第5話 2人の女性の「もしも」
シャワーを浴びて彼が部屋を出て行った後、私は冷めてしまったコーヒーを飲みながら、少し考え方の甘い彼について思い巡らせてみた。
学生時代に欧州を回ったり日本にも来たり。結婚して娘さんが出来たけれど離婚して日本で働くことにした。
そこで一緒だった日本人女性と結婚して、自分は時間に縛られるのが苦手だと独立。趣味で劇団に入るのは構わないけれど、今はその奥さんと上手くいっていないと言う。
主夫業のように料理もして、奥さんと愛しあいたいようだけれど「疲れてるから」って拒否されているって。
30代でそこそこのポジションのある女性だと平日は仕事はハードでしょうね。
だから土日はゆっくりと睡眠をとりたいからと一緒に買い物にも行かない。
ピーターの気持ちもわかるわ。何か夫婦でしたいと努力はしてるんだと思うけれど。
女性の言う「疲れてる」は肉体的にも疲れてはいると思うわ。
だけど、若いのにくっついていたいと思わないのは、ただ単に仕事が忙しいせいだけなのかしら。
ふう。よく知らない夫婦や人の人生のことを考えても仕方がないわね。原因は何かって追求してもわからないこともあるし、突き止めることに意味がある時と無い時がある。
仮にどちらかが悪いにしても、どうなるものでもないってことの方が多いのかもしれないし。
***
私は何故、彼とつきあってるのかしら? 好きよ、それに甘くて優しい時間を持つことが出来るし、それは本当だわ。
でも、相手がピーターだからなのか、それとも・・・。
そうね、彼のこと好きよ。気を遣わないで自然な会話が出来るし、マニキュアを塗った指に気がついてくれたし私を頼ってくれてる、求めてくれてるわ。
「どうして好きか?」なんて、言葉では上手く表せないわね。おかしいわ、人のことなら考えられることもあるのに自分のこととなるとわからない、表せないなんてね。
夫の渡と私は、いつからこんな風になってしまったの?
彼と結婚する前もその後も「いつか独立して自分の事務所を持つんだ」って目を輝かせて働いていたし、私も手伝っていたわ。
失敗した時には2人で笑って、次へのステップを話し合って。
彼は夜遅くになってもセミナー講座に参加しても必ず帰宅する前にメールをくれた。それに合わせて料理を温め直したり追加して作ったりしていたのよね。
疲れていても私を求めていたのに。
軌道にのった頃から変化があったのかしら。
私が仕事の補助をすることは不要になったし、仕事のこともプライベートなことも事後承諾になっていった。
もし彼が独立しなければ、こんな風にならなかったのかしら。それとも結婚してから気がついたけれど、私は随分と彼に気を遣ってきたと思う。
それは夫婦として当たり前のことのような気もする。でも、一方が気を遣うのはその一方が我慢するということでもある。
彼の両親は父親のいない私との結婚には反対していた。だから私は良い嫁、良い妻にならなきゃいけないって頑張ってきたわ。
ちょっとね、無理しすぎていたのかしら、自然な振る舞いが出来ていなかった気がする。私が私じゃないというのかな。
もしも、私には父親がいて社会的な立場がある人だと彼の両親に伝えていたとしたらどうなっていたかしら。父親の立場が重視されていたのか、それとも「戸籍上はいないから、やっぱりいないものはいない」と思われて余計に疎ましく思われていたのかしら。
あっ、そうだわ。帰宅前に「お疲れ様」っておにぎりの横に残して置いたメモがくしゃくしゃにされてごみ箱に入ってるのを見た時、おにぎりが食べられていなかったのを見た時は流石にショックだったわよ。
その頃から私も心が離れてしまったような気がする。
口に入れたクッキーが砕けてぽろぽろと落ちてきた。
*********
目を開けた時、人の気配でビックリした。渡が冷蔵庫に何か入れていた。そっか、合鍵は持ってるんだもんね。
「もう昼だよ。」
「えっ。すごく寝ちゃった。」
「いいよ。寝てなよ。夜にまた来るよ。」
渡が部屋を出た後、シャワーを浴びて外に出た。
疲れは少しとれた位だけど、なんだか外の空気が違う。雲と雲の間から光が射し込んできてるからかな。
スーパーに行くと親子連れがいた。
お菓子を迷ってる上の子に「いつまで迷ってるの。いい加減にして。」って急かすお母さん。
そうだよね。下の子を抱っこして歩いてると疲れるよね。
でもさ、お母さんは1日1回は君達に笑いかけてくれたり寝る前に本読んでくれたりするんだよね?
