貴方のために書いた本
貴方のためだけに書きました。どうかずっとあなたの側に置いてください。
一
本当に美しいものは現実に存在しない、そのような話を父はよくしていた。
私は片田舎の小さな町で生まれた。教会があり、市場があり、畑のある普通の町で、父は特段に変わった人間だった。昔から本を収集するのが趣味だったようで、家の半分は書斎に改築されていて、子供の読む草紙本から高級な装丁の聖書まで、おおよそこの町で手に入るであろうすべての本が雑多に並んでいた。父の収入はほぼすべて本に消え、母はいつも生活の苦しさをにじませる顔つきだったが、私はそんな父が好きだった。
父はよく寝物語に本を読んでくれた。それは父の持つ唯一の家庭的な部分で、思い返せば本を読むとき以外の父の声はほとんど聞いたことがない。英雄譚や愛の物語、遠い異国の風俗や動物、無限の世界がそこには存在した。その中で、私の心に強く焼き付いているものがある。それは森の奥の館に、何百年も前からひっそりと住まう一人の少年の物語だ。少年は眩いばかりに美しく、見たものを剥製に変える。父はこの物語を読んだ後に、いつもこのように締めくくった。
「本当に美しいものは現実には存在しない。本当に美しいもの、それは一瞬で散る火花、悠然とそびえる山々の表象だ。人間はそれらと同じ時間に居並ぶことはできず、ただ死のみがそれを可能にする。だからお前は美しいものを追いかけてはいけないよ。それはお前を瞬く間にあちらへ連れ去り、そして永久にそこに留め置くんだ。」
この話を聞いた夜はいつも眠れなかった。瞬間と永遠、幻の美しさが胸に去来した。ある時は氷のように、またある時は鮮血のように煌めく七色の薔薇、私の曽祖父が生まれるより前から、私の骨が土に変わるまで、館の中心で一人たたずむ少年の巨大な影。
父が死に、その話を聞けなくなった今でも、胸の奥に潜んだあの少年が時たま私の眠りを妨げる。何十冊かの本を残し、遺産を売り払ってまとまった金を作った私は、少年に逢いに行くことを決めた。
二
もう逃げ切れないと覚ったあの方は森の奥の館に逃げ込んだ。そして、懐から魔法の薔薇を取出してじっと見つめた。それは銀かと思えば青、青かと思えば白と冷たく輝いていて、恐ろしいほどに美しかったそうだ。少し前まで大声を上げていた周りの人達も皆、息をのんでそれを見つめていて、まるで時間が止まったようだった。何秒、何分立ったのか、はっと我に返るとあの方は棘だらけの薔薇の茎を自分の目に突き立てていた。赤い、赤い血が流れ出てくるのがみえた……」
語り部の老婆の声色は熟練の技量を感じさせ、うずくまる少年の幻影を私に見せる。一緒に話を聞いていた少女は怯えて耳をふさいでいた。
「あの方は薔薇の悪魔になって周りの人を捕まえて食べ始めた。儂の祖父の祖父のずっと昔のご先祖様は、振り返らずにまっすぐ逃げ出した。今でもあの方はあそこにいる。だから森の奥に入ってはいけないよ。薔薇の花が咲いている所まで行ってしまったらすぐに帰ってきなさい。さもないと……」
少女は悲鳴をあげてベッドにもぐりこんだ。父の遺した何冊かの本を頼りに、とうとう少年の物語の古里にたどり着いたのだが、なかなか興味深い話を聞くことができた。森の悪魔は子供が森の奥深くまで入ることを禁ずるために、よくつかわれる説話だが、少年の描写は真に迫っており、実際に見た光景を口伝していると感じさせる何かがあった。
「この森の奥には本当に薔薇の咲く場所があるのですか。」
私は三度大声で質問をし、ようやく老婆が答えた。
「さっきのお話はお話だけど、薔薇の咲く場所があるのも、そこが危ないのも本当さ。村から離れると狼や熊がいるからね。儂のお話は終わりさ。もう疲れたよ。」
話をやめてぐったりと俯き、急に小さくなってしまったような老婆に一礼をし、宿に戻ろうと振り返ると私の手首を氷のような手が掴んだ。驚いて振り返ると、椅子から立ち上がった老婆が縋り付いてきた。
「儂のいうことをよく聞きなさい。美、未知、神秘。これらのようなものに魅了されてはいけない。生きて帰ってこられるのは泥を見つめて、家族の顔を思い出して走るものだけ。本物に触れられた瞬間にお前は偽物になってしまう。帰るんだ、早く帰るんだ。」
しぼんでしまった体から絞り出すような声で老婆はそのように言った後、床にへたり込んだ。その夜も、私は眠ることができなかった。
