壱 (6)
夢に出てきた人物は何を訴えているのか。それでも、夢は尾崎の“力”に関わりのあることなんだと分かります。そして、そこから、ルーズリーフを尾崎に出した人物にも少なからず、繋がっていきます。
8
金曜日の朝。今朝も目覚ましより早く起きたのは以前と同じく、酷い頭痛に襲われたからであった。
今日は夢の内容わはっきりと覚えていた。
フードをかぶった少女は誰だったのか、と疑問が残る目覚めに、気持ち悪さを拭えずにいた。
しかも頭痛とともに、左目の痛みが酷かった。それこそ、青い涙を流したときのように。
咄嗟に左手を頬に触れると、尾崎はホッと胸を撫で下ろす。涙は流していない。
辛うじて大丈夫だったが、視界が霞むほどに痛んでいた。
胸に竦む気持ち悪さに、少なからず苛立ってしまった。
あの夢は“力”と相互関係があることに気づかされ、そこで以前に見た夢の、聞き覚えのない男の声も関係があるのかと、渋々受け入れなければいけなかった。
滅入る気持ちで体を起こしてリビングに向かうと、目の痛みを和らげようと、目薬を注した。
痛みから、また病院に行かなければいけないかも、とより心が重くなってしまう。
「痛みが酷いのなら、眼帯でもつけたらいいのに」
執拗に瞬きをする姿に、それを見ていた母親がこぼした。
眼帯、か ーー
瞬きをしつつ、母親の話を流しながら、記憶がざわめいていた。
「眼帯なんて嫌だよ。あんなのダサい」
「ダサいって、病気になったらどうするの? いいじゃない。ものもらいだって嘘をついておけばいいでしょ」
「だから、いいって」
何度か瞬きをしているのを心配しているみたいだが、面倒くさくなり否定していると、母親は「はい、はい、」とぞんざいに吐き捨て、台所に戻った。
対して、尾崎はまだ瞬きをしていると、不意に止めた。
何かが引っかかった。
目薬のお陰で、霞んでいた視界も楽になっていた。多少、まだ充血していたが、学校に行くには支障がなかった。
「どうしたの、その眼帯。またものもらい?」
「ううん。今日はちょっと腫れちゃって」
朝の教室。豊田とくだらない会話をしていたときだった。どこかからか、そんな声が尾崎に届いたのは。
「あれ? 矢島の奴、前にも眼帯つけていることなかったっけ?」
今の会話に豊田が食いつき、視線を移した。
そうだっけ、と返事をしつつ、尾崎も視線を動かした。ちょうど、尾崎の席からは横の列の、窓際の一番後ろの席が盛り上がっていた。
矢島弥生。
栗色に染められた肩までの髪を擦り、笑っていた。前髪を右に流していたが、元々目が細かったのだが、眼帯のせいで右目が大きく見えてしまう。
「確か、前も眼帯をつけていなかったっけ。あれって、二週間ほど前か」
「そうだっけ?」
机に教科書を移している姿を眺めつつ、以前を思い返していたが、尾崎は曖昧な返事しかできなかった。
何しろ、二週間も前となれば、ちょうど青い涙を流していた日に近かったから、話を聞くかたわら、ふと思い出してしまった。
げんなりして首筋を掻きながらも、矢島を見ていると、手が滑ったのか、教科書を何冊か落として、慌てて拾い上げた。
「やっぱり、片目だと見難いのかな?」
「さぁ。眼帯って使ったことないからなぁ」
落とした教科書を拾うと、机の上でドンッと、整理してから机に入れ直した。
そういえば、あいつも…… ーー
豊田と喋っているときはそうでもなかったが、授業中、退屈になると、不意に今朝の夢の内容が脳裏に蘇ってくる。まるで、映画を観ているようにはっきりと流れていた。
それと同時に、杉浦の意味深な言葉も導かれるように、耳元で木霊した。
教室では数学の教師が数式を解いていたが、尾崎の耳に入らなかった。
もう午後の授業になっていたが、杉浦は登校していなかった。今日も休みらしい。
胸にすくむモヤモヤを晴らすことができず、尾崎は苛立ってシャープペンの先を、机に何度も突いてしまった。
その後も胸の気持ち悪さは残り、時間だけがすぎて放課後になっていた。やはり杉浦は現れなかった。
体を崩したのか、それとも病院に行っているのか。おそらく病院に行っていると、尾崎は悟った。
杉浦なら、体調が悪くても無理して、野村のそばにいる気がした。
疑念を晴らすならば、病院に行って、直接訊けばよかったのだが、気が重く、逃げるようにまた屋上に来ていた。
そこでまた電話をしてみようと。
誰かに聞かれたくない。と、変な緊張を抱いての行動であったが、屋上に出て予定は打ち砕かれた。
屋上には先客がいた。
グランドからは陸上部のかけ声が聞こえ、晴れ渡る空が見下ろす屋上。その淵の鉄柵に肘をかけ、グランドを眺めていた女子生徒が一人いた。
「ーー矢島?」
尾崎の呼び声に、女子生徒は鉄柵から肘を放し、こちらに振り返った。髪がなびき、正面をこちらに向けたとき、手で髪を整えた。
尾崎を見つけて目を細めたのは矢島弥生。まだ左目には眼帯をつけていた。
