第19話 ちょっぴり優しいオルゴールのような真理子
夏美さんは時々怯えるんじゃなくて、きっと、いつも怯えてる。
今日なんかは、まるで吹いて飛ばすと、ちょっとだけ空に向かうけれど直ぐにパチンとなるシャボン玉のような、今日の彼女はそんな雰囲気だわ。弾けて消えてしまいそうなシャボン玉。
「あの男でよければ、どうぞ。」
「そんな。私はただ・・・。
離婚って、私のせいですか?」
「貴女はここに何をしに来たのかしら?」
「私、自分でもわかりません。」
「離婚は前から考えていたことですよ。貴女のせいじゃないです。
私のことなら、もう関係ないって思ってくれて構いません。気にしないで彼と一緒に住んでて。もう・・・。」
「違うんです。渡さんとは別れようって。
こういう時、どうしていいのかわからなくて奥さんには、ただ謝りたくて。私は奥さんに悪いことしてしまって。
怒ってると思いますけど、ごめんなさい。悲しくさせてしまって、ごめんなさい。」
「・・・お茶がまだだったわね。持ってくるわね。」
奥さんの態度っていうか、声のトーンが変わった。とげとげしかったのに最後の一言って、なんだか蓋をあけると聞こえてくるような切なくてちょっぴり優しいオルゴールの声のような囁きに聞こえた。それは私を少しだけ安心させてくれた。
***
夫と殆ど同棲してきて別れるために挨拶に、謝りに来るなんて。
なんて純粋な人なのかしら。私には、ないものだわ。無防備でフラフラしてるようにも思えるけれど、どこか素直っていうか純粋。
子供ね、というよりもけがれのないピュアな人。けがれを知ってるからこそ無意識にこんな態度がとれるんじゃないかしらね。
最初に会った時の印象は怯えてる子猫のような小さな人だった。
夫との関係を知った時には、したたかな「紫の上」だって呆れるように思っていたんだけれど。光源氏ごっこをしたかったのは、もしかしたら渡なのかもしれない。
夏美さん、貴女が怯えてるのは、私への罪悪感からくるものではないんでしょう?
お菓子とコーヒーを運ぶと夏美さんは立って礼を言う。お礼というよりも、謝罪してるみたいに。私は頭を下げられるような資格のある人間じゃないわ。私だって彼に内緒で・・・。
夏美さん、もう、いいのよ。やめて。
「私ね、夫とのことは知っていたんですよ。だから、先日、事務所で会った時にも『この女性なんだ』って、すぐにわかったわ。」
「私、渡さんに助けてもらいました。ずっと、1人でしたから。何もなくてどこにも行けなくて。出来るアルバイトをして。その時に声をかけられたんです。」
彼女は渡との出会いや家を出た理由を少し話してくれた。
父親がいない家庭で育っても随分と違うものなのね。私は今まで、父親がいるいないって関係ないと思っていたし、血縁もどうでもいいものだって思ていたわ。この人は逆の意味で血縁や親子ってどうでもいいし自分には関係ないものだと思ってるみたい、きっと。
この人の母親は男性とのつき合いが絶えなくて子育てのことが頭になかった。母親の男性関係のことで何度も嫌な気持ちにあっても、犯されてしまうという酷い目に合わされても助けられることなしに1人で抱え込んできて。だから、子猫のように怯えた目をしてるんだわ。
渡にも不快な態度をとられていたんじゃないかしら、だから、別れたいって。彼については助けてもらったということしか話さないけれど、きっと私に気をつかってる。
夫は同情で助けたんだろうか、好きだったんだろうか。同情でもいいわ、そうであってほしいわ。彼女には「愛されてる」って感覚が必要だったんだから。
私、馬鹿みたいかしら、夫がほかの女性を愛してくれていたら良かっただなんてまるで他人ごとみたいに。
でも、夏美さんをみると本当に自然にそう思ったの。「夫が自分の都合のために『良くしてあげた』だけじゃなくて、ちゃんと守って愛してあげてたか」ってね。
***
日が暮れるのが本当に早くなってきた。
すっかり、しっとりとした秋なのね。窓の外の暗さって、どういうものだろう。静寂が訪れるけれど月の灯りがほのかに柔らかくて安らぎを与えてくれる時がある。今日の暗さはどんなものなのか、私にもわからない。
彼女は遠慮がちにクッキーを口にしながら私と同じように窓の外を見ているけれど、2人が見える外の風景は違う。
この人は何かを自分の中で決めたから来たんじゃないのかしら。自分ではどうしてかわからないなんて言ってるけれど。1人で頑張っていく決意かしら。
1人だけで頑張れるならそれでもいいけれど、無理しなくてもいいのに。若さって、限界があるのか可能性があるのかわからない。フラフラしてるのに、これ以上に傷ついていくのを見たくないわ。
男女の出会いが必然だとかタイミングって言うのなら、私達て、凄くおかしな出会い方だけど2人の出会いも必然なのかもしれないわけでしょ。
「これから、どうするの?」
「新しく住む場所を探しながら、もう少し今の所にいるつもりです。家賃は私が払います。今までも分も返します。」
「だけど失礼だけど・・・家を出て、その、あまりお金がなかったんでしょう?」
「渡さんと会ってから、仕事してました・・・から。」
彼女はそう言うとハンカチで口を押えた。顔色が悪いように見えるし、また、ウッとなって。
「もしかして、お腹に赤ちゃんが?」
「違います。あの、私、帰ります。」
「でも、グラっとして、もしも倒れたら。
少し横になってて。お菓子とコーヒー下げるわね。」
大丈夫と言うけれど、ふらつくのに帰せないわ。それに、出来たとしたら渡の子で・・・。
「お水か麦茶なら飲めそうかしら。」
「・・・はい。」
「単刀直入に言うわね。出来てるんでしょう?
