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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

前略、夫が倒れました。

作者: 叶 葉





「え?何ですって?」


救急救命待合室から診察室に呼ばれ、入った先で医師に告げられた言葉は余りにも無情だった。


「ですから、旦那さんはくも膜下出血です。こちらをご覧ください。脳を輪切りにして映した画像です。分かりますか?これが眼球。これが耳。この位置を覚えていて下さい。次の画像、こちらが出血点です。この白く見える部分が血液が脳内に出てしまっている部分です。見た目が蜘蛛の巣の様なので分かりやすいですね。典型的なくも膜下出血で間違いありません」


白黒の画像を見せられながら淡々と話す医師。

右から左に流れる難しい言葉の数々が私を通り過ぎて行った。

まさか。

嘘だろう。

そんな気持ちで一杯だった。
















我が家には今年漸く幼稚園に上がったばかりの悪ガキが一人。

それから優しく思いやりのある夫と暮らしており、結婚生活全てが順風満帆という訳では無かったが、極々普通の生活を送っていた。

そんな平和な平日の事である。

今日は夫が半休を取っており、昼の十二時過ぎに帰宅した。

息子は幼稚園に行っているので束の間の二人きりの時間であった。


「何だか家が静かだね」


夫が少し嬉しそうに、そして少し寂しそうに言った言葉が印象的だった。


「そうねえ。いつも良太がいると騒がしいからね」


良太とは現在三歳になる息子の名前だ。

いつも元気溌剌で、最近は電車と働く車に夢中な男の子だ。


「今日矢鱈暑くない?汗掻いちゃったからお風呂入ってくるよ。出掛ける準備して待ってて。あ、痛たっ。また攣った!最近良くふくらはぎ攣るんだよなあ」


そう言って夫は脱衣所に入って行った。

梅雨入りして間も無くジメジメしてはいたが、そんなに暑かったかな?と首を傾げながらも夫の言葉を差して気にはしなかった。

出産後二人三脚で育児に邁進してきた我々夫婦に漸く訪れた時間にランチにでも出掛けようという事になり、浮き足立っていた。


準備を整えていると、風呂場から何かがぶつかったような音がした。


「大丈夫?」


声を掛けて脱衣所から顔を出すと、風呂場のドア。

曇りガラスに下方から打ち付けられるシャワーの水滴と、ドアの下部分に黒い塊が見えた。

直ぐに夫が倒れた事を理解し、ドアを開けようとするが、隙間しか開かない。シャワーが脱衣所に飛び出してくる事も構わず中を覗くと、夫が全裸で倒れ込んでおり、洗い場一杯を塞いでいるようだった。


「どうしたの?!大丈夫?!」


隙間から手を差し入れて何となく揺すってはいけないと思い、差し込んだ手で触れた肩を叩いた。


「ねえ!どうしたの?!大丈夫?!」


矢張り反応は無い。

必死に呼び掛けるが、埒があかない為、差し込んだ手で慎重に夫を動かした。

何とか隙間を開けて、グッとドアを押し開けた。


「大丈夫?!」


殆ど悲鳴に近い声を掛けながら呼び続ける。

すると、言葉にならない呻き声のようなくぐもった声を夫が発した。

その間も懸命に呼び掛け続けると、意識を取り戻した夫が起き上がった。


「どうしたの?何かあった?」


余りに普通に返された言葉に拍子抜けすると共にホッとした。


「まだ動かない方がいいよ。大丈夫?覚えてる?」


矢継ぎ早に質問を投げると呆けたように暫く考えてから、こう言った。


「いや、全然。風呂場に入ってからの記憶が無いよ。俺、どうした?」


「倒れたんだよ?余り動かないで。病院行こうよ」


動揺しながらも努めて冷静に言うと、夫は拒否した。


「頭痛い。気持ち悪いから横になって収まってから行きたいな。いたたたた」


夫はそう言って身体を軽く拭くと全裸のままベッドまで自力で歩いて行った。

四肢にも問題は無さそうではあるし、呂律はきちんとしている。

そこに少しの安堵を感じたが、言い知れない不安がモヤモヤと私の頭を埋めて行った。


「吐き気がする」


夫がベッドに横たわってすぐにそう言った。

私は慌てて洗面器にレジ袋を張り、ティッシュを幾枚か投げ入れて夫の近くに持って行った。

額の内側が痛いと言って身体を折り曲げている夫に服を着せる。

万が一の事を考えての行動だった。

そして良太の通う幼稚園に連絡を入れて、延長保育をお願いした。

電話を切った後、何度目になるか分からない夫へ病院に行くように伝えた。


「もう少し様子見させて」


力無くぐったりと横たわる夫にそう言われると成すすべもなかった。

そうして一時間程経った時、夫が吐いた。

もうこれはいけないと判断し、119番に電話を掛けた。


間も無く到着した救急隊員は三名だった。

矢継ぎ早に質問をされ、追い付かない頭で一つ一つ答えた。


「頭の一番痛かった時と比べて今はどれくらいの痛みですか?一番痛いのが十だとして今いくつですか?」


レッカーで乗せられた夫に若い女性の救急隊員が質問する。


「えー、あー、八くらいですかね」


頭痛を堪えながら夫が答えた。

酷く苦しそうな様子に不安だけが募った。

祈るような気持ちで一杯だった。

暫くして搬送先の病院に着いた。

救急待合室で待機するように指示を受けた。

待合室の空調がやけに寒く感じた。

これから夫はどうなってしまうのか。

一体夫に何が起こってしまったのだろう。

様々な考えが頭の中を過ぎっていったが、まともに答えを持ち合わせているものは、どれ一つとしてなかった。


「青木さんの奥様、お入りください」


医師はそう声を掛けるとすぐに扉の中へ消えて行った。

扉を見つめる。

白い扉には救急診察室と札が掛かっていた。

この何の変哲も無い扉が、私には冥界の扉のように感じた。


もうここまで来てしまったのだ。

いい加減腹を括ろう。


深呼吸を一度してから、扉を開けた。








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