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流れる   作者: 白石 瞳
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第8話  真理子へのベネチアンガラス

 私は、その日の気分でジャズやクラシックを聴く。

 聴きながら料理したり作業するとはかどることってあるのよね。


 今日は少しセクシーでハスキーな声の女性シンガーのジャズの気分だわ。

 ピーターはジャズはそれ程好きじゃないって言っていたわね。音楽かけながら作業することも仕事をすることもないと言っていた。彼は料理が好きなようでパイなんかも焼くようだけど、何か鼻歌を歌いながら作ってるのかしら。


 私も疲れてる時には音楽は脳に響きすぎるというのかしら、強く感じて聴くのを止めてしまうこともあるわね。静かな時には静かな音楽を、ハイテンションな時にはテンポの速い曲を聴くといいって聞いたことがあるわ。気分が沈んだ時に無理に楽しい曲にするんじゃなくて落ち着いて切ないような音楽を聴いた方がいいなんて。自分の気持ちの反対のことをしない方が良いってことみたいなのね。


 ***


 ピーターは年に2回、クロアチアに住んでる娘さんに会いに行くらしい。今年の夏は娘さんを連れてイタリアに居るお兄さん夫婦の所で10日ばかり過ごすよう。

 あちらから私にメールするなんて言うから、


「メールしないで。私もしないから。」

 と言ったら怪訝な顔をしていた。


「娘さん達との時間を楽しみなさいよ。」

 拗ねる彼に私はそれ以上に言いたいことがあったけれど止めておいた。

 だけど、こういう所が彼の甘えてる所だと思う。人には弱い所や欠点があっても当然だけれど、自分の弱さを知って自分でそれを受け入れられないようなことは、弱さではなくて考え方が甘いだけに過ぎないんじゃないかって私は思ってる。

 弱さとか強さの定義もわからないけれど。メンタルな部分と性格的な部分もあるしね。

 ああ、こういうことって上手く自分でも整理できないわ。

 自分を見つめてない、見つめることが出来ないっていうのは考えが甘いってことかな。ありのままの自分を受け入れるって難しけれど、それが出来ないなら他人を受け入れることなんて無理なんじゃないかしらね。


 私に自分の過去っていうのかしら、娘さんのことや再婚したこと、その奥さんへの愚痴を話すのは全然構わないわ。

 だけど、娘さんといる時にわざわざ私にメールする必要ないのよね。それが愛情表現だとは私は思ってない。嬉しいとは思わないのよ。

 むしろ、娘さんに対して失礼なことなんじゃないかしらね。

 


 アンチョビのパスタ、じゃがいものスープを昼食にした。

 私は決めていることがある。こしらえた料理はピーターには出さないこと。飲み物や買っておいたお菓子だけにしている。


 まだ彼が来るまでに時間がありそうだから、キューバ産のコーヒーをいれた。こくと苦みが抑えられて、ほんのりとした甘みがあってさっぱりした味。

 あまり入荷されないようだから多めに買って冷凍庫に入れて置く。本当は何か月も保存したら風味を損なうものかもしれないのだけど。


 2杯目を飲み終えた時にピーターがインターホンを鳴らした。


「真理子さん、元気そう。」

「貴方も。娘さんと会えて嬉しいでしょう。」

「うん。でも、真理子さんに会いたかったよ。

 あれ、これはジャズ?」

「そうよ。耳障りだったら止めていいわよ。」

「哀しい感じのメロディーだね。」

「そう思うのね。歌詞は恋のようだけど、確かにちょっぴり切ない恋かな。私ね、このシンガーのお腹の底から絞り出されるようなハスキーさと情熱が好きなのよ。それから官能的でもあるし。」

「クラシックじゃあ、無理そうだね。」

「あら、ストラヴィンスキーだったかしら、『火の鳥』の一部なんかはロマンティックで官能的な所があると思うわよ。」

「クラシックでも男女の関係みたいだ。」

「そうよね。」


 人の感覚って不思議だわ。同じ曲でも感じ方が違うんですもの。どれが良いとか悪いとかじゃなくて、そういうのって何なのだろう。

 作詞家も作曲家もシンガーも、何かを人に訴えるというかメッセージを伝えたいわけでしょ。それは作家にしても画家や写真家、何か作品を創る人にとっては同じだと思うんだけど。

 だけど、その「伝えたいこと」が必ずしも100%伝わるかというと、そうでもないのよね。

 受け取る側っていうのかしら、聴く側、観る側、読む側にも元々の感性があるのだから、作品から得るものとか惹きつけられるものは違うのよね。

 作者が作品を自由に創っていいように、受け取る側も自由に受けとっていいというのかしらね。それが一致しないからこそ面白くもあると思うし。


 ***


 ピーターは小箱を出して、お土産だと渡してくれた。ベネチアンガラスの小さな葡萄の置物。

「どうもありがとう。嬉しいわ。」

「気に入ってくれるといいけど。」

「ええ。とても綺麗ね。」


 どこに置こうか迷ってけれど、台所に持って行き、取り敢えず箱に入れたままにしておくことにした。なんとなく、そうしたかったのね。透明で紫色のそれは、手の上に乗せても小さいと思うのに何だか存在感が強いような気がした。

