第4話 真理子の居場所
ピーターとは月に2、3回会っている。
彼は以前から、この私の部屋のことを不思議がっていた。
「ねぇ、誰かが急に来ない?」
「来ないわよ。大丈夫。」
「真理子さんの実家?」
「同じようなものかしら。1人になりたい時あるでしょ、夫には話してないのよ。」
「夫婦なのに?」
「彼はいつか独立しようと思っていたから。この部屋をオフィスや倉庫代わりに使ってもらいたくなかったのよ。」
「なるほど。ご両親は?」
「うん。父がね、逝く前にね。ここを私にプレゼントしてくれたの。母はもういないし。」
「ごめん、嫌なこと聞いて。」
「大丈夫よ。嫌じゃないわ。ね、この間話したでしょ。マニキュアをつけてみたのよ。」
「さっき会った時、気がついたよ。この間、『赤い爪のネコになって背中をひっかく。』なんてふざけるんだから。」
「ふふ。」
「赤じゃないけれど、綺麗なピンク。」
ピーターは私の手をとり、爪を見つめた。
「抱きしめたい」
彼は私を抱き寄せてささやく。
「うん・・・淋しいの?」
「なんとなくね」
「待って。そうだわ、貴方が好きなアップルパイ用意してあるのよ。」
「食べたい。」
私はピーターから離れて台所に行き、パイと紅茶を用意した。
コーヒーが飲みたい時と紅茶を飲みたい時がある。人が「これを飲みたい。」「食べたい。」って思う気持ちはどんな風に湧いてくるのかしら。
それに、私は紅茶でも香りの強いアールグレイは飲みたいと思わない。ニルギリが好きだし、ストレートで飲むよりもミルクを入れて飲む方が多い。
そんなことを考えながら、お湯を沸かしポットに注ぐ。3分程待ってカップに注ぐと白いカップの底が隠れて琥珀色の紅茶の香りがふわりとした。
***
「ねえ、ピーター?
欧州にはいまだに『Lord』『Sir』なんかで呼び合う世界があるでしょう? ほら、卿だとか伯爵や男爵。」
「あるね、貴族制度は残ってる。」
「日本にも『旧家』っていうのがあるのよ。男の子が生まれないとその家が存続していかないというか絶えてしまうのよね。
田舎の旧家でさえ30代位あったり、男子が先祖からの名前を1つ受け継いでいくとかね。」
「結婚した女性はステイタスもあるけど、男子を生むのがプレッシャーだね。」
「そうね。日本の旧家だとステイタスかどうかわからないけど。
でも、源氏物語の中でもそうだけど女の子が生まれることを喜んでいた時代ってのもあるじゃない。
架空の話しだけじゃなくて欧州の貴族でもそうでしょ。
映画でよく出てくるのよ。王と王妃の間に男子が生れないと側室でしょう?
そうなると貴族達は自分の娘を差し出そうとするみたいだったわね。」
「僕の知ってる話では、例えばなんだけどね、ある男性は若い時に貴族の夫人と愛し合ったみたいだよ。
その夫人は旦那さんとの間には永い間、男子が産まれなくて辛い思いしたらしい。」
「そういう話って、よくありそうだわね。
夫側には別の女性との間に子供がいて引き取ったり、妻と結婚してからも他の女性達と関係を持ったりね。」
「夫人と男性の間にも子供が出来ることもあるよね、きっと。
でも、貴族の夫は夫人を隠してそこで子供を産ませて相手の家に引き取らせたり親類に預けたり。」
「夫の子供は良くて、妻の子供は駄目だなんてね。そもそも、外で恋人を作ることに問題はあるけれど。私達も問題があるってことになるわね・・・。」
今でも男性優位だわ。子供のことだけじゃなくて会社でも。結婚すれば退職するのが当たり前みたいにね。だって、出産と子育てするんだから。
女性は子供を産むための道具でもないし立場のために家のために、なんて道具みたいで嫌だわ。
だけど、昔も今も「家」だとか「血縁」って皆が気にするのよね。
夫婦別姓にしても事実婚にしてもそう。本人達が良くても親が親戚が反対するだとか。人々の考え方は変わらないのかしらね。
私がパイのお皿を下げてコーヒーとクッキーを用意してる間にピーターは眠っていた。まつげが長く、金髪で柔らかい毛。
寝顔を見ながらコーヒーを飲み、矛盾だらけの自分の思考と行動のために使うこの部屋のことを考えた・・・。
