引きこもりと潜入失敗
(それにしても静かだな)
天井裏から天井裏へと這い回っていると、分かってきたことがある。
秋洲邸は極めて穏やかだ。娘を攫って行ったとは思えないほどに、まるで何事もなかったかのように静かだった。
秋洲家。
そうだ、なんとなくお姉さんの名前を聞いた時から耳慣れた名前だとは思っていたが、春姉ぇに言われてようやく思い出した。
洲の屋といえば、日本はおろか世界でも有数の食品会社だ。起源を辿れば鎌倉時代にまで遡れる堂々たる老舗で、こと醤油や味噌などの調味料に関しては右に出る企業はいない。食がグローバルする中、海外でも事業を大きく展開するスノヤは、日本を支える柱の一本と呼んでも大げさではない。
その会長の名前が確か秋洲なんとかっていうおじさんだったはず……
そしてお姉さんはそこの娘さんのようだ。
(お姉さんはどこだ……?)
正直忍び込むまではアドレナリン出まくりで興奮してて勢いがあったのだが、今この段階になって自分がとんでもないことをしているという事実に気付き冷や汗が止まらなくなってきた。
普通に犯罪では?
だからさっさとお姉さんを発見してちょっとお話して、そう、事情さえ分かってお姉さんが無事だと分かればそれでいいんだから。そして「ありがとう」と伝えればミッションコンプリートだ。
「それにしてもすばらしい豪邸だ……」
思わず声が漏れる。
いやみったらしいようで申し訳ないが、我が家だって小さくはない。そんな我が家が犬小屋に思えるほどに屋敷は広大だ。見ろよこの日本庭園。錦鯉がうじゃうじゃいるぜ?
決して成金趣味ではない。本当の上流社会の世界だ。
我が家では家訓として過度な贅沢はしない主義だったから、こういうところにいると気おくれしてしまう。俺にとってはこの屋根裏が丁度いいくらいだ。
とにかく! はやくトンズラしたいってことだ!
『さすがに屋根裏ですべてが繋がっているわけではないわね~』
「うおっ!?」
突然インカムから春姉ぇの声がして俺は縮み上がった。
『どこかで一度天井から降りなきゃいけないわね~』
「い、いきなり話さないでくださいよ……」
『うふふふ~』
春姉ぇは妖しく笑った。昔から悪戯好きな人だ……
しかし春姉ぇの言うことにも一理ある。ここはどこかで天井裏から降りて、また別の建物の天井に潜り込むべきだろう。いやべきだろうってなんだよ。
『ナビはお姉ちゃんに任せて鏡ちゃんはがんばって人がいない部屋を見つけておりてね~』
「というかそもそもなんで秋洲邸の間取り知ってるんですか……?」
『知りたいかしら~?』
「怖いんでいいんです……」
インカムを切ると、俺は人のいない部屋を探すため再び天井を這い回り始めた。
★
(ん……ここは?)
これまた静かな畳張りの部屋にたどり着いた。ここは……書斎か?
静かではあるが、部屋の中央にはしっかり人がいる。
着物姿の美しい女性だ。
天井からはよくわからないが、三十代そこそこに見える。
恐ろしいほど綺麗な姿勢でなにか書き物をしている。
(うーんここじゃ降りられないな)
と思いつつも、その美しい着物女性からなぜか視線を外せなくて、俺は少しの間彼女を見つめていた。
「…………」
着物の女性は一心不乱に作業をしている。
なんだかたまらなく下品なことをしている自覚が出てきたので、俺はこの場を離れることにし――
「……ッ! 曲者ッ!」
そんな声が下から聞こえて、
バギンッ!!
と続いてなにかが天井板を突き破って俺の鼻先を掠めて天井裏に突き刺さった。
「ウワむぐぅぅぅうう……」
絶叫しそうになって俺は慌てて口を押える。
上を見上げれば、天井裏には万年筆が突き刺さっていた。天井板に開いた穴から差し込む光を受けてキラキラと輝いている。
まさか……と思いつつ下の部屋を見下ろすと、着物の女性が鬼神のような顔で天井を睨んでいる。
だ、大名が寝てるときに槍で天井を刺すあれだ……!!
俺は慌てて首を引っ込めると、泣きそうになりながら気配を殺した。
「…………」
着物の女性はしばらく天井を睨んだあと、
「……気のせいか」
と呟いて、また新しい万年筆を取り出して作業に戻った。
(こぇえよ!!!)
もう一刻も早くこの家を出たい!
その思いしかなかった。
★
その後ようやく誰もいなさそうな部屋を見つけて、俺は壁伝いに部屋に降り立った。
よし、このまま移動してまた天井に潜り込もう。
そろ~りと襖をあけて廊下に出る。
きょろきょろとあたりを見回して人がいないのを確認すると、俺は廊下に出――
「おにいさん、なにしてるのー?」
見つかっちゃった。