スーパーを出て、さっきとは違う道に入ると小さな公園があった。1番太陽がまぶしい時間だから誰もいないや。
私は日陰になってるベンチに座って、買ったパンを出して食べ始めた。
***
あれは、いつのことだっけ。
それがとても高くて青くて綺麗だった。
私は公園のブランコに乗って後ろからママが背中を押してくれた。ママは私がキャッキャッって笑うと今度は隣のブランコに自分が座って揺らし始めて。隣同士で乗っていたんだよね。
ママも子供みたいに笑ってはしゃいで、勢いよくブランコが揺れて。私、楽しかったんだけど急に怖くなったんだった。
「ママ、だめ。とまって!」
「どうしたの?」
「だって、ママが空に飛んでいちゃうから。」
「馬鹿だね、空になんか行かないよ。」
私は、ブランコから降りてママのブランコを止めようとすると、
「危ないよっ。」
「だって、ママが空に行ったら・・・どうしよう。」
私は泣きそうになって言ったんだ。「本当に」空に吸い込まれていって私は置いて行かれてしまうって、青い空に。1人置いて行かれたら怖いから、ブランコの鎖を押さえたんだ。
そしたら、ママは「馬鹿だね。」と言いながら、私を膝の上に乗せてくれてブランコを揺らし始め、抱っこされたように一緒になっていたんだよ。短い時間だったけれど、すっごく嬉しかったな。それに、ママは行ってしまわないよ、大丈夫、ここにいるって安心したんだ。
だけど、もしも自分でも誰でもね、アイスクリームのような雲を超えて飛んで行ってしまったら、あの空の向こうには何があるんだろうなぁ、そう思っていたのを思い出した。
***
男の子が蝉を探してるのに気がついた。かごに何匹か入ってる。
「蝉?」
「うん。ミンミンゼミとアブラゼミの鳴き方って、違うんだよ。」
「へえ、わかるんだ。」
「わかるよ。僕、好きだもん。」
「今日はどっちの蝉が多いの?」
「う~ん。両方かな。」
「お盆にはセミを捕まえたらダメなんだってね。」
「あっ、知ってる。おばあちゃんも言ってたよ。」
「色々知ってるんだね。あのさ、チョコあるけど、あげるよ。」
「・・・お母さんからね、『知らない人に何かもらったらダメ』って言われてるんだ。」
「そうなんだ。君、しっかりしてるね。お母さんがもし今の聞いたらさ、君のことほめてくれるよね。」
少年は目を上に向けたかと思うと何も言わずに公園から出て行った。私、きっと不審な人に思われたんだよね。よろよろの服着て昼間に1人でいるしなあ。
少年が戻ってきて
「お姉さん、お願いがあるんだ。」
「何?」
「チョコ下さい。」
「えっ?」
「2回目に会ったから、もう『知らない人』じゃないよね。」
「うん!」
***
チョコを渡すと、
「ありがとう!」
少年は美味しそうに食べて、
「お姉さん。この公園はね、気をつけた方がいい時間もあるんだよ。変な人が出ることがあるんだって。今日は僕がいるから、2人だからいいけどね。」
「そうだね。君が守ってくれてるからね。変な人って、ホームレスの人のことかな?」
「あの、家のない人達のこと? うん、みんなはホームレスの人のこと『悪い』とか『汚い』『変な人』だから近づいちゃダメだっていうよね。学校の先生もさ。でも、僕はね、本当にそうなのかなって思うことがあるよ。」
「ホームレスの人のこと、悪いって思わないんだね。」
「そりゃあ、家もないしお金もないし。お風呂に入れないからキレイじゃないよね。
でも、話してみたら悪い人じゃなかった。よくわからないけど、リストラ? されて、その人のお嫁さんからも別れたいって言われたんだって。泣いてたよ。」
「そうなんだ。そんなこと言ってたんだ。」
「もしかしたら、中には怖い人もいるかもしれないけど。難しいこと言ってたよ。『生きる力がなくなった』とかさ。
なんとなく僕でも意味はわかるんだけど。働いてないけど悪い人ではないよ。」
「うん。きっとさ、その人はとっても悲しい気持ちで家を出たんだよね。行く所がなくて・・・。」
「そういう人達を助ける所って、ないのかなぁ?」
「どうなんだろうね、わかんないや。」
「変な人ってのはさ、女の人を追いかけたり急に出てきて脅かす男の人のことじゃないのかな、テレビでもやってるよね。
僕はそういう人のことを言ったつもりだよ。」
「あっ、そうだよね。いるよね。」
「時間かな。僕さ、もう帰るね。お姉さんももう出たら?
1人でいると危ないから。」
「・・・ありがとう。」
彼が立ち上がって、私もスーパーの袋を持つとだんだんと彼の後ろ姿が小さくなっていく。お家に帰るんだよね、お母さんが待ってるのかな。
もしも私に弟がいて、こんな風に2人で話していたら。もしも昔、味方ていうか同志みたいな弟がいたとしたら、今の私は少し違っていたのかもしれないな。それとも喧嘩ばかりしていて2人も家を飛び出してたのかな。
う~ん、「もしも」っていうのは難しいな、考えても仕方がないことみたいだ。