第16話 真理子の朧げな月
夫が、あの夏美という女性と過ごす時間を想像するのだけど上手く出来ない。
まるで子猫のような表情を見せる彼女を夫が世話をしてるだけのようなイメージなの。
歳が離れてるということだけじゃなくて、なんとなくだけど彼女の怯えたような目。それは、私に会って驚いてドキッとしたからというよりも、何か違うのよね。
3週間ぶりに会うピーターがシャワーを浴びてる間、彼のことじゃなくて夏美さんと夫のことを思い出していた。
男性って色々だわ。
光源氏はマザコンの気があった気がするけれど。亡くなったお母様に似てる父親の妻に憧れて、それだけじゃなくて堪えきれないで2人の間に子供が出来たんだった。それに、1番彼から愛された紫の上も血縁関係があるから顔も似ている。
源氏は彼女のことを愛していたけれど、その向こうにいるお母様のことを見ていたのかもしれない。
マザコンって悪く聞こえることもあるけれど、男性は自分の妻には見せないことが多いのかもしれない。
でも、心のどこかでは母性というか安らぎを求めることもあるんでしょう。母親に甘えるような。
それって悪いわけじゃないと思う。母親と接する時間は長いんですもの。無意識に理想の女性像にしているんだわ。仕事が忙しかったりストレス感じた時に何も言わずにいてくれるような母親の存在を必要としてるのかもしれない。
だけど、自分の母親を理想像として妻や恋人に育てられた自分の価値観を押しつけちゃいけないわね。
ピーターもそんなきらいがあるけれど過剰だわ。甘えっぱなしで責任感がないものね。無邪気に誰かと戯れてふらふらしてる子供そのもの。源氏と比べるとそう思えてしまう。
夫も、人を愛するよりも誰かに愛されることを求めるタイプね。思い通りにならないと駄々をこねるように不機嫌になる所は、ピーターと同じで子供そのものだと思うけれど。彼の母親から考えると、確かに愛情を受けていなかったような気がする。
父は、どんなタイプなんだろう・・・。
***
「いつもより長いシャワーだったわね。」
「昼前、仕事で外にいるのが多かったからね。汗かいたよ。」
「ねぇ、そういえば、ドラマ観たわよ。ほら、外国の人の役だからって推薦された。でも、同じ軍服着た人ばかりで貴方が誰かわからなかった。ごめんなさい。」
「メイクだけで1時間半位でね。そうだね、皆似てるメイク、金髪だしわからないよね。」
ピーターはタオルをとり、すでにベッドに横たわってる私の横に入ってきた。いつものように髪の毛をなでキスをされるけれど、なんとなく長く唇を重ねるのを避けてしまった。なんとなく・・・じゃなくて、意識的にだわね。
私は腕や肩をふざけて揉むようにして笑ったんだけど、彼もくすぐったがって笑い転げた。
痛くはなくて? 私、強めに指で押したんだけど。
汗ばんできた彼と私の体に髪がまとわりついて右手で描き上げようとしたら、
「上になりたい」
そう言って彼は愛撫し始めた。
彼は上になり、私は背中に手をまわした。私はエクスタシーを感じている時に爪を思い切り背中にくい込ませようとしたけれどやめたわ。彼のためにというよりも自分のために。哀しい女にはなりたくなかったから。
「ピーター、忘れものよ。折りたたみの傘」
「あっ、ここにあったんだ。劇団のロッカーにはなかったから落したのかなって。」
「あの日、すぐにメールしたのよ。」
「えっ。気がつかなかった。そうか、もう新しいの買っちゃったな。」
「劇団のロッカー用にしたら?」
「そうだね。ね、ここに置いておくのは駄目かい?」
「う~ん。貴方のだってことを忘れてしまうかもしれないでしょ。それで整理して間違って捨ててしまったり。」
「そうなったらなったでいいよ。」
「・・・ごめんなさいね。ココは、私の部屋なのよ。」
***
男と女の肌の重ね合い。体は感じても心が感じるとは限らないのね。
信頼関係が、繋がりがあれば、なんていうかしら。甘くて優しくてマシュマロみたいなふんわりした気持ちになれるのにね。マシュマロがとろけたら心も体もとろけるようになって。
母は父と何を話してどう過ごしていたんだろう。いくら母が芸者だといっても遊びで抱かれたんじゃないと思う。甘くて優しい時間だったかどうかはわからないけれど。
戸籍というのは、たかが紙切れ1枚に過ぎないかもしれない気がするわ。かといって、公的なものが証明してくれないと法も秩序も乱れてしまう。
夫婦は血縁ではないわ。ある意味、契約でしょ。親子と違って、血の繋がりなんてない他人だし。
それに私は、たかが血縁だとも思っている。親子だからといっても信頼関係があるかというと、どうかわからないもの。上手くいっている人もいれば上手くいってない人もいるでしょ。
