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青い痛みの先に  作者: ひろゆき
8/23

弐 ーー 杉浦の想い。野村の存在 ーー (1)

 今回から、第二章になります。

 苦しみ ーー

 辛さは人それぞれなのかもしれません。それは、野村を献身的に見舞う杉浦にも。その姿に、尾崎も少なからず迷いが生じてしまいます。今回は、人によって苦しみが現れる部分になっています。よろしくお願いします。

               弐

 


               1



 野村七瀬の病室に訪れたのは、これで二度目になった。以前より緊張しないつもりでいたが、やはり胸の鼓動は速まっていた。

 病室での重い空気、心電図の電子音が、より際立っていたからかもしれない。

「今日はお前の好きなのが売っていたよ」

 今日も眠ったままの野村に、杉浦はコンビニで買ったペットボトルの紅茶を、ベッドのそばのテーブルの上に置いた。

 杉浦はベッドの脇に丸椅子を引き出して座ると、何も語らないまま、野村の表情をじっと見詰めていた。

 何も語らずじっとする杉浦に、尾崎も声をかけることはできなかった。壁際に置かれたソファーの隅に腰を下ろし、コンビニで買ったコーラを少しずつ飲んでいた。

 尾崎も口を噤まずにはいられなかった。杉浦の丸めた背中を見ていると、どんな励ましも軽率で無責任な言葉になってしまう恐れがあったため、臆してしまったのである。

 重い空気に包まれていたときである。

「昨日、誕生日だったんだ」

 杉浦の声は、心電図の電子音にさえ、掻き消されそうなか細い声であったが、尾崎には強く響き、咄嗟に顔を上げた。 

 すると、杉浦は野村から窓の方に顔を上げていた。

 窓の外を眺めるように。

 えっ、と尾崎は体の向きを変えていると、杉浦はすでに野村に視線を戻していた。

「昨日、こいつの誕生日だったんだ」

「野村…… さんの?」 

「どこかで信じていたんだよね。こいつは何かのきっかけで突然、目が覚めてくれるんだって。それはいろいろあった。明日、一週間、一ヶ月。最初は何気ない日だった。それがダメだと分かったら、次は学校の行事。文化祭、学期の終わり、新学期。結局それも違った」

 そこで、杉浦は体を尾崎へと向けると、今度は天井を静かに見上げた。

「それは中学を卒業して、高校に入学して…… それでもダメで。それで、恥ずかしいんだけど、クリスマスとか。そんなことまで期限に考えるようになったんだ。それでも、どれだけ日が経ってもダメだった」

