表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
青い痛みの先に  作者: ひろゆき
1/23

 物語の序章になります。始めは短い内容になるだろうと思ったのですが、思いのほか長くなりました。今回の部分で、作品の雰囲気が伝わっていれば嬉しいです。よろしくお願いします。

              序



 時が喰われていく。

 闇に沈んでいく日常が痛かった。ざわめきが耳を切り裂いて、突き抜けていく。

「あれ? 江川はどうした?」

 遠くで担任が江川絢の名前を呼んでいたが、自分の名前を呼ばれても息を呑むだけで、答えることができなかった。

 答えられない。

 江川は目を開くと、暗闇の中に横に長い長方形の細い溝を見つける。そこから光が漏れており、遠くが覗けた。

 明るい教室。一日最後のホームルーム。担任が最後の出席を取っていた。

 江川は教室にいる。それでも、居場所はなかった。

 教室の後方に並べられたロッカー。今はそこが江川の居場所になっていた。窓際から三番目のロッカーが。

 そこで唇を強く噛み、声を噛み殺すと、自分の存在を消さなければいけなかった。

 手を伸ばし、扉を押せば開くことができるのに、それをせず息を殺している。

「お昼ごろにはもういなかったよ」

 ざわめきの中、一人の女子生徒の明るい声が教室に響いた。

「なんだ、早退したのか。ったく、勝手に帰って何を考えているんだか」

 憤慨する担任の声が江川の胸をえぐる。

「ま、いろいろあるんじゃないの~」

 息を荒げる担任を、女子生徒が宥めるように付け加えると、「まったくっ」と、担任は唸るのを最後に、別の話を始めた。

 ここにいる ーー。

 この一言が言えなかった。

 まだ気持ちが治まらない担任のため息に、失笑に似たざわめきが、ロッカーの暗闇に残酷に届いていた。

「なんで帰ったんだろうね」

 受け答えしていた女子生徒が発していた、誰に問うわけでもない声が教室を横断する。

 言葉の節々に嫌みを含め、嘲笑うようにして。

 江川をロッカーに閉じ込めた張本人の長瀬寧々に。

 江川はイジメを受けていた。

 原因はなんだったのか分かっている。 

 些細な理由なんだと、本人は受け流していたが、その代償がこの場所になっていた。

 クラスの全員がイジメの実態を知っている。知らないのは担任だけ。いや、知っていても、それを見て見ぬ振りをしているだけかもしれない。

 今、扉を開ければよかったがそうはせず、音を立てずに後ろに頭を凭れさせ、静かに息を吐いた。

 目を瞑り、暗闇の中に身を潜めた。

 今、江川の居場所はロッカーの中だけであった。

 イジメを受けて、反論もしなければ悲しみもせず、泣くこともなかった。ただ、じっと何も感じずにいた。

 私はマネキン ーー

 そう考えれば気持ちは少し楽になっていた。ここには自分は存在しないと。

 授業もそうであった。

 昼休みにここに押し込められ、午後の授業も江川は早退したことになっている。やはり出られずにいた。

