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流れる   作者: 白石 瞳
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第2話  真理子

 あの人、渡はまだ帰らないのかしら。

 古典を読むのは久し振りだわ。あの子、ピーターったら、源氏物語に興味があるなんて。

 ベルギーから日本に来て4年。翻訳の仕事をしてるから日本語は99パーセント大丈夫なんだけど、古典はね、日本人でも難しいから。古語もそうだけど、感覚が昔と今は違うでしょ。


 ***


 源氏物語の中で、紫の上は光源氏に育てられた。身寄りをなくして光源氏は彼女の世話をする、お兄様。15歳の時に「殿」に変わる。何人かの女性達と交わる彼だけど、紫の上が1番愛されていたらしい。

 私が好きなのは、朧月夜の君ね。性格がきっぱりとしてる気がするから。


 ”梓弓 いるさの山に まどふかな ほの見し月の 影や見ゆると” (光源氏)


 ”心いる かたならませば 弓張りの 月なき空に迷ましやは”   (朧月夜の君)


 自分好みの女性に育てあげられて、例え「1番の人」と周りからも思われても、自分の気持ちに我慢して愛する人の帰りを待ったり、聞き分けのいい女性になるのは私には出来ないわ。なんだか「都合のいい女」みたいじゃないかしら。


 朧月夜の君のように結婚を控えていたのに「誘われてなんの迷いがあるのでしょう」と躊躇ためらいなく「弓射る」ことを受け入れるキッパリした冒険さの方が好きだわ。


 ***


「あっ、お帰りなさい。何時になるかわからないから食事は・・・。」

「いいよ。食べてきた。いつもさ、適当に食べて待たなくて寝ていてくれていいから。」

「そうね。わかってるわ。」


 夫の渡が帰宅した。わかってるわよ、私は貴方の帰宅を待っていたわけではないんだけど。本を読んでいただけよ。

 いつも食べてくるって、適当に食べていて、だなんて言い方は今まで何度か聞いてきたけれど。最近は帰宅した時に私の顔さえみないのね。

 そうね、だって貴方は「紫の上」を見つけて毎日会ってるんですものね。



 夫の前の彼女は私の元同僚でもあった。

 彼はつき合ってることを隠していたつもりでいたようだけど、私は気がついていたわ。だって、その彼女ったらワザとらしく夫のポケットに片方イヤリングを入れるんですもの。あれは昔、貴女のお気に入りのもので、私が素敵だと褒めたものでしょう。


 そして、必要のない話「紫の上」のことを私に教えたのは、自分が夫と別れていて次の相手のことをそれとなく勘づいていたからだわね。

 元彼である渡にはすぐに新しい相手が出来たから、私にストレスをぶつけたのかしらね。哀しい女っているものだわ。自分が醜いことをしてるのを気がつかないのかしら。


 でもね、私は2人の別れも新しい相手が出来たんだってことも気がついていたの。なんていうのかな、夫は目の動きや話すトーンで、すぐに行動がわかるのね。嘘をついてるとか隠し事をする時に、それがすぐに外側に出ちゃう人なの。

 隙がありすぎるのか私が敏感なのかわからないけれど。隠し事をするのなら絶対に隠し通すのって大事よね。


 私も人のことをとやかく言えない人間だけど、自分の嫉妬心やストレスを他人に向けることは人としてしない。しないように努めてるわ。

「負」のベクトルをまき散らすといつか自分に跳ね返ってくる気がするのよ。人に話すことが出来ないストレスは甘いものを食べて3日泣いて終わり、そうする方が解消出来て気持ちって切り替えられそう。


 ***


 ピーターはオランダ生まれのベルギー人。学生時代に日本に留学した経験もある。クロアチア人の女性と結婚して娘さんが1人いるけれど離婚してから日本に来た。

 会社務めをしていたけれど、時間に縛られるのが嫌で独立してカメラの部品や玩具を輸出する時の説明書を翻訳するのがメインの仕事。

 日本人の奥さんとは会社務めの時に結婚して、子供はいないし奥さんは仕事を辞めるつもりはないから自宅で仕事と主夫業をしてる。会った時に若く見えたけれど実際私より年下だとわかった。



 駅でぶつかって、私の首に巻いていたスカーフが落ちて拾ってくれたの。少し汚れがついてしまって、「どうしよう」ってカフェにとりあえず入ったのがきっかけだった。


 人との出会いって不思議だわ。

 私達はたまたま駅で出会ったけれど。電車を降りる人、これから乗る人が交差する。

 あの時はピーターも私も同じ電車から降りて、2人とも用件がなかったからカフェに入って1時間近く話せた。こういうのは偶然か必然か・・・どうなのかしらね。

 カフェの中からは外も見えたけど、人々は忙しく歩いてぶつかりそうな場面もあった。

 もしもぶつかって何かを落したりしたら私達と同じように出会いってあるのかしら。そんなことを考えていたわ。


 ノートパソコンに打ち込んでる人、本を読んでる人、勉強してる学生、女性同士、それぞれに目的があってカフェに入り、コーヒーの香りを楽しむというよりも休憩所のように座って自分のすることに熱中したりぼんやりする。