「じゃぁ、誕生日も?」

「そう。最終的な期限に考えていたのが、こいつの誕生日だったんだ。どこかで信じていたんだよね。誕生日になればって。けどさ、それが昨日でもう二年なんだよね」

 喋り終えた杉浦は頭を抱え、うつむいてしまった。小さく体を丸める杉浦に、尾崎は声をかけられなかった。

「無力だよね。何もできないなんて」

 弱音を吐いたのは尾崎。それは杉浦にではなく、話を聞いても何もできない自分に対しての無力さを嘆いてしまった。

「なんで、こうなってしまったんだろう」

「それはーー」

 自殺だから ーー

「なんで、こいつは変な“力”を持っていたんだよ……」

「ーー“力”?」

 突然のことで耳を疑い、野村をにらんでしまった。

「あ、いや、なんでもない。気にしなくていいよ」

 尾崎の反応を見て、気まずそうに杉浦はかぶりを振った。

 これ以上は訊かないでくれ、と訴えるように。



 その後、何度か訊いてみた。“力”とは聞き逃すわけにはいかないために。思わず自分にも“力”があると、口を滑らせそうになりながらも。

 それでも杉浦はぐらかすだけで、牙城を崩すことはできなかった。

 ただ、やはり杉浦は何かを知っている。それは、自殺に追い込まれた野村七瀬に関わり、彼女も“力”を持っているということも。



 それ以上、杉浦からは話を聞けなかった。力なく呟いた後、まるで貝みたいに黙り込み、野村へと体を戻していた。

 いたたまれなくなった尾崎は病室を辞した。

 エレベーターで一階に降り、正面ロビーを横切ろうとしたときだった。尾崎の足が唐突に止まったのは。

「……矢島?」

 見慣れた紺色のブレザーにグレーのスカート。制服姿の矢島が、受付ロビーの待ち合いの長椅子に座っていた。

 矢島と目が合うと、「座れば?」と隣に置いていたリュックを膝の上に置き、隣の席を空けて促した。

 断るのも不自然で従ったが、普段よりも体が重かった。

「野村さんのところ?」

「お前、知ってるの?」

「ううん、詳しくは。ただ、前から私もこの病院で杉浦くんを見かけたことがあって。それで少し話したことがあったから」

「じゃぁ、野村さんの知り合いってわけじゃないんだ」

 そこで矢島は頷く。

「あなた、“力”のことで悩んでいるんでしょ。それは私も一緒よ……」

 真意など分からなかった。それでも、矢島の呟きは、尾崎の肩に重くのしかかっていた。

「ねぇ、あなた“姫香”って人のことを知ってる?」

「知らない」

「……私も知らない人なんだよね。その子の名前は」

「ーーなぁ」

 そこで、尾崎は左手をギュッと握り、

「なんで僕は人を消してしまったんだろう」

 ごく自然に訊いていた。

 ざわめきに紛れながら、尾崎は問いかける。矢島はすぐには答えず、膝の上に置いていたリュックをギュッと抱きしめた。



              2



 静寂した教室。尾崎以外は誰もいない中、自分の席でない中央の席に座っていた。

 うつむく尾崎に、背筋に悪寒が走る。今の状況が異質な環境であるのは、肌で強く感じていた。

 心のどこかで自覚してしまう気持ちがあった。これは夢なんだと。

 だからこそ、顔を上げた机の前に、グレーのパーカーを着て、フードをかぶった女の子が立っていることにも驚きはしなかった。

 やはり彼女はフードを深くかぶり、表情は読み取れなかった。それでも、今回は逃げてはいけないと、自身を鼓舞した。

 机の上に、今回カードは置かれていなかった。

「お前は野村七瀬なのか?」

 確証なんてなかった。それでも杉浦の言葉が気がかりになり、口を突いて出ていた。

 不思議と、以前の夢と今の状況が繋がっていると、錯覚していた。

 彼女は返事をしなかった。尾崎の声がちゃんと届いているのか疑いたくなるほど、微動だにしない。

 細い指の先にまで集中したが、やはり動揺している様子はない。必死に耐えている可能性もないわけではないが。

 まったくの無反応が逆に尾崎の疑念を深め、眉間にしわを寄せてしまう。

「目的はなんなんだ?」

 強い口調で責めた。すると、彼女は静かに息を吐いた。

「私の目的? それは私が消えることでしょうね」

「お前が、消えること?」

 彼女はそこで口を一文字に閉ざしてしまった。



 自らの唸り声で、半ば驚いて尾崎は目を覚ました。朦朧とする意識の中、白い天井が飛び込んできた。

 夢だ交わした言葉は、頭の中で鮮明に刻まれていた。ただ、以前はあった胸苦しさや、容赦ない頭痛は、今は成りを潜めている。

 それでも、意味不明な疲労感だけは体を蝕んでおり、目蓋を閉じた。

 すると、静寂した教室の机に腰かけ、パーカーのポケットに手を入れて尾崎をじっと見詰めている、彼女の姿が目蓋の裏に浮かんだ。

 何かを呟いている様子に、背筋に悪寒が走り、咄嗟に目蓋を開いた。すぐさま、左の頬を指で擦ってみた。また、青い涙を流しているのでは、と恐怖心に駆られて。

 頬を何度も擦り安堵した。頬はぬれていない。青い涙は流していない。

 それは誰も消していない証拠であったから。



 火曜日の夕方。苦手な消毒液の臭いを我慢しながらも、尾崎は野村の病室に来ていた。

 今日は杉浦に病院に来ることを伝えてはいなかった。今日だけは、誰にも内緒で野村に会いたかった。

 普段通り、放課後に杉浦はすぐに下校していた。もし、そのまま病室に来ていたのなら、次の機会を伺おうとしていたが、今日はまだ来ていなかった。

 依然として静まり返る病室。心電図の音が、野村の呼吸みたいに小さく響き眠る中、尾崎はベッドの脇に立ち、頬を強張らせて、穏やかに眠る野村を見下ろした。

 右手にカッターナイフを持って。

 左手の人差し指に傷をつける。滲み出る赤い血。それを親指で中指、薬指、小指と血を広げていく。

 そこで準備は整う。後は消したい人物の肌に触れるだけ。別に顔じゃなくてもいい。

 触れられた相手はいつ消えるのか。感覚としては数時間後。消滅した後の記憶はないので、明確な時間は把握していない。しかし、手順は簡単。それだけでいいのだから、痛みは最初の一瞬だけ。

 心臓が胸の内から飛び出そうと鼓動している。頭で冷静に手順を踏まえているが、体は強張っている。

 心臓を押し留めるように、唇を一文字に閉じ、尾崎は静かに眠る野村の額の上に左手を差し出した。

 消えたいんだろう、お前は ーー

 心で問いながら、左手をゆっくり下ろしていく。後十センチ。そして五センチと……

 前にも誰かを消したはず。それなのに、急に左手が恐怖から突然震えていく。

 人を殺す恐怖に。

 意識を指先に集中させ、震えをごまかしていく。

 後、三センチ……



        

 苦しみは人によって、違うのかもしれません。自分の“力”に悩む尾崎と、まったく違うことで悩み、辛い存在として、杉浦と野村を出すことにしました。形は違うにしろ、苦しむ姿に尾崎も行動に移ります。それによって、苦しみが消えるのか…… 次回に続きます。

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