「まだ帰っていなかったんだ」
「うん。ちょっと、考えごとがあって」
矢島に歩み寄りながら訊くと、「うん」と頷き、「尾崎くんは?」と問い返した。
校舎と矢島との中間付近で尾崎は足を止めてしまう。
「うん。僕もちょっとね」
ズボンのポケットに手を入れていたが、咄嗟に抜き出した。ポケットにはスマホが入っていた。
話すべきではない。と心が警告して鼓動が速くなり、電話をすることを濁らせた。
矢島は目を大きく開き、尾崎を屈託なく見てきた。好奇心に満ちた仔猫みたいに。
以前、授業で提出しなければいけない物があった。矢島はクラスでも成績がよかったので、助けを請う者が矢島に集まっていた。
その中には、普段はあまり仲がよくなかった者も。
そのとき、ノートを見せてはいたが、その表情は冷たく、蔑んでいるみたいに取られ、矢島に対してあまりよくない印象がまとっていた。
仲のいい子は、真面目なんだと弁解するが、妬む者の意見が強く広がり、矢島は冷たい人物なんだと思われるようになっていた。
尾崎にもそのイメージが植えつけられ、目の前の幼い様子には面喰らってしまった。
「いや、まぁいいんだ。うん」
普段と違う様子に戸惑いながら、尾崎は屋上を去ろうと、矢島に背中を向けた。やはり通話の内容は聞かれたくなかったので。
無論、矢島が屋上にいた理由も知りたかったのだが。
「また、誰かを消すつもり?」
一歩、踏み出そうとしたときだった。
まさに、心臓を握り潰されそうな衝撃が襲う。
耳を疑ってしまう。
尾崎は混沌とした闇に突き落とされてしまう。触れられてはいけない部分に、触れられそうな恐怖に。
急激に息苦しくなり、いたたまれなくなった。
恐る恐る尾崎は振り返った。矢島の言葉を疑いながら。
目線を泳がせながらも、捉えた矢島は、先ほどの幼さはどこかに捨てたみたいに冷たく、胸の辺りで腕を組むと、細く鋭い右目で、異質な威圧感を放って尾崎を捉えていた。
「なんだよ、それ?」
動揺してしまった。しかし、それを悟られてはいけないと、正面に向き合い、白を切った。緊張で頬が強張り、ぎこちなさを存分に放ちながら。
当然、尾崎の動揺は見透かされたようで、矢島は一度鼻で笑い、小さくかぶりを振った。
「……私も“力”を持っているから」
「ーーお前っ」
矢島は短く言い、指で左目の眼帯を指すと、尾崎の心に重く響いてしまう。
確か二週間前に矢島は眼帯を。そのとき、青い涙を? ーー
焦りが記憶を鮮明にさせていくと、いくつかの場面が巡っていく。
今朝、机に教科書を移している姿。あのとき、教科書と一緒に掴んでいたルーズリーフ。
矢島はルーズリーフを使っていた。それなら…… ーー
尾崎の左手に力がこもる。あのメッセージを残したのは……。
「お前だったのか? あのルーズリーフは……」
力なく訊いてしまった。聞こえるかどうか微妙なほど、弱々しい声で。
矢島は肯定とも否定とも、どちらとも取れないように唇を噛んだ。
唖然とする中、矢島は鉄柵から背を放すと、ゆっくりとこちらに歩み寄る。腕を組んで威圧感を放ちながら。
何もできずに立ちすくむ尾崎の横をすれ違ったそのとき、
「また、誰かを消すつもりなら、気をつけることね」
矢島は小さく囁いた。
それは尾崎に対しての警告か、忠告なのか、本質を聞くことはできなかった。
驚きで尾崎は顔を上げたが、振り返ることはできず、鉄柵の先のビルや住宅で歪んだ街を眺めた。
屋上に風が吹き、遠離る矢島の足音に気づき、なんとか尾崎は振り返る。
「待ってくれ」
ようやく声をかけ、入り口付近に進んでいた矢島に声を投げた。矢島は足を止める。
「なんで…… なんでそんなことを言うんだ」
「まだ“力”に溺れてはいないようね」
「……溺れる?」
矢島は最後の質問には答えず、軽く首を傾げると、校舎へと消えていった。
なんで矢島は“力”のことを知っているんだ? ーー
いや、矢島は自分に“力”があるのだと言っていた。それならば、杉浦はどうなのか?
杉浦は自分に“力”があると言っていなかった。しかし、“力”のことを知っているのを匂わせていた。
尾崎自身、“力”について把握していることは少ない。誰かを消したのかさえ、覚えていないのだから。
忘れている。
“力”を使った感覚だけが残るだけで、すべてが曖昧になっていた。
以前、似た状況に陥ったことが、記憶に刻まれているという曖昧な形で。
しかも、それがいつだったのかが明確ではなく、今回ほど深く気がかりになるのも初めてだった。
都合がいいな、と嘲笑せずにはいられない。だからこそ、今回は気味悪さに襲われる。
杉浦と矢島に対しても。
それでも二人を問い質すことはできないまま、尾崎は病院を恐れていたが、行くしかなかった。
新たに現れた矢島。尾崎に対して、堂々と“力”の存在を示す彼女。それが脅しであるのか、助言になるのか、また、嘘なのか真実なのか、彼女の真意を想像していただければ嬉しいです。




