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ツンデレハーフと四月九日 後編

「今日は本当に来てくれてありがとう」


 男の話出しは滑らかだった。手慣れているのだろう、少しもよどみがない。


「ここに来てくれたということは、みんなボランティアというものに少しは興味があるってことだよね?」


 隣に八咫野さんを感じながら、わたしはなるべく男の言葉に耳を傾けないように意識していた。


 皆を座らせ、男だけが正面に立って身振り手振りを交えて話している。背後には見たことのない、メトロノームを縦にしたような振り子の装置が据えられている。


「このサークル、『Help』に興味を持ってくれている時点で、君たちは他の新入生たちとは違う。彼らは大学に何を求めているのかわかるかな? そう、青春だ。勉強なんてしたいと思っている人間なんてほとんどいない。『女の子もモテたい』『男の子にちやほやされたい』『夜が明けるまで飲み明かしたい』。考えているのはそんなことばかりだ」


 一息にそうまくしたててから、男は一人の新入生を指さした。


「じゃあ、そこの君。これらの欲望に共通するものってなにか、分かるかな?」

「え? あ、えっと……」


 指名された新入生の女子は少しだけ思案したあと、控えめに答えを出した。


「自分のため……ってことですか?」

「その通りッ!!!」


 その女子の答えに対して、男は今までの穏やかな様子から考えられないほどの大声を出した。


 今思えば、それこそが男のテクニックだったのだろう。


 多かれ少なかれ皆、初対面の人間の話には多少の警戒心を働かせるものだ。だが、一度意識を『仲間』である新入生の女子に向けさせ、心にかかった警戒心という錠前を緩めたその隙に、突然大声を出して無理やり警戒心を解く。それがこの男の技術だった。

 わたしも例外ではなかった。ほんの少し緊張が緩和したところにショックを与えられ、わたしの心は否応なしに弛緩してしまった。


 男はわたし達に生じたその心の隙間が閉じないように、矢継ぎ早に言葉を発していく。


「彼らは自分の欲望のことしか考えていない! 友人を作るのも自分が利用するため! 恋人を作るのも自分の欲望のはけ口にするため! 自分! 自分! 自分だ! 資本主義の恩恵を受けている僕たちは、いつのまにか自分のことしか考えられなくなっていっているんだ! それが行き着く先、わかるね?」


 急に語尾を弱めると、男はもう一度わたしたちの心を緩和させた。そしてここでもっともインパクトのある言葉を放つ。


「世界が滅びるんだよ」


 今となっては馬鹿らしいことだが、そのときのわたしは本当に危機感を覚えたのだ。


 皆が自己中心的になり果てたら、世界は歪んで、滅びる。


 男の言葉はこの上なく論理的に響いた。


「わかるかな? 人間は社会性の生き物なんだ。それが個人主義によって発展していること自体が社会の歪みだってこと。別に僕は社会主義者というわけではないよ? でもこのまま社会の歪みが強くなって、やがて世界が破滅することを看過できるわけでもない」


 そこで、男がついに背後にある振り子の装置に手を伸ばした。


 留め金を外して少し力を加えると、振り子はゆっくりと動き出した。


 チック……タック……チック……タック……


「幸い。世界には君たちのような人間もいる。君たちは特別だ。今まさに新歓と称して居酒屋で騒いでいる連中とは違う。特別な人間なんだ。わかる? 世界を救うのは君たちなんだよ」


 チック……タック……チック……タック……


「君たちは他人のために働こうという精神を持っている。己を犠牲にして他人を助けようという精神を持っている。そう、世界の歪みを正すのは、君たちなんだ」


 チック…………タック…………チック…………タック…………


「すべては他人のため、すべてはみんなのため。ほら、僕のあとに続いて言ってみて。行くよ? はい、『すべては他人のため、すべてはみんなのため』」

「『すべては他人のため、すべてはみんなのため』」


 言葉は驚くほどすんなりとわたしの口から出てきた。


 周りのみんなも言っている。


(そうか……これが一体感なのね)


 ぼんやりとした頭には、ただ振り子の鳴らす規則正しい音と、そんな思考が流れる。

 

 日本へ戻って来てから疎外感を感じ続けていた。いや、スウェーデンにいるときだって、それよりも昔、日本にいたときだって、常に疎外感を感じていた。わたしの居場所なんてないんだと、一生そういうものなのだと、そう思い込んでいた。


