第14話 真理子と夏美の出会い
夫のオフィスまでは地下鉄で1駅。
なによ、電気がついてるじゃないの、仮眠してるのかしら?
鍵は持っているけれど、インターホンを鳴らすと彼が出てきて「何だ」という驚きと面倒そうな表情をされた。
駅から急いで駆けてきたから私は息が荒い。
「何かあったのか? ここまで来るなんて。」
「あっ、前川さん。クライアントの前川さんから家宛にレターパックが届いたから、急いだ方がいいと思ってきたの。」
「・・・まぁ、入れよ。」
大事なお客さんだというのに、感謝してるとは思えない顔をしてる。私がここに来たせいで機嫌が悪いのかもしれないけれど。お礼ぐらい言ってもいいと思うわ。
日常の小さなこと、相手に対して不快な言動したり、それが顔に出てしまったりすると、段々と「性格」のようになってしまう。そうなると、最初は相手を選んで対応ーー不快な言動を抑えるようにーーしていても日常化してしまうわ。だって既に「性格」なんだから。
この人は、前はどうだったかしら。今よりは感謝の気持ちを表してくれたり何かあると謝ったり、マナーはあったと思うんだけれど。
「ここにも貴方の電話にも連絡したんだけど繋がらなくて。」
「ああ、つい今、出先から帰ったばかりでね。」
「そうなの。忙しいみたいね。」
「忙しいさ。だから、家にも帰れなくてね。
何か飲むか?」
「ええ、ありがとう。あっ、私がコーヒーでもいれるわ。早めに資料を開封してて。」
***
私は台所に行き、コーヒーや紅茶を探した。
洗ってないカップと買ってきたらしい料理のパックの空になったもの、お皿がタンクに置いてあった。飲みかけのカップは冷めていた。今まで、ここに居たんじゃないかしら、少なくとも30分位は。
電話の着信が私だったから出なかったのね。
その時、インターホンが鳴って渡の声が聞こえてきた。お客さんかしら。
覗くと私と同じように息を荒くさせてドアを入った女性が、
「急いだ方がいいと思って。」
「ああ、はい。えっと、お疲れ様。」
「あの・・・。」
「今、来客中ですから。今日はもう仕事はあがって下さい。」
「あっ!」
「入って頂いたら?」
私は髪の色が茶色の女性に向ってニッコリ笑いかけた。なるべく嫌味じゃない作り笑いに見えないように。
「えっと、新しい事務の人でね。」
「そうですか、お世話になります。私は・・・。」
「夏美ちゃん、家内だよ。
君もお使い、疲れたろう。もう今日はね。」
「少し落ち着いたら? コーヒーいれたばかりよ。持ってくるわ。」
彼は私の言葉を遮った。だから、私もちょっとだけ意地悪したくなってしまって、帰らせなかった。
渡は彼女を中に通し、私はテーブルにコーヒーを置いた。
「こちらも急ぎの用でね。クライアントの所に行ってきてもらったんだ。」
「あ、あの。はじめまして。よろしくお願いします。」
「はじめまして。いつから入ったんですか?」
「仕事ですか。あの・・・。」
「もう何ヵ月か経つよ。『夏美君』と言って、バイトだけどよくやってくれるよ。」
また夫が誤魔化した。
「2つ急ぎの仕事が入って、本当に大変ね。でも、夏美さんは若いから夜は早く帰らせてあげてね。」
「だから、もう君、あがってよ。」
「あら、今はコーヒー飲んで少し落ち着いてちょうだいよ。私こそ、これで。食事の準備中だったから。」
「今日も徹夜で仮眠かもしれない。」
「わかったわ。無理しないで進めていってね。
夏美さん、失礼しますわ。」
「はい。失礼します。」
彼女は立って頭を下げて挨拶した。
私は嘘の下手な人は嫌いだわ。彼ったら、みえみえじゃないの。
ピーター、私も劇団に入ることが出来るかもしれないわよ。演技が上手いでしょ。
ふふ、O.K.・・・貴方のTVドラマ見てあげるわよ。
何が演技で何が現実なのか、日常生活か非日常か。なんなのか、わからないことってあるものだわ。下手な嘘に、その場の空気を読んだ演技と嫌味じゃない笑い方。
他の夫婦や恋人同士でも、こんなことってあるのかしら。もしかしたら少なくないんのかもしれないわね。
急いだからかしら、何だか軽く目眩がするわ。動揺なんてこれっぽっちもしてない。彼女のボディシャンプーだかコロンの香りが苦手なのかしら。いつも感じてるのにね。
***
「貴女のママかい?
さあね、どれほど泣いたかってね。たぶん、貴女の100倍位かしらねえ。
知らないわよ、激しい恋だったのかどうかなんて。
幸せそうだったかって?