信頼関係というのは夫婦や親子、きょうだいは関係なくて。それがある人達もいればない人達もいる。私はそう思っている。
***
吉野さんと母は2人とも日本舞踊の師範免状を持っていたし、唄も太鼓も三味線も相当な腕だったと思う。踊りは自分でも教えながら家元の所には通っていた。
稽古場ではお弟子さん達の邪魔にならないように私は片隅で真似をして踊っていたんだった。
着物や浴衣に憧れたというのもあるけれど、踊りには意味があったから面白そうだったし体を動かすのは気持ちが良かった。
しっかり習いたいと母に言うと珍しくハッキリと賛成はしてくれなかった。後から知ったのは、私が同じ職業になるのがちょっとだけ心配だったらしい。
自分が芸者で芸についてはプライドも持っていたようだったけれど、私に同じ道を歩ませたくなかったという思いがあったようだ。もしも、誰かから愛されて子供が出来たらって。
じゃあ、私に対して父親がいないことで罪悪感のようなものを感じていたってことよね。それに吉野さんから聞いたのは、そのことで私の就職や結婚に影響がないのか気にしていたみたいだったけれど。
私達、母娘は世間から見るとハンディを持つような立場だったのだろうけれど、実際、私は後ろ指さされたし夫の親からも馬鹿にされた。
そうね、でも母が私の将来を心配していてくれたのは時代的なものもあるし彼女は罪悪感を感じてたけれど、それは私を想ってくれる優しさだと受け取ってきてるのよ。一緒に暮らしていて楽しかったんだもの。一杯、愛情を受けていたんだもの。
母娘でありながら、姉妹のような親友のような感じだったしね。父は居なかったけど幸せだと思ってたわ。
***
吉野さんからの踊りの稽古は厳しかったけれど楽しかった。
母は自分で教えると教え方に甘えが出るか物凄く厳しくなるか、ほかにも理由はあったんだと思うけれど教えるのは嫌がって吉野さんにお願いした。
稽古の順番待ちで先輩のお弟子さんのを見ると、扇子を使うのが面白かった。花びらが舞うのを扇子の動きでヒラヒラさせたり、遠くに山があるのを扇子で指して表したり。
女性でも男性の踊りを習うことがあって、扇子を枡にみせてお酒を飲む仕草。
着物の袂をひるがえしたり、それで感情を表したり。
15になって名取の資格を取る時に母は許してくれたけれど、師範の時には、
「大学での勉強を優先してね」
それが条件だった。
それは、裏には芸で身をたてるんじゃないわよ、ってことを言いたかったんだと思う。私は母がとても好きだったし一緒に踊りや歌舞伎を観に行ったり出来るから、ただそれだけよと安心させたわ。実際、なりたい職業はあったわけだし。
彼女は弱い面があるように思えなかったんだけど、やっぱり私のことを心配してくれたんだ。
私は、人の弱さは優しさだと思うようになった。そう。弱さは優しさなの。
そういえば、夫の幼い頃の習い事やエピソード、中学高校の時の夢って何だったんだろう。起業したい、それはつき合ってからの現実的な夢だから。幼少時代の話しや内面的な話をするのは殆ど彼はなかったわね。とても大事なことなのに、私、今まで気がつかなかったわ。
夫とは向き合う時がきたと思っている。
夏美さんのことが原因じゃないわ。もう、ずっと前から煉瓦が崩れるような関係だったのに自分達のことを見つめ直そうとしていなかったのよ。既に修復が出来ない所まできてるのだから、余計に目をそらしてはいけない。
ピーターにも同じだわ。上から目線みたいだけれど、なんとか目を覚ましてあげたい。
ごめんね、ピーター。貴方に与える罰は決めてあるの。そしたら貴方は逃げるでしょうね。いいわよ、それで、そうして欲しいの。私が「悪者」になって離れてくれていった方が気が楽だわ。
私は、私と関わって少しでも何か与えてくれた人には何らかの恩を返したいのよ。
貴方は私の淋しさを埋めるような時間を共有してくれた。いいえ、違う。本当に素敵だと思って好きだったのは事実よ。
私があげることを後から気がついてもいいわ。気がつかなくてもいいわ。見返りなんて求めてはいないし、あげるとか目を覚ますといっても、罰なんだから。
男性との関係は苦しみを伴う。夫婦であってもなくても、恋愛はゲームでもないしセックスでの結びつきだけでもないわ。
心に触れあって、それが良い方に向かうのか悪い方に向かうかは、つき合っていた頃によく知っておくべきだった。でも、遅くなって互いに傷ついても、それが深くなる前に行動をするのがいいのよ。
心を委ねあうこともなくなり「ただの共同生活」とか、なんとなく一緒に居るだけの虚しい時間を過ごしあうのは、美しい花をテーブルに飾っても気がつかないことになるから。
見守る愛や、引く愛ってのもあると気がついた・・・月が朧げな夜だった。