 こういった場所では、人々は他の人のことをどこまで見てるのだろう。私達はどう見られていたのだろう。関心がないように振る舞いながらでも全く関心なくても、話は耳に入ってくるから。


 ***


「ピーター、源氏物語は進んでるの?」

「No...女性が多すぎる。」

「ふふ、関係図みてもわかりにくいわよね。」

「劇団で『葵の上』が公演されるらしいから。」

「あら? 劇団は本格的に入っていたの?」

「周りの人は若くて俳優志望の人ばかり。僕は趣味だけど、何かやりたいよ。それに面白い。ダンスもするから運動にもなるし。能で『葵の上」があったんだって。主催者が観てきて。だから劇団でもね。もう公演決定かな。」

「本まで読むなんて熱心ね。」

「でも、僕に出番があるかどうかはわからないよ。」

「髪の毛が輝いてるから、光源氏よ。」

「はは。決定したら染めるよ。」

「かつらがあるんじゃないの。」



 能で、劇団で。

 葵の上は確かプライドが高くて光源氏とは親しく出来なかった女性ね。源氏は彼女との結婚前後には、年上の女性とも会っていたし。

 その年上の女性もプライドは高くて自分の気持ちを出すのが出来なかった、確か、六条の御息所(みやすどころ)ね。彼女の歌の才能にも惹かれた光源氏だけど。

「源氏は今夜も来ない。」と待つ六条の御息所。「来て」「会いたい」とは、かなり年下の男性には言えないのよね。葵の上が妊娠したのを知って、それを強く嫉妬し呪ってしまった。


 だって、彼は六条の御息所には葵の上のことを「冷たい女だ」なんて言っていたわけでしょ。それなのに妊娠したから、妻の所に行って自分の所には来てくれない。

 なんだか、社内恋愛をして男性から「妻とは既に冷めた関係だ」と聞いたのに、別れて結婚はしてくれない。

 最近は会う回数も減ってきたところに人づてに奥さんが妊娠したと聞いた。

 悔しくて社内の友人に2人の関係を暴露してしまう・・・そんな気持ちと同じなのかしら。


 確かに醜いことをする女はいる。

 だけど、それって男性が女性を都合の良く扱ってしまうからなのだわ。

 哀しい女にさせてしまうのは、男性に誠意がないからなんだと思う。「綺麗な別れ方」がどんなものかはわからないけれど、別れたくはなくて、いつまでも女性のことはキープして誤魔化し続けるなんてね。


 女性の中には人のことを警戒したりプライドが邪魔をして好きな人に素直に心を開けない人もいるじゃない。

 昔のように、1人の男性が何人もの女性と契るのが公認されていた時代でも嫉妬心があるのは当然だわ。そうよ、自分だけを見てもらいたいのよね。ただ、それが言えなくて。


 言ったとしても誤魔化されたりして。「妻とは別れる」と女性を満たして安心させておきながら男性は家庭に戻ってしまうのよ。

 そうね、期待していたのに泣かされてしまう立場。嘘をつかれて卑屈になりたくなるのも女性として自然な気持ちっていうのかしら、自然で当然なんだってことに気がついたわ。


 ***


 ピーターは私に優しく触れる。額や目にそっとキスをして。

 彼と会うのは好きだわ。優しい時間をくれるから。話していると時間を忘れてしまうし、私の話しをよく聞いて。彼は欧州のことや昔のことをたくさん話してくれる。

 いつもの生活では経験できない知的好奇心の時間と男女の甘い時間の共有。


「真理子さんって素敵だ。」

「ん・・・私ね、変なのよ。」

「変?」

「ええ。貴方といると、どうなってもいいって思うのよ。」

「僕も真理子さんといて楽しい。」

「ん・・・。」

 ピーターは私の手をとると欧州の人間らしく、優しくキスをしてしばらく手を握っていてくれた。



 何も考えたくない。何が正しくて何が正しくないのかも。

 こうして甘く優しい時間の中にいると、頭が真っ白になっていくの。どうなってもいいというのは投げやりなものじゃなくて、今の私のごく身近にあることっていうのかしら、その環境の中で時間の流れに任せていくというような感じ。

 頭で、理屈っぽく考えるんじゃなくて感覚的なものを優先するっていうのかな。

 心を時間の流れに委ねてしまってもいいんじゃないのかしらって。

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