三
横たわり目を閉じていると、またあの幻想がみえる。血のような薔薇の赤はより現実的となり、私の鼓動を速めた。少年の事を想うと、心の炎がめらめらと燃え上がるのを感じる。愛情、憧憬、渇望。それは同時に私の生命を焦がし削っていく。しかしまたそれも、私にとっては喜ばしいことなのだ。
私は薔薇の花を求めて森の奥深くに分け入っていた。今日も見つからなかったことに嘆息しながら、日が暮れる前に戻ろうとすると、背後から枯葉を踏み分ける音が聞こえる。人ではない、野兎や狐よりずっと大きな生き物。老婆の話を思い出し、途端に全身に汗をかくのを感じた。ゆっくりと地べたに這いつくばり、そのまま灌木の下に身をひそめる。どれくらい時間が経っただろうか、周囲を見渡すと枝の隙間から毛むくじゃらの足が何本も見える。失禁しそうになりながら逃げ道は無いかと探すと、森には不釣り合いな、磨かれた黒いブーツを履いた足があった。
「なんでそんなところで寝ているの、服が汚れちゃうよ。」
楽しげで軽やかな声。驚いて見上げると、そこには貴族の装いをした少年が立っていた。氷のように透き通った肌、片目を覆う薔薇。伸ばされた少年の手を取り立ち上がると、未だに何頭もの狼に囲まれていることに気付いた。悲鳴をあげ、うずくまると少年はけらけらと笑う。
「みんな剥製だよ。動かない、何も怖くない。」
歌うように少年は言い、私をまた立ち上がらせた。よく見るとそれらは本当に剥製だった。生気のない作り物の目、半開きで固まった口。ただ、どれもが先ほどまで生きていたような気配を感じさせ、あたりには獣臭が漂っていた。
「もう暗くなるから僕の家に泊まっていきなよ。本物の狼に襲われたくないでしょう。」
少年はいたずらっぽい表情でそのように言うと、鼻歌を歌いながら獣道をすいすいと歩き始めた。二人になった途端、一人になる不安を感じ始め、私は急いで少年の後を追う。あたりには沢山の薔薇が咲いていた。
四
森の奥にここまで立派な屋敷があるとは思いもしなかった。村の人々が全員移り住んでもまだ部屋が余りそうだ。驚きで口をあけている私の顔を見て少年がまた笑う。
「外から眺めるのもいいけど早く中に入りなよ。少しだけど食べ物もある。ほら、そろそろ夕食の時間じゃないか。」
食事は立派な卓に見合わぬ質素なものだった。乾パンに干し肉、しなびた林檎と埃をかぶったワインボトル。少年の前には空っぽのワイングラスだけがあり、観察されているようで何とも食べにくい。沈黙を破り、私は少年に温めていた質問を投げかけた。
「あなたがウカ様ですよね。」
少年は微笑んで肯定した。
「僕が怖くないのかい。」
「怖いです。美しいものは、恐ろしい。そう父に教えられましたから。」
少年の笑顔は深くなり、今までにはなかった冷たさを帯び始めた。
「君にいいものを見せてあげるよ。ついてきて。」
大きな階段を上って広間に入ると、そこには先ほど食事を並べたものより二回りほど大きい、装飾が施された円卓と十脚以上の椅子があった。ほとんどの椅子には老若男女、様々な人が腰かけている。彼らは剥製だった。抹香のような香りが漂う部屋を見渡すと、犬や猫、小さな鳥の硝子の瞳と目があう。その視線は私を通り過ぎ、どこか遠くにある深淵を見つめていた。途端に自分の衣擦れや呼吸、心臓の音が大きく聞こえ始める。ゆっくりと部屋を歩き回っていた少年は、扉の反対側の一際立派な椅子に腰かけ、私を見つめた。
「これが僕の大切な友人、剥製さんたちだよ。みんな静かで、清潔で、優しい。君が見たかった本当のものがここにある。怖くない、もっと近くに来て。」
私はふらふらと近づき、少年の青い瞳を見つめた。本物がそこにはあった。偶像に囲まれた本物。私は心臓をつかまれるような感動に打ち震え、子供のように泣いた。
気が付くと、少年はすぐそばに立っていて、私の髪を指で梳き、いまだに零れている涙をぬぐった。
「君にもここの椅子を一個貸してあげる。でもその前にひとつ、やってもらいたいことがある。」
五
私は今、書斎を貸し与えられてこの文章を書いている。私が感じた美しさを、手に入れることができない本物をこの世界に遺すために。これを書き終えて、装丁し、一冊の本とした後に私は剥製になる。剥製が朽ちた後も本は残り、本は朽ちる前に書き写され、永遠の時を少年と過ごす。そろそろ筆を置こう、私もあの美しい、本物の瞳が早く欲しい。