 それでも授業の内容は耳に届いていた。

 耳で聞いていればいい。黒板に書かれていることは想像すればいい。見えていないからこそ、思考が働き、逆に内容が入ってくれて、より理解できるから問題はない。

 問題を当てられないのも利点である。と、考えればいいだけのこと。

 そうやって、無理矢理に納得させた。

 自分が標的にされたのは、長瀬が自分より劣っていて、妬んでいるだけなんだ、逆にそうしなければいけない長瀬が惨めなんだ、と。

 原因は簡単だった。

 数ヶ月ほど前、江川には恋人がいた。クラスでは中盤ぐらいの、イケメンではないが明るくて、気の利く彼氏で、みんなからの評判もよかった。

 ケンカをすることもあったが、別れる素振りは何もなかった。

 長瀬が邪魔をしなければ。

 きっかけがなんだったのかは江川も知らない。しかし、長瀬が彼氏に好意を抱いている噂が流れ、実際に長瀬が彼氏に話しかける頻度も増えていた。

 彼氏はそんな長瀬に揺らぐことはなく、江川も安心していたが、それも長くは続かなかった。

 一ヶ月前、学校の帰り道。彼氏から夕陽を背中にして突然、別れを告げられた。

 理由を聞いても「ゴメン」の一点張りで、何も答えてくれなかった。

 問い詰める江川から、逃げるようにして去っていく彼氏。

 状況が掴めず、遠くの彼氏の背中を目で追っているときだった。

 街の住宅の隅から、彼氏を待っていたように、長瀬がひょっこりと姿を現した。まるで、お菓子を与えられた子供のように無邪気に、ぴょんぴょんと跳ねるようにして。

 それは、あたかも自分が恋人であるように、彼の腕を取って寄り添うと、そのまま歩き去ってしまった。

 彼氏は笑っていた。

 その笑みは数日前まで江川に向けられていた無垢な微笑み。

 それを、長瀬に向かって注いでいた。

 去り際、何かに気づいたように長瀬が振り返ると、江川を見つけた。すると、勝ち誇ったように口角上げて笑った。

 江川が見ているからこそ、長瀬は笑ったのだ。

 二人の姿がしばらくして、角を曲がって消えた。

「……あっそ」

 江川はふと、髪を掻き上げ、耳の辺りで手を止めると、頬を引きつらせて冷笑した。

 悲しかったのか、悔しかったのか、よく分からない。

 次の日、長瀬の江川に対するイジメが始まった。

 自分の存在を誇示するためか、勝者が敗者に対する容赦ない暴挙かなのか真意は分からない。

 それでも、江川は甘んじて受けていた。

 ただ、彼はそれを止めることはせず、静観するに留まっていた。


 きっと泣き叫び、登校拒否に追い込んで、実質的な勝利を収めたいだけ、と言い聞かせ、それならば、徹底的に反抗してやろうと、今日まで静かに耐えていた。

 ロッカーの暗闇の中、静かに息を吐いた。

 視界を遮断すると、ほかの感覚が研ぎ澄まされていく。

 以前、テレビで急死に一生を通し、死の間際から生還した人物のドキュメンタリーがあり、インタビューで火災の中、視界が不思議と鮮明になり、逃げ道が分かって助かったと言っていた。

