3. 討伐者は友達が少ない
取り急ぎ屋根の穴だけ塞いでみたものの、屋根から一階までぶち抜いた大穴は、本職の大工に頼んで修理してもらう必要がありそうだった。
女の子も怪我はないようだったし、屋根の応急処置を済ませて大工の手配に行こうとしたライエンは、女将にむんずと捕まえられた。
「ほら、あっちで昼ご飯食ってきな。奢りだよ」
女将の逞しい親指がぐい、と指す先ではテーブルの上でスープが湯気を立てており、その前の椅子に女の子が所在なげに座っている。
「え。俺、宿壊しちゃったしそういう訳には」
「はあ? そういう訳もどういう訳も、若いのがご飯食べないでどうすんのさ!」
分厚い手でばんばんと背中を叩かれて席に座らされて、ライエンは諦めて蕪と根菜のスープとパンと格闘を始めた。
宿の酒場で出す料理にしては、しっかり味付けされていて美味い、とライエンは感心する。
女の子は、パンとスープを殲滅しているライエンに話しかけようとして、一度ためらって口を噤み、再度話しかけようとしてまた口を噤んだ。三度目に出した声は小さすぎて女の子自身にもほとんど聞こえず、四度目に勇気を出して今度こそ、
「あの――」
「ん?」
顔を上げたライエンは、女の子が食事にほとんど手を付けてないことに気がついて、
「蕪、嫌い?」
「――えっ? あ、べっ別に嫌いじゃないですけどっ」
「そ。美味しいよ」
テーブルの上の籠から最後のパンを取って、再びスープとパンに戻ったライエンを見て、女の子は泣きそうな顔をして、ちょっと唇を噛んで鼻をすすり、ぐいと背筋を伸ばして自分を奮い立たせて思い切って、
「あのっ、ごめんなさい!」
「――?」
不思議そうな顔をするライエンに、女の子は生真面目な表情で、身を乗り出して小さな手をぎゅっと握りしめて、
「わたしがいきなり声を掛けたりしなかったら、お兄さんも壁から落っこちなかったし、女将さんにも迷惑を掛けなかったからっ、ごめんなさい」
「あー、何度目だっけそれ。もういいからさ」
「でも」
もういいって、と言おうとしたライエンの頭を、ぼすんと柔らかい物体が叩いた。ライエンが手で払うと、女将はライエンの頭をひっぱたくのに使ったパンの表面を払って、他の幾つかのパンと一緒に籠に入れた。
女将はライエンをむっつりと睨んだ後で、優しい顔をして、
「お孫さまは悪くないですよ。悪いのは、この変人怪奇かぶと虫男」
「俺、別に悪くないしむしろ被害者だしかぶと虫じゃないし。あとおばちゃん、食べ物で人を叩かない」
「誰が被害者だってんだい。そもそもアンタが壁登りなんて馬鹿なこと考えなかったら、何も起きなかったじゃないか。だいたい、いったい全体どこに鎧着て鉄板担いで壁登るお馬鹿がいるんだい」
「ここに一人いるんですけど。あと、べつにお馬鹿じゃな」
「なんだって?!」
「……何でもないです」
二人のやり取りを見た少女は少しおろおろして、
「お、お兄さんは悪くないです」
「ほーら、お孫ちゃんも言ってる」
「何がお孫ちゃんだい。お孫さまに失礼だろう」
「失礼っておばちゃん、こんな女の子に……」
そこでようやく、ライエンは気がついた。
「俺はライエン。君、名前は?」
「――あ」
女の子は、ちょっとびっくりした顔をした。綺麗な緑の瞳でライエンを見て、小さな声で、
「エ、エレナ、です」
「エレナか。よろしく」
「あ、はい。よろしくお願いしますっ」
ライエンが差し出した手を、エレナは伸び上がるようにして手を伸ばして、小さな両手で握った。柔らかな金髪を揺らして、頬を少し染めてふわりと微笑んだ。
「―――だから、食べちゃうんです」
「浄化するんじゃなくって?」
「うーん、浄めてるんですかね? 食べてるだけなんですけど。あ、パンおかわりくださいっ」
「はいどうぞ。でも、食べた瘴気は消えてなくなっちゃうんだよね? 少なくとも、俺の『業』は消えたし」
あの時、エレナを抱えたまま街壁から宿の屋根に跳び移るために、ライエンは体を強化する魔法を使った。魔法のお陰で、男ひとりと鎧と鉄板と女の子ひとりの重量を抱えたままで、街壁からこの宿屋まで跳ぶことができたのだが――。
魔法には、副作用がある。
正確には、魔法に必要な魔力を生み出す際に、有害な副産物がある。
魔力、それは光だ。光が生じれば、必ず闇も生じる。その闇は『瘴気』と呼ばれている。
