5. 歓迎には酒瓶を
ライエンは薄い壁をぶち抜いて、壁の向こうの気配を蹴り飛ばす。
厚い靴底を通して、硬い物を捉えた感触。
軸足で床を蹴って体重を乗せて、思い切り蹴り抜く。
そこからさらに体重を掛けて、体当たりの要領で部屋に飛び込んだ。
視界いっぱいに迫った何かが、廊下からの光を受けてギラリと光った。
間一髪で、ライエンは体を捻って躱す。
鉤爪が顔の脇の空気を切り裂いた。
大振りの一撃を躱したライエンは、すれ違いざまに相手の背後に回り、背中に蹴りを一発。再び、足には硬い、まるで石か何かを蹴ったような感触があった。
前のめりに吹き飛んだ相手が、扉に頭から突っ込む。派手な音がして扉が外れ、相手は扉ごと廊下に放り出される。
ライエンは追撃せず、立ち上がる相手を見つめる。
身長は、ライエンよりやや大きいくらい。
体の大まかな作りは人間のそれだが、しかし、その皮膚は青黒く、硬い。なまくらな刃など跳ね返す硬い皮膚の下には、鎧のように筋肉を纏っている。
全身に体毛はなく、禿頭で、彫りの深い顔には釣り上がった血のように紅い目が光っている。
両腕は長く太く、その手には長く鋭くーー赤黒い血に染まる、鉤爪。
人の敵、魔族。ライエンがこれまでに何体も見て――狩ってきた類の魔族だ。
人外の姿を目にして、不快な記憶が刺激されて、ライエンは無意識のうちに拳を強く握りしめる。腹の底から沸き上がるどす黒い感情を抑えながら、意識して拳を開き、ゆっくりと、軽く握る。
ライエンは相手を見下ろして、顎をそびやかして嘲るような声で、
「よう、雑魚」
「――――――――!」
ライエンの言葉に、魔族はシャーッ、というような言葉にならない罵声を返す。開いた口元から、鋭い牙が覗く。
相手の応答に、ライエンは舌打ちを漏らす。
「まともに会話もできないのか。成りたてだな」
立ち上がった魔族はよろめいたように、部屋の入り口の戸枠に手を付いた。
多少は痛手を与えたようだが、先ほど鉄の鋲のついた靴で思い切り蹴ったはずの体には、ほとんど傷らしき傷が見えない。わずかに右脇をかばっているように見えるが、この程度の痛手からは魔族がすぐに回復することをライエンは知っていた。
――まさか本当に、真っ昼間から街中で魔族にあうとはね。さすがに分が悪いぞ。
相手は、人間を越えた身体能力と頑丈な体を持った、文字通り人外の化け物。
いくら経験豊富な討伐者であるライエンとはいえ、まともな武器なしで魔族とやりあうのは正気の沙汰ではなかった。
魔族が赤い目に敵意を浮かべてライエンを見た。握りしめた戸枠がバキバキと音を立てて、魔族の手の中で砕け散った。どうやら、もう元気いっぱいらしい。
――少しでも不意打ちの衝撃が残っているうちに、ケツまくって逃げとくか。
ライエンがそう思った瞬間、魔族が一歩を踏み出した。同時に、左手の鉤爪を足下から掬い上げるような軌道で、ライエンに向けて振った。遠い間合いからの攻撃を、ライエンは余裕を持って見極めようとして、
まだ間合いは遠く――ないっ!
想定以上に素早く間合いを詰めてきた魔族の動きに戦慄しつつ、とっさに仰け反ったライエンの鼻先を鉤爪が掠める。
次の瞬間、上に通り過ぎたはずの鉤爪が今度は横殴りに襲いかかる。
人間には不可能な、腕の長さと関節の柔軟性を活かした攻撃の軌道――しかし、それをライエンは身を屈めて避けた。
続く右の拳の一撃を、ライエンが身を捻って躱した瞬間、魔族が拳を開いた。
握り混んでいた木枠の破片が、ライエンの顔面に降りかかる。
「――っ」
目を押さえるライエンを見下ろして、魔族が歯を剥いてせせら笑った。鉤爪のついた右手を大きく振りかぶり、ライエンの頭に向けて必殺の殺意を込めて思い切り振り下ろす。
しかし、一撃は空を切り、鉤爪は床を穿った。それを、ライエンは冷ややかに見下ろしながら、
「見え見えなんだよ」
魔族の懐に踏み込んだ。ガラ空きの顔面に向けてその手を振るう。
甲高い音が響いて酒瓶が砕けて、中身の液体が魔族の顔面を襲った。
酒精が目を焼き、魔族が獣のような悲鳴を上げる。
視界を失った魔族は、獣のような叫び声を上げながら滅茶苦茶に両手を振り回す。鉤爪が風を鳴らす甲高い音が響き、触れる物を切り裂く一撃が荒れ狂う。
服を鉤爪が掠め、布地が弾ける。暴風が頬を撫で、肌が引き攣れそうになる。死と隣り合わせの暴風の中、ライエンは表情も変えずに立っていた。
ライエンは、髪先を散らす一撃を無視して、造作に踏み込む。
手にした割れた酒瓶を、叫ぶ魔族の口の中に無造作に突き込んだ。
もちろん、刃のように鋭い断面を見せる、割れた側を先にしている。
「――――――――――――ッッッ!!!」
外皮とは異なり柔らかい口腔から溢れる青緑の血に咽せて、悲鳴を上げることもできない魔族に酒瓶を抜く暇を与えず、ライエンは魔族の顎を思い切り蹴り上げた。
口の中で、ごしゃり、と音がして酒瓶が砕ける。
「遠慮するなよ。ちゃんとよく噛んで喰え」
口を押さえてのたうち回る魔族を、瞳に冷酷な光を浮かべたライエンが見下ろす。
「お、おい、一体なにやって――」
宿の主人の声が聞こえたのと、魔族が飛び起きたのは同時だった。
――しまった!