夏美さんはどうしたいのかしら。夫の子なのかしら・・・それなら、産むにしても産まないにしても彼に話した方が。」
「産むって。私、わかりません。」
「じゃあ、なかったことにするってこと?」
「それもわかりません。本当にわからないんです。母にも誰にも相談できないし。」
「これも単刀直入に。仕事は何をしていたのかしら。部屋を見つけるためには定職についてないと借りることが難しいわよ。お金はあると言っても・・・。」
夏美は麦茶を飲みほして深呼吸すると私の顔を真っ直ぐ見て落ち着いた顔で答えた。
「男性相手の。性を売るためのお店です。そこでは避妊していました。」
「そうなの・・・。子供は夫の、なのね。」
「渡さんには話すつもりありません。」
「知ってしまったら、私。」
「奥さんにも話すつもりなんかありませんでした。
ごめんなさい。私って、どうして来ちゃったんだろう。何も考えなくて。本当に浅はかで。帰ります。ごめんなさ・・・。」
「待って。よく話してくれたわね。」
「・・・えっ?」
「もう少し飲んで、落ち着いて。」
***
この人は、どういう人なんだろう?
私には訳が分からない。自分の夫とつき合ってた女性が来て、お腹には子供がいるし。奥さんは別れるつもりなら、なおさら私のことなんて関係ないし。
ちょっと誘導されて聞かれちゃったみたいっていうか、つい言ってしまったけれど。この人にどうして母のことにしても子供のことにしても話したんだろう。そんなつもり全然なかったのに。来てしまったこと自体がいけなかった。なんにも考えがないんだ、私って。
それなのに、どうして「よく話してくれた」って?
どうして、私はこの人の前で素直になれたんだろう。
みち少年もそうだな。髪の毛の色がこんなんでも何も言わないし。奥さんは性の仕事のこと言っても妊娠のことも全然たじろいでなんかなくて。
夜の前の空をゆっくり見るのは久し振りだ。見ようと思えば見られたけど、最近の私はいつも下ばっかりみてたから。
昔、寒い時に家の中のことがウザくて窓を開けて外を見ていたことがあったな。あの時から、まだそんなに時間が経っていないんだけど色々なことが自分のまわりであった。
あの時の空は怖かったけれど、今日の空は自分が吸い込まれそうでもないし星が出ていてキラキラしてるわけでもない。なんていうか、ただ静かな夜の空って感じ。
どうしよう、奥さんは台所だし、やっぱり帰った方がいいよね。どうするのが失礼じゃないのか迷惑かけないのか、わかんない。
人の気配がしたから、そっちを見ると、渡が部屋のドアを半分開けたまま立って唖然としていた。奥さんもそれに気がついて新しいコップをのせたトレイを持ちながら彼の方を見ていた。
どうしよう。渡の驚き方って、あやしんでる感じだよね。
「今日は帰るのが早いのね。」
「こいつ、何しに来たんだ?」
「『こいつ』って、彼女には名前があるでしょう。」
「何しに来たんだ。」
「私に会いに来てくれたのよ。」
「なんのために?」
どうしよう、渡が奥さんのことを悪く言わないでおくような嘘が思い浮かばない。こんな変な状況を作っちゃった私って本当に最低。責めて。私のことだけを責めて。
何か言わなきゃ。何か・・・。