8. 虎穴を抜けて竜の巣穴へ
その後のベッケルの顔は見物だった。
ずっと顔に張り付いていた皮肉ったらしい冷笑はどこかに消し飛び、顔を赤くしたり青くしたりして怒鳴る姿は滑稽だった。
ふざけるなこのアマ一体何を考え俺の邪魔をするな約定が何だ俺はそんなもの畜生一体なに様のつもりだ――。
ベッケルが怒鳴れば怒鳴るほど、開け放たれた両開きの戸口から覗き込む野次馬が増えていく。
ミーファが扉を開け放った時点で、守備隊詰め所というベッケルが絶対支配する閉鎖空間は、ラストルの街の一部に戻った。
力の均衡を取り合う複数の組織が絡んだ約定を反故にすることは――しかもそれを堂々と人前ですることは――ベッケルといえども簡単にはできなかったのだろう、とライエンは思う。
ライエンは、ミーファに手を引かれてその場を後にした。
今、二人は夕方の街を足早に街中を横切っている。
歩きながら、ライエンは思い出す。
衆人環視の元、浴びせられる罵倒を涼やかな笑顔で受け流し、黙って書類を突きつけるミーファの姿は、格好良かった。思い出すだけで、ちょっと胸が熱くなる。
「ミーファさん本当に格好良かった! 惚れそう」
「ふふっ、ありがとー」
ミーファが詰め所に入ってきた時、喜びのあまりミーファに抱きつこうとしたライエンは避けられて、事態が飲み込めず突っ立っていた小太りに突っ込んだ。
思い出すと、ちょっと胸が痛い。もちろん、ちょっとだけだ。
「一体なにがどーなってるの? 宿のご主人に聞いて、慌てて賭けつけたんだけれど、事情は全ー然わかってなくて」
宿の主人は、無事に風車に助けを求めてくれたようだった。ライエンは胸をなで下ろすと共に、助けを求めていなかったらと考えるとぞっとした。
歩きながら、かいつまんで情報を共有する。
ベッケル――相当な使い手なのは確かだが、あの男は狂っているとしか思えない。
何とかしてあいつをあの地位から引きずり下ろさないと、今後、何をしでかすかわからない。
守備隊に協力を依頼して――。
自分の考えのばからしさに気づき、ライエンは立ち止まった。
守備隊に頼んで守備隊長を捕らえてもらうって?
せめて、守備隊の副隊長がいれば話もできるだろうが、今朝、彼が遠征に向かうのを見送ったのをライエンは思い出す。
「ねえ、ミーファさん」
「なーに?」
「守備隊って、今、街にどれくらい残ってるんだっけ?」
「……うん?」
ミーファは小首をかしげて答えた。
「普段の半分くらいかな?」
「……討伐者って、今、街に何人いるんだっけ?」
「忘れちゃったのー? 朝、言ったじゃない」
――今何かあっても、動けるのってライエン君だけなんだね。
ちょっと待て。
ライエンは、頭から血の気が引いていくのを感じた。
なぜ、ベッケルはあんなに強引なことをした?
なぜ、街にただ一人の討伐者である俺を殺そうとした?
なぜ、街に昼間から魔族が現れた?
なぜ、あんなに早く、宿に守備隊が現れた?
なぜ、今――。
ライエンは空を見上げた。
あるべきものを探して見つからず、恐る恐るミーファに訪ねる。
「……月、まだ出てないよね?」
「まだも何も、今夜は――」
おい、やめてくれ。
ライエンの悪い予感をミーファの言葉が裏打ちする。
「新月だから」
新月の晩。月の光が絶えて闇が最も深くなるその夜は、魔族がもっとも力を増す時だ。
ミーファに強引に頼み込んで、彼女には遠征隊の後を追ってもらうことにした。
ライエンの推理にミーファは半信半疑だったが、可能性があることは否定しなかった。
「ごめん。新月の晩に街の外を走るのは危険があるけど」
「大丈夫。これでも馬に乗るのは得意だからー」
颯爽と馬を駆るミーファを見送って、ライエンは自分の役割を果たすべく走る。
目指した場所は、街の西側。街壁にほど近い宿屋、夜長亭だ。宿の前には、まだ見覚えのある荷車が止まっていた。
まだ、宿は街壁の影に入っていないせいか、遠目にはそれほど客がいるようには見えない。
宿の一階に駆け込むと、かわいらしい声がライエンを出迎えた。
「いらっしゃいませー!」
笑顔で出迎えたエレナを、ライエンは思わず抱き上げてその場をぐるぐると回った。
「良かった、エレナ、無事でいてくれて!」
「ひゃぁぇ!? ラ、ライエンさん!?」
真っ赤になってわたわたするエレナを床に下ろすと、背後から頭をひっぱたかれた。
「なにやってんだい、この変態討伐者。うちの店の子に手を出すとか良い度胸じゃないか」
「あ、おばちゃん。いいところに――」