部屋の入り口に宿屋の主人。
ライエンは部屋の中央。
魔族は主人とライエンの中間。
何をするにも、圧倒敵に魔族の方が早い。
魔族が鉤爪の付いた手を主人に伸ばすのが見えた。
鉤爪が主人の肩を掴む。
間に合わない。
目の前で人が死ぬのを止められない。
奴らを、人を殺す憎い魔族を止められない。
奴らを殺せない。
殺せない。
柔らかい人体に、鋭い爪が食い込み――。
魔族が、ライエンに向けて宿屋の主人を放り投げた。
ライエンは主人の体を受けて止めて、背後に倒れ込んだ。
ぎゃぁぁ痛え死ぬー死ぬーと泣きわめき叫んで悶える宿の主人に押しつぶされながら、ライエンはぼんやりと天上を見上げていた。
せっかく用意した焼き串使い損ねたな、と思った。
「うん大丈夫、かすり傷。傷口洗って縛っとけば直るってば」
宿の主人の傷は浅く、もう血は止まっていた。
爪に付いた良くないものが傷に入った可能性はあるが、毒気のありそうな種類でもなかったからおそらく大丈夫だろう。
手当ぐらいしてくれよう、と泣く主人の手を払い除けて、ライエンは後回しにしていた問題と向き合うことにした。
ライエンが部屋に入った時点で、魔族の爪は既に血に染まっていた。
部屋の奥に目を向ける。
部屋に一つだけある粗末な寝台に、若い男が仰向けに横たわっている。男の虚ろな目は虚空を見上げたまま固まり、胸はどす黒く乾いた血に染まっていた。
ライエンは寝台に歩み寄り、念のために脈を確かめた後で、死体の見開いた目を閉じてやった。
恐る恐る近づいてきた宿の主人は、ライエンの肩口から寝台の中を覗き込んで、短く悲鳴を上げた。ライエンの肩にしがみついて、青ざめていた顔を一層青ざめさせて、
「お、おい、死んでるのか?」
ライエンは頷く。身元を調べようと相手の着衣を調べるうちに、死んだ若者が何者なのか思い出した。
「俺の客って、この人?」
「ああ。知り合いか?」
「世話になってる鍛冶屋の弟子だよ。いったい何だって――」
先日会ったばかりの間柄だが、見知った相手が死ぬのは何ともやり切れない気持ちだった。
答えの出ない問いが、ライエンの脳裏を駆ける。
――彼は自分何を伝えに来たのか。何を求めてきたのか。
仮に、自分がもう少し早く帰ってきたら、彼は死なずに済んだのか。
その時、どかどかと階段を上る重い足音に続いて、数名の男が部屋になだれ込んできた。男たちは皆、皮鎧を身に着けて、揃いの白い外套をまとっている。
先頭の男が叫んだ。
「守備隊だ! 動くな!」
ライエンは大人しく手を上げ、抵抗の意思がないことを示す。
「ほら、おっさんもじっとしてて」
「お、俺はなにもやってない! 酒に水なんか混ぜてないし、最近は荷物だって触っちゃ――」
「そこ、喋るな!」
入ってきた守備隊の兵士は三名。一人が入り口に立って封鎖。もう一人が寝台の遺体を調べて、残る一人が剣を抜いてライエンに突きつけてきた。
ひっ、と宿の主人が悲鳴をあげて後ずさる。
「おいおい、穏やかじゃないな。こっちは丸腰だぞ」
「だ、黙れ。暴れていた討伐者ってのは貴様かっ」
突きつけられた剣先が震えているのに気づいて、ライエンは守備隊の男の目を見た。そこに浮かんでいる感情は、職務に対する使命感でも、犯罪に対する怒りでもなく、怯えだった。人外の戦闘能力を持つ討伐者の相手をすることに、怯えているのだ。
ライエンは心の中で溜息をついて、
「……そうだけど。殺ったのは俺じゃない。その傷、どう見ても人間の仕業じゃないだろ? ここにいた魔族が――」
「街中に魔族がいるはずがあるか。適当なことを言うな」
「はあ」
やがて、寝台の遺体を改めていた男がライエンと宿の主人に向き直った。
「貴様らには、詰め所まで来てもらう」
「お、俺は店番しないと女房に怒られるから……」
涙目で渋る店の主人をライエンはまあまあと宥める。
「黙って行こう。傷の手当てぐらいはしてくれるさ、それから――」
「おい、無駄口叩いてないでさっさと来い」
男たちに囲まれて、ライエンと主人は宿を後にした。