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       ―序―


 東の地平より生まれし真新しき陽の光は、天地にある全てのものを等しく包みこもうと、緩やかに腕を広げ始めていた。


 その黄金の竜は、鱗をしゃらりと震わせ大きく翼を広げると、深い紅玉の眼を細め、己の前に立つ青年の顔を見遣った。

 均整の取れた長身を包む白い衣は、これまで辿った艱難を物語るように、処々擦り切れ、傷を負った箇所に限らず、全身に多量の血の跡が見られた。 いずれが青年自身の血で、いずれが他者のものであるかは、色の違いで明らかだった。

 青年は、左の眼は潰れ血を流していたが、いま一方の澄んだ緑の眼で、頭上遥かにある、輝く竜の眼をしっかりと見据えていた。


「私は、来た」


 曙光の輝きにも負けぬ、希望に満ち澄んだ声で、青年は竜に向かい言った。

 竜は、火の粉の混じる息を長く吐き出すと、愉快そうに、ゆったりと低い、大気を震わす声で青年の言葉に応えた。


『エルセリオ。 剣も力も持たず、我が前に立つ、勇気ある人間の王の子よ。 我が炎を放ち、そなたを瞬滅さする可能性。 そなたは考えぬ、と見得るな』


「古き血の一族は誇り高い。 我が先祖と、そなたたち一族の祖が交わした約定を、違える事など、ない」


 エルセリオは、その血塗れた姿には不似合いな、穏やかな笑みを端正な顔に浮かべた。

 竜は深紅の眼を一度閉じると、ゆるりと開き、改めて青年の姿を映した。


『そなたが参ることは判っておった。 ――して、そなたが我に求むるは、何か?』


 竜の眼に自分の姿を認め、エルセリオは、竜以上にゆったりとした、鷹揚な態度で言葉を継いだ。


「賢き竜の王よ。 そなたは既に存知おるであろう。 私は、そなたを迎えに来た」


 竜の王は眼を細めると、興味深げな声で、人間の王の子に問うた。


『何、と引き換えに、そなたは我を迎える』


 エルセリオは、淀みない澄んだ声で答えた。


「《名》を、そなたに――」



 こうして、王子エルセリオは、世の始まりより《宝》を守りし竜の王の裔、ナジャルーン=カイナルを迎えた。



   《ティルナ王統紀 王子篇第八章》


     *


 青年は手にしていた書物を閉じると、長椅子の脇に置かれた小卓に置いた。 卓上に置かれた燭台の炎に、書の革表紙に金箔された文字が、鈍い光を返した。


『まったく。 どうしてまぁ、こうも美しく飾り立てて伝えるのが好きなのかね。 これは伝記というよりは伝奇だな。 死んだら、私もこんな風に書き残して貰えるのかね。 "麗しの六十四代国王ユリエール。 その花の顔を衆目に曝すのを拒み、勤めを蔑ろにした愚王――。"とかなんとか』


 寝所の長椅子に身体を沈めながら、ユリエールはぞんざいな口調で、誰に言うでなく語った。

 腰までするりと伸びた、長い黒髪に縁取られた顔は、少女のように優しげで美しく、長く華奢な手足の何気ない動きすら、たいそう優雅に映る。

 簡素な前開きの長衣を軽く羽織り、簡単に腰帯で留めただけなので、ユリエールが動く度に、胸元や裾がはだけ、抜けるように白い肌が各所で露わになるが、本人は全く頓着する様子もなく、長椅子の上で姿勢を様々に変える。


「なんてことを仰るのです。 八代様は〈聖竜王〉とも讃えられる御方。 陛下とて、真面目に政務をなされている限りは、聖祖ラウル王の再来と、誰もが賞賛を惜しまぬ英明なお方だというのに、何故こうも、公私で態度が違われるのです。 さあ、まずは陛下。 どうか、お召し物をお直しさせて下さいませ。 そのような乱れたお姿、とてもこの聖都の主とは申せませぬ。 お願いでございますから、こちらを、お召し下さいませ」