・・・それも私にはわからないわよ。きっと、誰にもわからないんだと思うよ、人の心の奥底なんてさ。
それに、『幸せ』って、つくるものでも求めるものでもないんじゃないかしらね。勿論、掴むものでもない。たぶん、幸せは『ただ感じる』ものだと思うわよ。私が思うだけだけどね。」
そうね、幸せって突然ふわりと感じるものかもしれない。
頭で考えたり求めるために努力するようなものじゃなくて。不幸の反対が幸せでもないと思うし。
好きな人とセックスした後で髪を撫でられた時に嬉しい、温かいなって感じるものかもしれない。
体を重ねなくても、久しぶりに好きな人と逢えた時に笑いかけられて安心感があって、それが幸せかもしれない。
男女の関係だけじゃないわね。
ママとの生活や、ママから受けた色々な想い出や考えさせられること。それらは私にとっては、とっても大切なもの。
青い空に向かって咲いてる薔薇の花がのびやかだったり飛んでる鳥たちが親子なのかしらって仲が良さそうでほのぼのとしたり。湿度が高い日に急に風が吹いてきて麻のブラウスが揺れたり。
自分の心で感じる人とのふれあいや見たもの、それが心を温めるように柔らかくしていくように揺さぶられること。
大きなものじゃなくてもほんの小さな日常の出来事の中にも、一杯に「幸せ」が、大切なものがあるんだろうって思う。
夫との結婚生活で、幸せだわと感じたこと、どの位あったかしら。
***
苛めとまではいかなかったけれど、父親がいないことで不快なことを言う人達はいた。
あれは、中学の1年の時だった。
仲の良い友人の家に行った時に彼女のお母様が私に母子家庭のことを言ったの。友人は悪気があったかどうかわからないけれどクラスの子に話して、それで私は少しの間、周りの注目の的になってしまった。
何も恥じてなんかいなかったし、私は何もしていない。母との生活は「幸せ」だったけれど、それを父親がいないからと否定したり逆にわざとらしく同情する人達。
思春期だったからか、気丈だと思っていたのに私は暫く胃が痛かった。心配させるといけないから母には話すのはやめておいて内緒にしていた。
学校に気さくな保健の先生がいて打ち明けると、手を握り締めてくれた。
「大丈夫よ、何も卑下することなんかないわ。貴女は望まれて産まれてきたの。
人のことを悪く言うのはね、その人達の心に問題があってね、そのストレスを自分よりも弱い人間に向けるからなのよ。人が幸せそうに見えると自分と比べて嫉妬してしまったりね。」
母には言わないで欲しい、彼女の方が傷ついてしまうからとお願いした時に私の目から一筋の涙が頬をつたった。瞳が潤んでいたわけでもないのに。突然に。
涙は瞳からこぼれてくるものではなくて心から出てくるものだと、あの時初めて知った。
悲しさと、それから先生の言葉の力と温もりによって。そう。涙って、悲しい時、嬉しい時、どんな気持ちだか自分でもわからない時にも出てくるものなのね。
「泣いていいのよ。笑っていいように。涙はね、心の中の毒消しのようなものなのよ。寂しい時の涙はね、心を澄んだものにしてくれるから。だから、泣いていいのよ。」
***
私は産まれてきて良かった、愛してくれる人がいて、そのために産まれてきたの。
美しい花や音楽が癒してくれるように、人が人の心を包みこむように癒してくれるんだって。保健の先生の言葉が道端に咲いてる可愛らしく黄色いタンポポの花のように、穏やかで美しい音色のヴァイオリンのように私の琴線に響き渡った。
何度か放課後に話に行って先生と話してると臨床心理士という職業があることを知った。人を癒したり、話を聴いていく職業。保健の先生になるのも考えたけれど、「心」って何なのかを自分でも知りたくて大学は心理学部に進もうと決めた。とても難しい仕事だけれど。
臨床心理士だから6年間は勉強する必要があったし、心理学部は実験費用も入るから学費が他の文学部よりも高かった。
私を認知しなかった、というよりも母が認知させなかった父が、私の学費を出していてくれていたと知ったのは母の親友の吉野さんからだった。
中学も高校も私立だったし大学の学費は、考えてみれば母が夜仕事をするのと踊りを教える仕事をすることだけでは苦しかっただろう。
母は父の申し出を拒んでいたらしいけれど、でも、父は頼むからと頭を下げたらしい。母のためというよりも娘のためにと思ってくれるわけにはいかないだろうか、お願いします、と。
父が出してるとは知らず、私は奨学金を借りようとしたけれどその必要はないと母は言った。だから、せめて自分のお小遣いは、とアルバイトもしたわね。
母が愛した男、母を愛した男、私の父に1度会いたいと・・・強く思った。