 その感覚が本当なのかも、と楽しくなってしまう。今、江川は不思議と時間の流れを肌で感じ取ることができた。

 唇を一舐めしてみせた。

 ロッカーの扉を隔てた先の教室では、すでにホームルームは終わり、放課後に残っていた生徒の声もしない。

 みんな帰ったらしい。

 聴覚が教室の空間を把握していく。もう、教室には誰もいない、と聴覚が語りかけていた。

 さてと、帰ろうかな ーー

 教室から誰もいなくなったとき、それが江川の下校のきっかけであった。誰かに会うのが面倒であったから。

 気持ちを鎮めるのに目を閉じながら、扉に手を添えた。

 同時にドンっと、勢いのある音に驚き、目を開いた。

 江川が扉に手を添えた瞬間、表側から、誰かが乱暴に扉を叩いたのだ。

 驚愕して胸を締めつけられたが、すぐさま江川は舌打ちをした。

 まだ誰かが残っていた。

 相手が長瀬ならば面倒だ、と手を放し、江川は静寂を身にまとった。このままマネキンを貫き、事が収まるのを待とうと。

 後ろに背中を預け、また目を閉じた。

「……イジメから解放してやろうか?」

 その声は、予想を裏切る問いかけだった。どこか聞き覚えのある男子生徒の声。

 長瀬ではないことに、半ば安堵してしまう自分に少し苛立ち、また舌打ちをしてしまう。

 しかし、今の問いが気になり、ロッカーの溝から教室を覗いてみた。だが、小さな穴からは人影を見つけることはなかった。

 何、今の? ーー

 好奇心が体を動かし、扉を開こうとすると、今度は穏やかに三度、扉をノックされた。

「なんだったら、僕が殺してあげようか?」

「ーー殺す?」

 驚愕する言葉に目を泳がせながら、思わず返事をしてしまう。

「そう。僕なら、お前の嫌いな奴を殺すことができる」

「はぁ? 何、言っているの? あんた、バカ? 大体、なんでーー」

「気にするな。僕も気に入らないだけだ。長瀬とかにね」

「冷静になって聞いていると、相手が誰なのか把握したが、相手に話を遮られ、止まってしまった。

 その後、男子生徒の話が気になり、顎に手を当てて少し話を聞く気になった。

 どうやら、男子生徒は自分の姿を隠したいらしい。

 江川は話に付き合うことにした。

「……殺せるの、本当に?」

 それは神の助けか、それとも悪魔の囁きなのか。江川は考える間もなく、問い返してしまった。

「殺せるよ」

 男子生徒は淡々と答える。

「見返りは何? そんなの、ただのボランティアでする。なんて言わないでしょ」

「安心しな。そのボランティアだよ。言っただろ。僕もウザいんだよ。長瀬が。それが理由ならダメか? 互いの利害が一致しているって思うんだけど」

 感情を押し殺した声に、江川は考え込んでしまう。顎に当てた指が、突くように唇を叩いてしまう。

 ややあって指が止まる。

「ふ~ん。面白いわね」

 それはある意味、返事になっていた。

「了解。じゃぁ、誰を殺す? 長瀬か? それとも、あいつの金魚の糞の金子か? それとも綿部か?」

 腕を組み、仰け反った状態で、倒れ込む江川の腹を踏んで嘲笑う長瀬の顔。

 その両隣で、子猫がじゃれ合っているのを楽しんでいるように笑う、二人の姿が脳裏をかすめる。

 不意にそのとき、踏まれた脇腹が思い出したのか痛み出し、思わず手で押さえてしまう。

 誰にする? ーー

「ーー違う」

「どうする? やっぱり、長瀬か?」

「あんな奴、どうでもいい」

「ーーん? でも、あいつが嫌いなんだろ」

「嫌いよ。けど、あんな惨めな奴、殺したって意味ないし」

「惨め? あいつが?」

「そう。あいつは、私に何一つ勝ってる部分がないのよ。だから、私をイジメて、それを隠そうとしているだけ。負け犬ほどよく吠えるでしょ。それと一緒よ」

 痛み出す脇腹を擦りながら、嘲笑してみせた。

「言うねぇ。なら、誰にするんだよ」

 男子生徒もつられて嘲笑った。

 殺したいのは…… ーー

 あれはいつだっただろうか。江川の記憶が過去の扉を開く。

 どこかの長い階段。その頂上からは、街を見渡せる絶景があると、鼓動を高めて登っていたが、途中で足がもつれてしゃがみ込んだ江川。恥ずかしさから苦笑していると、江川に一人、手を差し出してくれる人物がいた。