 でも違う。ここなら、『Help』なら、『みんな』が『みんな』のために活動している。わたしが独りになることはない――


「もっと大きな声で、『すべては他人のため、すべてはみんなのため』」

「「「『すべては他人のため、すべてはみんなのため』」」」


 わたしの隣に座っている誰かがわたしの体を軽く揺さぶっているような気がするが、どうでもいい。ただ煩わしい。


「『すべては他人のため、すべてはみんなのため』」

「「「『すべては他人のため、すべてはみんなのため』」」」

「『すべては他人のため、すべてはみんなのため』」

「「「『すべては他人のため、すべてはみんなのため』」」」


 もうわたしを独りにしないでほしい。


「『すべては他人のため、すべてはみんなのため』」

「「「『すべては他人のため、すべてはみんなのため』」」」


 段々と思考に言葉が刷り込まれていく。


 ああ、今まで悩んでいたなんて馬鹿らしい……


 悩みから解き放たれて、わたしの顔にも段々と笑みが浮かんで来て――


「そこまでだぜ! このカルト詐欺師野郎!」


 思考が塗りつぶされそうになったまさにそのとき、粗野な女の声が響いた。



 ぶつりと途切れた思考の糸を手繰るのに精いっぱいで、わたしには何が起きたのかがわからなかった。


 ただ認識できたのは、例の男のそばにはもう一人女性が立っていて、彼女があの振り子の装置を床に叩きつけて粉砕したということだった。


(一体なにが起こって――)


 混乱したままのわたしの耳に、粗暴な女性の声が響いた。


「てめぇらよく聞け! 他人のためだなんだとほざいちゃいるが、コイツはれっきとした詐欺師だ! このサークルに入ったが最後、よくわかんねえこの振り子みてえな装置買わされて一生金づるだ!」

「……なにを訳の分からないことを。みなさん! この女性こそが世界の歪みの根げ――」

「うっせえ黙ってろ!」


 女性の鉄拳が男の顔にめり込んだ。


「世界より先にてめえの顔面を歪ませてやるぜこのカス!」


 耳をふさぎたくなるような汚い言葉だが、しかし不思議とその女性の声はまっすぐだった。


「いいかよく聞け!」


 刺々しい癖毛の女性は、わたしたち新入生に向かって一喝しました。


「自分の『助けてぇ』っつう自己満足からしか情熱は生まれねぇ! 他人のためになにかしてぇと思ったなら、自分一人でまずはやることだ! ついてくる奴は勝手についてくる!」


 自己満足からしか情熱は生まれない……


 その言葉の意味を咀嚼しているうちに、女性はもう一喝した。


「わかったらさっさと逃げやがれ馬鹿ども!」



「……さん……! ……アさん!!」


 誰かがわたしに呼びかけていた。


「テレシアさん!! しっかりして!」


 段々と視界がはっきりしてきて、目の前の人間の輪郭も整ってくる。


「……八咫野、さん?」

「よ、よかった、意識が戻ったね」


 八咫野さんはほっとしたようだった。痩せた胸を撫でおろしている。


「いきなりみんなおかしくなるからびっくりしたよ。あれが洗脳ってことなのかな……」


 どうも催眠のようなものにかかって朦朧としていたらしい。

 わたしは体を起こすと辺りを見渡した。


 ……人がほとんどいない。

 わたしと、八咫野さん、それから例の男を縛り上げている最中の粗暴な女性だけだった。


「ごめんなさい。すっかり飲み込まれしまって……」

「君が謝ることないよ」


 八咫野さんは微笑んだ。


「……あなたは平気なの?」

「いや、なんか後ろに座ってた女の人が『鏡太さま、これを……』とか言って耳栓をくれたんだ。あれなんだったんだろ……? 知り合い?」

「?」

「ま、まあ気にしないで」

「おい、てめえら」


 一通り男を縛り終えたあの女性がこちらに声をかけた。律義に亀甲縛りだった。


「新入生だろ? いつまでもだらだらしてんなよ。こんなとこさっさとズラかるぞ?」

「あ、はい!」

「そうします」

「……ん、ついでだしな。おいお前ら、オレと来い」


 女性は完全に伸びている男を床に放り出すと、わたしたちに手招きした。


(やっぱり、『俺』って流行ってるんだ……)


 女性と八咫野さんに付いていきながら、わたしは日本の流行の変化に驚いていた。



 女性についていくと、そこには軽自動車が一台止まっていた。


「お帰り。早かったねえ」


 運転席で待っていたのはとても清楚な女性だった。わたしたちを見てきらきらと微笑んだ。言葉に独特のなまりがある。

 ……関西の方の出身なのだろうか


「あれ? こん子達だれー?」

「カモられそうになってたんだよ。ついでだしのっけてこうぜ」

「よかばいよかばい」

「おら、さっさと後ろ乗れよ」


 彼女たちに催促されるように、わたしと八咫野さんは後部座席に乗り込んだ。

 まもなく、車は走り出した。



「沙汰島冥子だ。元大二年。こっちの砂糖まぶしたハバネロみてえなのが与太島御伽。オレの同期だ」

「メイコちゃーん? 変なこと言うたらだめばーい?」

「目ぇ怖ッ!」

 