 存在感があるものが見るつもりなくても目に入ってくると、自分に迫ってくるっていうのかしら。追いつめられるとかそういうことでもないんだけれど・・・ちょっぴり小さな存在に支配されてしまうような気がするの。「何かを考えなくてはならない」っていうような感じね。

 試験なんかの前に、ドアに英単語や熟語を書いておいて、答えられたらドアを開ける。答えられなければ最初から暗記し直ししてから通る。なんだかね、そんな感じなの。

 だから、このベネチアンガラスの葡萄は置く場所を考えなくてはならない気がしたの。



 ピーターにアールグレーの紅茶を用意していると、台所に入って来た。

「今日は劇団の練習に行くんだよ。体が動くかな、なまってるから。」

「あら、だから大きなバッグなのね。着替えが入ってるのかしら。」

「うん。あっ、紅茶、僕が運ぶよ。」

「お願い。」


 ソファに座って紅茶を飲んでるピーターは、いつもよりも明るくて笑顔が一杯の子供のような気がする。人の笑顔は、人をも笑顔にしてくれるのかしらね。気持ちが緩やかになるわ。


「ねえ、見てよ。娘が大きくなってね。」

「可愛いわね。」

「コーラを飲みたがって仕方がなかったよ。」

「あら、イタリアにもあるのね。悪い飲み物じゃないけれど、色が『悪い』って主張してるのが駄目みたいなのかしら。確かにカフェインも入っていたから、飲み過ぎると子供にはね。程々がいいってことかな。

 貴方はイタリア語も出来たの?」

「無理、無理。兄が通訳してくれた。兄の子供と僕の娘は言葉がわからなくても平気で遊んでたし。」


 スマホで撮った画像。昼食にピザを食べたり、義理のお姉さんの手造りの料理、子供達のはしゃいでる様子が写されたものをニコニコして見せてくれた。


 ***


 今の日本の奥さんには、画像を見せたり娘さんとのことを話したりしたのかしら。心の中でふと疑問に思った。私には関係のないことだけど。

 なんとなく、だけど。私に笑いながら見せたように奥さんには見せてはいないんじゃないかしら・・・どうしてかはわからないんだけど、「なんとなく」そう思ったの。

 再婚相手には後ろめたいからってのもあるかもしれないし、今の奥さんとの関係があまりよくはないから、イタリアでの出来事を話したり見せても反応がないって諦めてしまってね。



 人って不完全なものだから、夫婦が離婚したり再婚したり、浮気したりするってことは少ないことじゃないと思う。

 関係を修復出来ればいいんだけれど、どうしても相手のことを受け入れることが出来ないことはある。欠点なんかどうでもいい位に好きな面があるならいいんだけれど、好きな面も見つけられないし欠点ばかりが目についてしまうと夫婦じゃなくても友達でも会社でも、どんな関係でも良い方向にはいかないものだわ。

 それに自分のことも受け入れてくれないってわかると、その淋しさや虚しさが大きくなっていく。そして、その感情が憎しみに変わって・・・。

 風船のように膨らんでパチンと弾けたら、もう相手との信頼関係は破綻はたんしちゃうのよね。

 時々、小さな爆発っていうのかしら、向き合ってみるといいんだろうけれど。意固地になったり自分は悪くないって思ったりする人もいるわね。相手のことばかりを批難して。


 食べ物って、どうしても食べられない物もあれば仕方がなく我慢して食べることもある。好きな物だけを食べていられればね。

 苦手な物が出された時に、我慢だと思って食べるか相手への思い遣りとして食べるか。それとも、自分の気持ちを正直に話して謝って食べないか。



 どんな見方をするにしても、私はずっと我慢すると爆発してしまうと思う。だから、我慢してると感じた時に直ぐに伝えるのがいいのよ。相手を否定するんじゃなくて「私は、こうしてみたいと思ってモヤモヤしてるの」みたいに切り出してね。

 そこで相手の目を見て話しあえるかどうかだわ。喧嘩になっても次の日に冷静になって「おはよう」って言えたらいいのに。

 理想にすぎないのかしら。ううん、そんなことはないわ。私は母のことで我慢していたとか、母のためだからって自分を犠牲にしていたことなんてなかった。

 母もそうだと思う。私のために、っていうのがあったら芸者という夜の仕事をするとか踊りや三味線の稽古に行くことはなかったと思うから。


 私達は、お互いに相手のことを受容出来てたのよ。


 それも自然にね。血縁者ってことだからじゃないわ。母が誰に対しても人の気持ちに寄り添って、色んな方向から人や物事を見ることが出来たからよ。

 私は母には及ばないけれど、自分を見つめることを教えてもらったの。少しだけ彼女から力を貰ったような気がしてるから、だから、とても感謝しているの。

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