瘴気は、触れた者に瘴気を生み出した人物固有の『業』と呼ばれる狂気をもたらす。
ライエンの『業』は短時間の激しい怒りの発作で、『憤怒』と呼ばれている。
通常であれば、『触媒』という道具で瘴気による汚染を避けられるのだが、今は手元にない。先程のように無防備に汚染され続けると、やがて本格的に気が狂う危険がある。
さらに汚染が進むと、人は闇墜ち――身も心も変質して魔族になる。なお、動物が瘴気に汚染されて墜ちたものは魔獣と呼ばれる。
そんな危険と隣り合わせの魔法を何故使うかといえば、魔法なしに闘うには、人類の敵――魔族は強すぎるからだ。
魔族は、たった一体で五人や一〇人、個体によっては一〇〇人もの兵士を一方的に蹂躙する力を持つ。そんな魔族に対して、魔法を使う者たち――討伐者と呼ばれる者たち――なら対等以上に闘うことができる。ライエンも、そんな討伐者の一人だ。
討伐者達は瘴気を生み出してしまうが、その量は世界に拡がる瘴気に比べれば微々たるものだ。
世界のかなりの広い範囲は、由来も知れぬ瘴気に覆われて、人が住めない領域となっている。人の歴史の始めからその領域は広がり続けており、今こうしている最中にも、人の世界は狭まり続けているという。
その危険な瘴気を、世界を侵し続けている穢れを浄めると言われている存在。
それが聖者と呼ばれる者の一族だ。
ライエンは聖者は瘴気を浄化するのだと聞いていたが、エレナによると実際には食べている……らしい。
「不思議だなぁ。食べるって、お腹の中に入るの?」
ライエンの言葉に、エレナは服の上から自分の腹を小さな手のひらでぺたぺたと叩いて、
「そう……ですね。食べるとしばらくはお腹が膨れた感じになります」
「へぇ。じゃあ、腹一杯になったりするんだ?」
「さっきぐらいのなら二、三回食べるとお腹いっぱいになっちゃいます。あ、実際にお腹が膨らむわけじゃないんですけど、気分的にお腹いっぱいでそれ以上食べたら気持ち悪くなりそうな感じなんです」
普段は、もうちょっと回数行けるんですけど、とエレナは心なしか縮こまってライエンを上目遣いに見た。
「俺の瘴気は結構濃いらしいから、腹一杯になりやすいのかもね」
「なるほどーっ、そうなんですね!」
ちょっとピリっとして辛かったです、というエレナとふたりして笑う。
エレナが自分の力に気が付いたのは、三ヶ月ほど前のことだという。
当時はラストル近くの修道院に預けられていたのだが、ある朝目が覚めて、自分の中に何かの力が目覚めたことに気がついた。しばらくはただの気のせいだと思っていたけれど、あるとき思い切って修道院長に話して色々と調べてもらった結果、聖者の力に目覚めていることを知った、と。
「それからはもう、大騒ぎでした」
エレナの屈託のない笑顔を見て、それはそうだろう、とライエンは思う。
これまで聖者の力は男系で遺伝するものだとばかり考えられていたので、聖者の娘たちは軽んじられていた。女の聖者はこれまで記録が存在しておらず、エレナは、歴史上初めて見つかった女の聖者――あるいはそれに近い何かだ。聖教会が放っておくはずがない。
エレナは、緑の瞳に年齢に似合わぬ疲れたような色を浮かべて、ぽつりぽつりと呟く。
「聖都からのお迎えを待つ間、安全のため、ってこの街のお屋敷に移されたんですけれど、いつも側で誰かが見張ってて」
あれも駄目これも駄目。朝から晩までお孫さまおはようございますお孫さま危ないですよお孫さまお時間ですお孫さまご機嫌いかがですかお孫さまお休みなさいお孫さまお孫さまお孫さまお孫さま。
お孫さまって誰? わたしは、ただのエレナなのに。みんな、誰か違う人みたいにわたしのことを見て、友だちにも会えなくなって。
「――ちょっとだけ、疲れちゃいました」
ライエンが声を掛けかねていると、エレナはすぐにぱっと表情に明るさを取り戻して、
「なーんて、一度言ってみたかっただけですっ。ほら、お城の暮らしに飽きた物語のお姫様みたいな台詞って、女の子の憧れですから」
ぺろっと舌を出して、エレナはいたずらっぽく笑った。
ライエンは手を伸ばして、エレナの柔らかい髪をくしゃくしゃにした。
「ちょっと、何するんですかもう。女の子の髪に触るなんて失礼です!」
エレナはぷぅ、とふくれてライエンをにらみ付ける。手ぐしでせっせと髪を整えるエレナにライエンは笑いかけて、