 目の前の愉快な二人組はどうも先輩らしかった。


「入学早々災難だったなお前ら。気ぃつけろよ? あんなん多いからな」

「本当にありがとうございました。先輩が来てなければどうなってたか……」

「いいってことよ」


 沙汰島先輩は豪快に笑ってから、キッと怒りの表情を作った。


「オレ達のダチも『Help』にひっかかっちまってよ。借金作って退学になるところだった」

「そうだったんですか……」

「ふん縛って通報したから『Help』はもう終わりだ。金もいずれ返ってくるだろうよ」


 ルームミラー越しの二人は少し得意そうだった。


「あーすっきりしたぜ! なあおい! 汗もかいたしひとっ風呂行こうぜ!」

「メイコちゃんは本当にお風呂んことばり好いとーね」

「銭湯寄ってこうぜ!」

「しょうがなかねえ……二人もくるぅ?」

「えっと……」

「わたしは……」

「馬鹿! 来るに決まってるじゃねえか!」


 有無を言わさず、わたしたちは銭湯に連行されたのだった。



「わたし、銭湯って久しぶり」

「都会じゃあまり見らんもんねえ」


 番台さんに沙汰島先輩がお金を払っている後ろで(銭湯代は奢ってくれるらしい)、わたしと与太島先輩はまったりと会話していた。

 一安心といったところだが、なぜか八咫野さんがそわそわし始めていた。


「八咫野さん、どうかしたの?」

「い、いやあ、別に……」

「もしかして、外んお湯に抵抗があるタイプとー?」

「そういうわけじゃ……」

「おい! 行くぞ!」


 そんなことを話していると、沙汰島先輩が支払いを終えていた。


「じゃ、じゃあ俺はこっちで――」


 赤い暖簾にわたしたちが向かおうとしていると、八咫野さんはそそくさと青い暖簾――男湯の方に向かっていた。


「は? どこ行こうとしてんだよ。まだ催眠が解けてねえのか?」


 そんなことが許されるわけもなく、八咫野さんは首根っこを掴まれて女湯に引きずり込まれた。


「え、え、ちょっと、だめですってば……!」

「なんだ恥ずかしいのかあ? いいだろ女同士なんだからよ! 裸の付き合いだぜ!!」


 更衣室まで八咫野さんを引っ張り込むと、一瞬のためらいもなく沙汰島さんが服を脱ぎ始める。豪快な脱ぎっぷりだ。

 

「メイコちゃんにはデリカシーがなか。八咫野ちゃんはシャイやけん」


 そういう与太島さんもさっさと服を脱いでいく。

 わたしももたもたしていられない。ワンピースの背中のボタンに手をかける。


「あ、あわわわわわわわ……」

「八咫野さん? そんなに照れなくて大丈夫よ。わたしも脱ぐから」

「そ、それがだめなんだってば!」

「え?」


 当の八咫野さんのほうはなぜか顔を真っ赤に染めて慌て始めていた。両手で目を覆ってすらいる。


「ったく……じれったい奴だぜ! オラオラ! 脱がしてやるぜ!! おっぱい見せろ!!!」


 最低なセリフと共に、一足先に全裸になった沙汰島さんが八咫野さんに飛びかかる。


「や、やめてください! 許して! ごめんなさい! あやまるから!!!」

「もう遅いぜ!! そーれそれそれそれ!! ……って、おい」


 服を破かんばかりの勢いで八咫野さんから服をはぎ取っていく沙汰島さんが、八咫野さんのショーツを脱がせた時点で動きを止めた。


 そして叫ぶ。


「チ○コじゃねえか!!」

「「へ?」」


 チ○コじゃねえか……

       チ○コじゃねえか……

              チ○コじゃねえか……


 銭湯にはそんな言葉と、それからわたしと与太島先輩の素っ頓狂な声だけがこだました。



「ねえ、鏡太。わたしたちが出会った日のこと、覚えてる?」

「……そりゃ覚えてるよ」


 部室棟を歩く彼の背中は、苦々しくそう答えた。


「そう、まだ覚えてるんだ」

「忘れるわけないだろ!」


 激しい抗議の眼差しともに、彼は振り向いた。


「なんで今それを蒸し返すんですか……?」

「なぜでしょう?」


 イタズラっぽく微笑み返してやると、彼は一瞬照れたような表情をして、それからまた顔を前に向けてしまった。


「……意地悪だなあ」

「ふふっ」


 彼にばれないように、私は笑みをこぼした。


(だって好きだもん)



 ちょっとスキップをして、わたしは彼の背中に近付いた。



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