 銀糸の刺繍で飾られた、豪奢な絹衣を捧げながら、遠慮なく苦言を言う老女官の渋い顔を見て、ユリエールは悪戯な目をして笑った。


『"陛下"なんて堅苦しい呼び方は嫌いだよ。ユリエールでいいって、いつも言っているだろう? そう呼ばないと、お前の言う事は、何も聞きはしないからね』


「そのような恐れ多い事、私共に出来ようはずがございませぬ。 ですが、陛下の身の回りのお世話を致すのは、私共の務めにございます。 ですから、どうか、私に勤めを果たさせて下さりませ」


 眉を跳ね上げた老女官の赤い顔を見て、ユリエールはため息を吐いて苦笑した。


『私はね、お前達が着せたいような、ごつくて重い服は、どうにも好きになれん。 だいたい、ここは私の私室なのだよ? 私の自由にして何が悪いんだい? 服なんぞ、最低限を隠しておけば、なんだってよいではないか。 それにいっそ、こんなだらけた姿を見せてやったら、皆も、私に親しみが持ち易くなるかもしれないよ? 国王がこんなだと知れたら、この国の堅苦しい印象が、変わるかもしれぬではないか』


 愉快そうに話す王に、老女官は(まなじり)を上げた。


「とんでもないっ! ティルナの国王ともあろうお方が、なんて事を仰るのです。 他の都市の長などとは比較にならぬ、貴き御身を、なんと心得ておられるのです。 陛下は――」


『"聖ラウル=ティルナスの後裔、第六十四代ティルナ王、ユリエール・サーナン・ヴィシュラ=ユーシス=ラウル=ティルナス。 エランの血を引く、〈聖なる一族〉"なのだろう? わかった、私の負けだ。 ――ま、着直すくらいは自分でやれる。 そこの男もいることだし。 だから、その衣を置いて、お前は先に休みなさい。 これは私の命令、だよ』


 ユリエールはにこやかに微笑みながら、小卓の脇を指さした。

 老女官は一瞬迷った末に、ユリエールの示した男に視線を向けた。 男が僅かに頷いたのを見ると、観念したように男に衣を手渡し、頭を下げ、渋々といった面持ちで退出をした。

 ユリエールは、老女官が確実に去ったのを確認すると、大欠伸をし、改めて長椅子にだらしなく寝転がった。


『代々の王も、さぞや肩が凝ったことだろうな。 〈聖都〉の王、〈聖地〉の守護者、〈聖なる神〉の血脈、〈神聖なる精霊王殿〉の大神官――その他諸々。 ティルナの王は、よくもこれだけの〈聖〉の字を負ったものだ。 他都市の長の方が、まだ肩は凝らなそうだ』


 この部屋の主であり、ティルナ王国第六十四代国王ユリエールは、はだけて着崩れした長衣を直そうともせず、猫のように身体を伸ばした。

 長椅子脇の小卓の傍には、侍従らしき壮年の男が、陰のように立っていた。


『〈聖なる〉ものなぞ、作り上げるのは簡単なことだ。 いわくありげな器に、もったいぶって、隠すように入れておけば、周囲は勝手に、その中身を価値あるものではないかと、憶測する。 それが噂として、巡り巡る内に、憶測は真実のように語られ、いつしか噂が、隠し入れた中身の、真の姿となる。 ――しかし、哀れなるかな。 噂が真実となった時、その中身は、器から出る事が叶わなくなる。 真実となった噂を、真実とし続けるために。 今の私が、良い例だろう? これが私の、自然体だというのになあ』


 ユリエールは腰帯の先を指でつまむと、先に付いた房で、自分の頬を撫で笑った。


「そう――例え、これこそが"私"であっても、皆が"かくあるべき"と思い描く"ティルナの王"と異なれば、あの女官の申すが如く、人々は私に失望するだろう。

 思い描く〈聖なる〉ものの姿が、美しくあればある程、人間達は、その落差に失望するのだろう。 失望はいずれ裏切られた、という思いに変わり、その裏切りに、怒りを覚えるようになるだろう。 怒りは、いつしか憎しみに変わり、そして ――膨らんだ憎しみの果てにあるものは――ねえ、ラース。 お前は何だと思う?』


