付いて傷を負わせた耳を舐めた。


「な、何すんだよっ――」


 クルクルと緑の瞳を動かした後、蜥蜴は睨みつけるカラの金の瞳を見返す。


『ワシと、契約をするか?』


「――け、契約?」


 カラの言葉に被さるように、カカムリクと蜥蜴が呼んだ双頭の狼が、何の前触れもなく地を蹴り、カラの喉笛を目掛け大口を開ける。

 後方へ飛び退りつつ、カラは短剣を払い防御の構えをとったが、外套の裾をカカムリクの尾の蛇に咥えられ、足下をすくわれたように瞬間宙に浮き、床に叩きつけられる。 蜥蜴は見た目からは想像できない素早さで、カラの肩から地に下りたが、手にしていたオスティルの短剣もまた、カラの手から離れた。

 右半身を硬い石床に打ち付け、カラは瞬間、息をすることすら出来ず、呻き、しばらくは手足を動かす事すら出来なかった。

 動けないカラを、カカムリクは外套の裾を引いて、口元まで引き寄せようとする。

 ずるりずるりと、一定の間隔をあけ、石床の上を引きずられる。 ようやく手に力が戻ると、カラは地に手をつき、引きずられる事を(ようや)くに止めた。 カカムリクは更に力を込め、カラを引き寄せようとする。 右方には、うっそりとコーテスールが近付いて来る。 剣のような尾を天に向け、カラを威嚇するように前後に振ってみせる。


「……く、う――」


 歯を喰いしばり、カカムリクに逆らう。 しかし、トルサニの外套は丈夫で、噛み切られることがないかわりに、カラを(いまし)める縄となっている。

 このままでは、引きずられるだけ――。

 カラは、身体を支えていた右手を素早く動かし、外套の留め金を外す。

 途端、縛めは解かれ、カカムリクとカラは、同じように体勢を崩した。 その瞬間、カラの脇腹横にコーテスールの剣尾が突き立つ。 見た目どおり、相当な硬度があるらしく、深々と石床に突き刺さっている。 あと数歩、右に寄っていたら、この硬い毒剣がカラの身体を貫いていた。

 冷や汗が流れる。 カラは転げるように左へ移動すると、岩牢を背に立ち上がった。

 その肩に、オスティルの短剣を咥えた蜥蜴が這い上る。 カラは荒い息を鎮めながら、蜥蜴の口から短剣を受け取る。


『まだ何もしておらん内から、息が上がる程に疲れ果てるとは、若いくせして情けないのう』


「――う、うるさいっ。 〝果て〟てなんかない、ちょっと、息を整えてるだけだよっ」


 二頭の死魔獣から眼を逸らさないまま、カラは忌々しげに言葉を返す。 しししと笑うと、蜥蜴は首を伸ばし、カラの視界に自分の顔を入れる。


『どうだ? ワシと、契約をするか?』


 カラの金の瞳を覗き込む緑の隻眼は、クルクルと輝いている。


「契約って、どういう意味だよ? それしたら、どうなるってんだよ?」


『契約は契約だ。 お前とワシが主従の契約を結ぶ。 ワシはお前を、護ってやろう』


「しゅじゅう? 何それ、まもる――っ」


 カカムリクが、再び前触れもなく地を蹴る。 巨体には見合わない跳躍。 赤黒い巨大な口の中に、カラの腕ほどある太い牙が八本。

 触れただけで死に至ると言う毒牙を持つ双頭の獣が、頭上からカラを襲う。

 足が(すく)み、見上げるしか出来ない。

 見開かれたカラの視界に、紅蓮の火矢が走った。 火矢はカカムリクの一方の口を貫き、爆発するように、魔獣の身体を炎上させ、地に落とした。

 魔獣の口から、初めての声が上がる。

 四方の岩壁を打ち壊すのではないかと思われる、耳を塞がずにはいられない攻撃的な轟音。 目を(つむ)り、頭を抱えるように耳を覆う。 ビリビリと身体が痺れる。

 俯き、音を遣り過ごそうとするカラの口に、冷たく硬い物体と共に、ぬるりとした液体が触れる。 生臭い苦味が、口の中にじわりと広がる。

 閉じていた眼を開くと、蜥蜴の尾が唇に触れていた。 尾の先には小さな噛み傷があり、血が滲んでいる。 口に広がったのは、蜥蜴の血。


「な、何を――……」


 カラは蜥蜴を睨んだ。


『ワシに、《名》を与えよ』


 塞いだままの耳底に、蜥蜴のしゃがれ声が太く響く。


「な……《名》って――? どういう意味だよ?」


『血は交えた。 後は《名》のみ。 与えよ、《名》を。 お前の内に在る、お前だけが知る我が《名》を、その口より出だせ」


 それまでにない、蜥蜴の力ある声に、カラの心臓は応えるようにどくんと大きく打ち、視界は震えるように揺いだ。 周囲の、一切の音が遠退き、聞こえなくなっていく。


 口が、我知らずに動く。


「――《ナジャ……》」


 ひとつの《名》が、口から零れ出た。


 蜥蜴は、緑の隻眼を輝かせた。



挿絵(By みてみん)

次回、〈10:清濁〉に続きます。

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