ライエンは女将を調理場に引っぱっていって、エレナの姿を視界の隅に収めながら事情を話す。
「エレナちゃんを悪い連中が狙ってるって? 間違いないのかい?」
「うん、多分間違いない、と思う」
「じゃあ、守備隊に連絡して――」
「駄目だ。守備隊も、奴らの仲間だと思う」
ライエンは、自分の身に起きた一部始終を手短に話した。
最初は訝しげな顔をしていた女将は、途中から目を閉じて話を聞いていたが、ライエンの話が終わると、カッと目を見開いて、
「よし、あたしはあんたを信じる」
「えっ」
「えっじゃないよ。あんた、自分の話が信じてもらえないと思ってたのかい?」
「いや、そうじゃないけどさ」
あまりにあっさりと信じてもらえて拍子抜けするライエンを、女将は励ますように、
「あんたは、あの子が聖者の孫って呼ばれるのを嫌がっていたのに気がついて、名前で呼んであげたじゃないか。あたしも最初はそこまで考えなかったよ。あんた、変わり者で乱暴ものだけど悪い奴じゃないし、馬鹿でもない」
「おばちゃん……」
「エレナちゃんに聞いたよ。屋根を突き破って落ちて来たときも、咄嗟にあの子を三階の寝台に放り込んで、自分だけ一階まで落ちたって言うじゃないか」
「それは、まあ」
「あんたの優しさと、機転と、危険を承知で戻ってきた勇気を、あたしは信じる」
女将の言葉をライエンは噛みしめる。
今日会ったばかりの自分を信じてくれるこの人の信頼は、裏切れない。そう思った。
「ありがとう。おばちゃんの期待に応えてみせるよ」
「あんたやっぱり馬鹿だね、あたしの期待なんてどうでもいいんだよ」
女将は、小さな体で一生懸命に酒場を行ったり来たりするエレナの姿を見つめていた。優しい目をしていた。
「あの子のことを、守ったげとくれ」
「ああ、もちろん」
ライエンはしっかりとうなずいた。
「でも、安全な場所で、しかも守備隊もいない場所……一体どこに行くんだい?」
女将の疑問に、ライエンは迷い無く答える。
「街を出る。危険はあるけれど、遠征隊に合流するのが一番安全だと思う」
「安全とは言えないねぇ……新月の晩に、少人数で壁の外に出て危険じゃないのかい?」
「危険はあるけど……最近は街の周りに魔族は少ないらしいし、街の中にいるよりは安全だと思う。エレナと一緒なら俺は魔法を使えるから、ちょっとやそっとの相手には後れを取らないよ」
「そうなると、どうやって見張りに見つからずに――追っ手が掛からないように街をでるか、だね」
夜長亭の周囲に、見張りらしき男たちがたむろしているのは、既に女将も確認済みだった。女将は忌々しそうに、
「あいつら、昼頃からずっとあの調子なんだよ。裏にもいる。最初は、エレナちゃんの安全を守る側かと思ったんだけどさ」
「――違った?」
「声掛けたら逃げたんだよ、あいつら。お屋敷の方でも心配だろうと思って、こっちから声を掛けたんだけどさ。近くで見たら、どうみてもごろつきの連中もいたし、だいいち、目が――」
「ああ――」
「誰かを守るって人間の目じゃ、無かったんだよね」
それは、ライエン自身も見て感じたことだった。こそこそと夜長亭の様子を伺う男たち。彼らの目に浮かんでいた感情は、まず敵意。
それから――怯えだった。
「こっそり抜け出すには――」
ライエンと女将は、酒場にいる人物をじっと見た。視線を感じた人物が、二人を見て困り果てた顔をする。
食材を納めに来ていた農夫がこの時間になっても夜長亭にいたのは、ライエンに取っては幸運だった。
「いやねえ、普段は品物納めてとっとと帰るんだけどねぇ」
「はあ」
「よく覚えてねえけど気い失なっちまって、目え覚ましたあとも体動かせなくってなぁ。天井も床も大穴空いてるし、ほんとびっくりしたわ」
「本当に、巻き込んじゃって申し訳ないね」
「いんや、兄ちゃんが悪いわけじゃないだろ」
「あ、うん。そう……かな。はは」
人の良い農夫には快諾してもらい、エレナも納得してくれた。
「ライエンさんと一緒に街を抜け出すとか……ちょっと、どきどきします」
「少しだけ危険もあるけど、大丈夫。エレナは俺が守るから」
「……」
「――?」
ライエンの言葉を聞いたエレナは驚いた顔をして固まった。首から上がゆっくりとバラ色に染まったかと思うと、急に背中を向けてしゃがみ込んで、何やらうゎーぅゎぁーとか呟いている。
この子もちょっと変なとこあるなぁ、などとライエンは思うが、まあ子どもだしと納得する。
「さて、こっそり脱出作戦にかかりますか」