 ラースと呼ばれた男は、眉間に深い皺を刻み、ユリエールを見据えていたが、問いに対しては何も口にしなかった。

 ユリエールは、そんなラースの様子を愉しむように見上げた後、上半身を起こし、金色の瞳に燭台の炎を映し、微笑んだ。


『――なにやら、東の辺りで、動きがありそうなんだって?』


 ラースはようやく、求める話が出来る状態になったと判断し、口を開いた。


「〈ウルド〉が、〈信者〉の下に潜んだとのことです。 既に多数の聖獣が、その贄となっているようです」


 ユリエールは、一瞬、笑顔を消すと、長椅子の背に両腕をかけ、視線を天井に向けた。


『〈聖神聖教(シン・エルナイ)〉か。 ――はん。 それはまた、鬱陶しいところに転がり込んだものだ。 年が明ければ、八年に一度の〈大祭〉――〈斎王〉が選ばれる年。 まるで、狙い合わせたようだな』


「オリアスの〈闇森〉で、アラスター=リージェスが、〈ウルド〉の呪を妨げ、深手を負わせたようです。 簡略なものですが、その折の報告が上がってきております」


 ラースは、革紐で綴じられた書類の束と老女官の置き土産の衣を、ユリエールに渡した。 

 ユリエールは衣を長椅子の背に掛けると、パラパラと書類をめくった。


『へぇ? 奴の目に適った〈適合者〉は子供だったってわけだ。 で、呪を中途で妨げられた結果、奴自身が深手を負った。 背に腹は変えられず、人間――〈聖神聖教〉の手を借りることにした、といったところか。 でかい呪をしくじれば、呪者はかなりの痛手を受けるらしいからな。 それは奴でも、変わらなかったというわけだ。 ま、それじゃなくても、ここ数百年、まっとうに糧を得てなかったろうから、さぞ、弱っていただろうしな』


 ユリエールは、書類に再度目を通すと、視線をラースに向けた。


『詳細は書かれていないが、この〈適合者〉。 ひょっとして――例の巫子が、精霊王殿から盗み出した、あれか?』


「そのようですね」


 ユリエールは長椅子を立つと、ラースの目の前に立ち、書類をラースの鼻先に突き出した。


『なかなか、面白いことになっているじゃないか。 皮肉――とも言えるがね』


 ラースの目を見据えながら、ユリエールは冷ややかな笑いを浮べた。


「如何なさいますか?」


『さて、どうしたものか。 奴は――〈ウルド〉は、その子供が何者かは、気が付いておらぬのだな?』


「恐らくは」


『だろうな。 しかし、《名》と《影》の半分を喰われた〈喰われ人〉の状態が、あまり長くなると危ういな。 闇に引かれかねぬ」


「〈鷹〉に命じ、連れ参らせますか?」


 ユリエールはしばし考えた後、手にしたままだった腰帯で、ラースの横面を軽く打った。


『いや。 あいつが共にいるのであれば、その必要はなかろう。 少なくとも、奴に喰わせはせぬだろうさ。 どのみち、どいつも最終目的地はここ、だ。 ならば、それまでは待ってやろうではないか。 〈鷹〉には、危急でない限りの手出しは無用と伝えよ。 ついでに、あいつに――アラスターに伝言を頼む。 "その子供をくれぐれも、大切に面倒をみろ"と。 あと"次に戻った時に顔を出さなかったら、私にも考えがある"――とな』


「――御意」


 ラースは、頭を下げ退出をした。

 一人部屋に残ったユリエールは、窓に寄り満月を見上げた。

 地上に在るものは、柔らかな月の光に染められ、淡い白光を纏っているかのように、闇の中に白く浮かび上がって見える。

 窓にもたれかかり、月光を浴びているユリエールの黒髪もまた、月明りに染められ、白銀に輝いていた。


『待っているよ――カラ』


次回、〈1:対峙〉に続きます。

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