「だから、街壁の上に来てたんだ?」
「え? あ、そうです。息苦しいお屋敷を抜け出して高い所から街を見下ろしてると、すっごく気持ちよくって。風がぶわーって吹いて、鳥がばーって飛んで、壁の外では丘の上の木や草がざわわーってなびいて。判ります?」
「ああ、わかるわかる」
身振りを交えて子供っぽい表現をするエレナが微笑ましくて、ライエンは頬を緩ませる。
「俺、ここしばらく暇でさ。街壁の外走るのにも飽きたから、ああして壁を登ってたんだよ。壁の上、気持ちいいよね。登るの楽しいし」
「ですよね……って、壁登るのって楽しいんですか?」
「そこそこ楽しいよ? 指先や足先に集中して全身を動かす感覚が心地良いし、いい鍛錬になるし。エレナも登ってみる?」
「え、遠慮しておきます」
「それは残念。まあ、俺はまだしばらくは壁登ったり、壁の上で暇つぶしてたりするだろうから、エレナが壁の上に来た時は雑談ぐらい付き合うよ」
「……まあ、ライエンさんが暇で暇で仕方ないというなら、お話に付き合ってあげても良いですけど」
エレナは目を伏せた。澄ました顔を取り繕っているが、頬が緩んでいて喜んでいるのが丸わかりだ。嬉しそうな顔を見せまいと精一杯の努力をする姿が微笑ましくて、ライエンは暖かい気持ちになる。
ふと、何かを思いついたように、エレナがライエンを見た。
じっーっとライエンの顔を見つめたかと思うと、急に無邪気な笑顔を向けて、
「もしかして、ライエンさんって友達いないんですか?」
ぐさり。
「そ、そんなことないぞ。一人の方が修行が捗るから一人でいることが多いけどさ」
「無理しなくってもいいんですよ?」
「べ、別に無理してないし」
「そういえば、討伐者の人たちって他の人たちから怖がられてるから、討伐者の人たち以外の友達少なそうですよね」
「おいやめろ」
「それに、討伐者の人たち、みんな遠征で街を離れたって聞きましたよ? ライエンさんもしかして当分ひとりぼっ…」
「お願いやめて」
エレナの口元を押さえて言葉を遮ると、可哀想な人を見る目で見られた。
仕切り直し。
「本当は、屋敷を抜け出すのはあまりお勧めしないんだけどさ。もし屋敷を抜け出すなら、俺と一緒にいた方がいいと思う。少なくとも、その辺の護衛より役に立つし」
「ライエンさんの寂しさも紛らわせますしね」
「俺と居ても大して楽しいことはないと思うけど、話相手くらいにはなるからさ」
「わたしは優しいから、可哀想なライエンさんのために会ってあげますねっ」
「はいはい」
さすがに毎日抜け出すの問題があるだろうからと、明後日に城壁の上で会う約束をする。
聖都から迎えが来るのは二旬後、つまり十日ほど先らしいので、何事もなければ三、四回は会うことになるだろうか。
「おばちゃん、俺行くわ。ごちそうさま」
調理場から出てきた女将が、綺麗に空になった皿を見て満足げな笑みを浮かべた。
「うん、いい食べっぷりだ。ちゃんと修理代よろしく」
「あっ…わ、わたし食器下げます」
「あら、そんなのいいですよ。お孫さ――」
ふいに女将は言葉を切って、エレナを見た。
エレナは緑の瞳に生真面目な、縋り付くような表情を浮かべている。小さな体にはぎゅっと力が入っていて、何かを堪えて頑張ろうとしているような、拒まれること恐れているような様子だった。
女将は小さく息をついて、優しい表情を浮かべて、
「――わかった、じゃあこっちによろしく、エレナちゃん」
一瞬びっくりした顔をしたエレナは、ぱっと笑顔になって、はいっと元気よく返事をして皿とパン籠を調理場に運ぶ。
その後ろ姿を見送りながら、ライエンは女将と目顔でうなずきあった。
どうやら、この宿もあの子にとって気が休まる場所になってくれそうだ。壁の上で会った後はここに寄るのも良いかもしれない。ライエンはそう思いながら、すっとぼけた声で、
「おばちゃん、何か手伝って欲しいことがあるって言ってなかったか?」
「――ん? ああそうだね。ちょっと下ごしらえに手が欲しいんだけどねぇ。大食いなお客が、昨晩みんな食べちまったから」
「あっ、わたし何でもやりますっ!」
悪いおばさんにタダ働きさせられそうになったらちゃんと言えよー、とエレナに声を掛けて、うるさいとっと修理代持ってきな腐れ討伐者、という温かい声に背中を押されて、ライエンは宿を後にした。