そして私を認知しなかった「父」に初めて感謝した。私の居場所があることにね。
今まで父に会いたいと思ったことはなかったけれど、母が愛した男性。どんな人なのかしら、いつかはゆっくり話してみてもいいのかもしれない。
***
立場がある男性から「選ばれる」って、女性は嬉しい気持ちだけなのかしら。それは、きっと人によるわね。
今だって旧家や欧州の貴族の妻になれば男子を産まなくてはならないプレシャーはあるけれど、でも、社会的には一般の人と違う場所に居るわけでしょ。
自尊心を満たしたい女性であれば、人が願っても叶わないものを手にしたことで満足するものなのかもしれない。
人は、なんていうのかしら、他人と比べてその違いから優越感を感じることが多いから。
朧月夜の君は、将来は帝の妻になるように育てられたけれど、宮殿に入る前に光源氏に惹かれた。そこには立場の計算なんかはなくて2人は、お互いに自然に惹かれてしまったわけね。
結局は彼女は帝の近くにいて寵愛を受けることになったけれど、それでも源氏が忘れられなくて2人は会っていたようだった。
ただ、それが見つかってしまって源氏は明石に流されることになったんだけど。
彼女は愛を受けながら別の男性を想ってしまう。たぶん、仕方がないから帝の傍にいたわけでもなくて帝のことも愛していたみたいね。
人を同時に何人も思う気持ちは誰にも止めることは出来ない、心は確かに自由だわ。自分に子供が何人も居て、誰が1番大事かなんて言えないのと同じなんじゃないかしら。男と女の関係も。
他の男性を想う朧月夜のことを帝は赦していた。
帝の弟でもある光源氏には魅力はあるからと、人を想う気持ちは否定することが出来ないという、それは男性にとっては「どんな愛」なんだろう。
朧月夜という美しい女性が自分の傍にいるだけでも幸せだと言い聞かせていた。
それでも、心は自由だからと彼女を赦すことって、どうしたらそんな風に思えたのかしら。
あの世界では男性が女性を選べるんだから他にも多く女性達はいたのにね。「捨てる」ことも出来たわけでしょ。
夫である帝の側にいながら別の男性を想うことは、朧月夜は立場的に罪悪感もきっと感じていたんじゃないかしら。夫に知られてでも、しかも「帝」なのに恋人と会うのは危険な賭けだったのに。
穏やかな川の流れのような帝の愛には温かみを感じて、光源氏の上流の流れの速くて激しい人には心を打たれてしまう。激しさっていうものは、きっとそれによって自分の中にある熱いものを感じずにはいられないっていうのかもしれない。
穏やかさと激しさのどちらかを選ぶことが出来ない気持ちはわからなくはないわね。どちらも欲しい気がする。
馬鹿ね、私ったら。源氏物語は架空の話しなのに真剣に考えてしまうなんて。
だけど・・・身分や時代は違っていても、現代で私達がしていることは同じことのような気もするの。
法律もあるし、それがないと秩序っていうか世の中が乱れてしまう訳でしょ。
心の中だけで想うことをどうしても我慢出来なくなることがあるのよね。悪いこととわかっていても心の動きをとめることが出来なくて。
***
ピーターに近づいて鼻をつまむと、まだ眠たそうな顔をして私を見た。
「そろそろ起きた方がいいわよ。」
「今、何時?」
「3時30分。」
そう言って近づくと、
「コーヒーの香りがする。」
「貴方も飲む?」
「いいよ。夢を見てたよ。」
「夢?」
「まさか、僕の上に乗ってなかったよね? 猫が乗ってきた夢を見たんだ。」
「あら、重たかったのかしら?」
「えっ、本当に上にいた?」
「いいえ、夢よ。でも、その猫、爪がピンクだったのかしら。」
「はは、そうだよ。目の前にもいるけどね。」
私はピーターを起こすのを手伝い、彼が私にしてくれるように髪をなでながら額にキスをした。
「食べない?」
「僕を?」
「クッキーをよ。」
「あは。もう時間がないかな。
遅れても平気さ」
私達はソファーの上で笑いあった。
ああ、甘い香りがする。この香りはクッキーかしら、彼から出される香りなのかしら。それとも私の心の香り?