 恥ずかしがりながらも、嬉しさから頬を赤めながらその手を掴み、体を起こした。

 そのときは。

 江川はため息をもらし、現実に戻ると、掌を暗闇の中で眺めた。

 肺からすべての空気を出し切ると、背中に悪寒が走る。

 眺めている掌からは、汗が噴き出しそうな感覚があり、胸の中を嫌悪感が渦巻いていた。

 気持ち悪い ーー

 昔を思い出した瞬間、今すぐにでも手を綺麗に洗い、いや、洗浄したかった。

 それほどまでに、後悔にさいなまれていた。

 江川はスッと掌に息を吹きかけた。手に残る感触を振り払うように。

「殺してほしいのは…… 谷原よ」

 谷原 悠。

 あの日、江川に手を差し伸べた人物。江川の元カレであり、長瀬とすぐに付き合った人物。

 今ではあの日に見た笑顔すら、寒気が走る。忌まわしい顔でしかなかった。

「谷原って、本気か? あいつは確かお前の……」

「そうだよ。だからよ」

 男子生徒も、江川との関係を把握している。だからこそ念を押すが、江川はそれを力強く言い切った。

 信じていた。どれだけ長瀬が言い寄ろうとも、江川を選び、長瀬を強く否定してくれることを。

 ところが……

 長く付き合っていた江川を捨て長瀬を選び、自分を裏切った谷原を信じられなかった。

 勝ち誇り、長い髪をなびかせる長瀬なんて無視するのはかんたんだった。

 しかし、谷原だけは許せない。

「いいのか?」

「何? これだけ言って、あいつは殺せないの?」

「言うねぇ。分かったよ」

 念を押す男子生徒に、江川が強く言いくるめると、男子生徒は苦笑し、それを聞いて江川も鼻で笑った。

「と言っても、それなりの時間がかかってな。そうだな、明後日だな、今からなら。明後日には、谷原を殺しといてやるよ」

「明後日って、結構時間がかかるのね。まぁ、いいわ」

「あぁ、そうだ。お前、見返りがどうって言っていたよな。それは無意味なんだよ」

「無意味? どういう意味?」

「ま、特別でね。明後日、確かに谷原は死んでるさ。けど、そのときには、お前はあいつのことを忘れているからな」 

「ーー忘れる?」

「ま、それは企業秘密ってことにしてもらうよ」

 忘れるという感覚に疑問があったが、男子生徒はそこを突かれるのを拒むように、話を逸らした。

 江川もそこは深く追求はしなかった。

 谷原が死ねばそれでいい。

「けど、いいのか? 谷原を殺せば、お前のイジメは終わるのか?」

「……すべての事情を話さなければいけない?」

 三人の経緯を話すのが面倒で、江川はぞんざいに言い返すと、男子生徒はしばらく黙った。

「……なるほど。イジメはあいつが原因ね」

 男子生徒は言葉を謹んだが、三人の事情を多少は察したらしく、含みを込めて頷いたのが江川にも聞こえた。

 そこは否定しなかった。

 「なら、安心しな。明後日にはすべて忘れているさ。お前がイジメに遭っていたことも。長瀬がイジメをしていたことも。まぁ、一日我慢しておけば、お前は解放されるさ。そらは保証する」

 慰めているようだが、抑揚のない淡々とした口調が返って不気味に聞こえてしまう。

 ただ、そこで江川は顔を上げ、隙間から教室を眺めた。

「すべてを忘れるんだ……」

「そうだな」

「そう、残念ね」

 解放される安堵に対し、江川は眉間にしわを寄せ、首を傾げた。

 それには、男子生徒も「は?」と聞き直した。

「本当にイジメのことを忘れても、きっと私の体は覚えていると思うわ。意味もなく叩かれたり、蹴られたり、髪を引っ張られた痛みは。それに、長瀬さんの顔を見たとき、私にうごめく嫌悪感はね」

 そこで、江川はまた脇腹をゆっくり擦り、暗闇の一点を睨み、唇を舐めた。

 闇に浮かんだ、前髪を掻き上げる長瀬の顔を睨んで。

「きっと、私はあの子に敵意を抱き続けるでしょう。楽しみね。理由も分からず、私に打ち負けて、ひれ伏さなければいけないなんて。その理由を私も忘れているから、残念って言ったのよ」

「ーーお前、それって」

 男子生徒は声を潜めてしまう。まるで怯えるように。

「まぁ、いいさ。なら、明後日を楽しみにしているんだな」

 江川は暗闇の一点を睨み、顎に指を当てると、不気味に口角をつり上げた。

「……後悔させてあげるわよ」


 今回の部分と、「あらすじ」とでは話の内容が違ってしまいました。すいません。それでも、どうしてもこの流れを描き、その上で、「殺してあげようか?」という言葉に繋げたかったので、この形にしました。この序章の内容を、ちょっとでも意識していただいて、今強の話を読んでいただければ嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