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初恋の花束  作者: 細井雪
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前編




 朝の鐘が聞こえ、まだ覚めきらぬ頭のままベッドから起きる。

 無意識にあくびが零れた。

 それをかみ殺すこともなく、部屋の扉を開けて居間へ向かった。


「おはよう。ブライアン」


 その声に、一瞬で目が覚めた。

 そして朝から血の気が引いた。


 しまった。

 昨日は商談でつい飲みすぎた。


 そんな思いが沸き起こる。

 けれど、目の前の女性はそんなことお構いなしに、柔らかく微笑む。


「あまりお酒を飲みすぎてはダメよ」

「はい……。すみません……」


 心の中を読まれたかと思った。

 だが、そんなことを考えている場合ではない。

 彼女がいることも忘れて、まだ着替えてもいなかったのだ。

 対照的に彼女は亜麻色の髪を綺麗にまとめ、つま先まで隙がないくらいきちんと整えている。

 こんな顔も洗っていない姿では彼女に申し訳ない。

 慌てて戻ろうとしたブライアンを、優しい声音が呼び止めた。


「待って。ブライアン」


 彼女の声に足を止めてしまうのは、もう反射行動だ。

 振り返ろうとすると、細い手が伸びてきた。


「後ろ髪が、はねているわ」


 指先が近づく。

 まるで陶器に触れるようなたおやかな仕草。

 その手が、頭一つ分身長の高い後ろ髪をそっと撫でた。


「はい、もう大丈夫よ」


 目を細めて満足そうに微笑む優しい顔。

 まるで年下の少年の失敗を、慈愛に満ちた表情で見守っているような感覚を覚える。

 ブライアンは触れられた後頭部を手で押さえた。


「……着替えてきます。お嬢様」


 昔仕えていた家のお嬢様。

 今はもう仕えているわけでもなくて、もちろん特別な関係があるわけでもないが、上品で穏やかな大人の女性となったエヴァは、今でもブライアンの敬愛するお嬢様だ。







 きっかは、一ヶ月前に商談で出向いたときのことだった。

 相手は伯爵家で、無駄に大きな屋敷で話を終えて帰ろうとした時だった。

 広い庭の落ち葉をかき集めているメイドがいた。

 特に気にも留めず、通り過ぎようとした時だった。

 不意に見えたその横顔に、昔の記憶が思い起こされた。


「――エヴァお嬢様……?」


 呟いたその名前に、メイドが振り返った。

 ブライアンより幾分年上の容貌が、ゆっくりと表情を変える。


「ブライアン?」


 優しい声音は、ブライアンの記憶のままだった。


「まあ、久しぶりね、ブライアン。大きくなってしまって、一瞬誰だか分からなかったわ」


 記憶と同じ、柔らかい表情で微笑む。

 いや、あれから十五年もたっているのだ。

 ブライアンより確か七つ年上だったはずだが、あの頃の面影を残したまま大人っぽくなったその姿は、まさに大人の女性だった。


 十五年前――ブライアンがまだ八歳だった頃の記憶が蘇る。

 あの頃、両親を亡くしたブライアンは貴族の屋敷で庭師をしていた祖父の元へ引き取られた。

 そこの一人娘がエヴァで、早くに母親を亡くして父親に愛されて育った優しい彼女はブライアンをまるで弟のように可愛がった。

 それから一年もたたない内にブライアンの祖父が亡くなったため、ブライアンは親戚に引き取られることとなって屋敷を出たのが、最後に会った記憶だった。


 だが、いつも綺麗な服を着て静かに椅子に座って本を読んでいた彼女が、メイドのお仕着せを着てホウキを持っている姿に、違和感を覚える。


「エヴァお嬢様はなぜここに……?」

「あの少し後に父が急死して叔父が爵位を継いだから、私は家を出たの。今はこちらで働かせてもらっているわ」


 エヴァの父である当主が亡くなったことは、ブライアンも噂で知っていた。

 だが、エヴァはどこかに嫁いで幸せに暮らしていると思っていた。

 まさか何一つ不自由なく大切に育てられていた彼女が、お仕着せを着て働いているなんて、その姿を目の前にしても信じられなかった。


 そこからのブライアンの行動は早かった。

 今出てきた足ですぐに伯爵の元へ戻り、エヴァを引き取りたいと頼みこんだ。

 仕事では感情を出さずに切れ者と噂されるブライアンが切羽詰まったように頼み込む姿に、伯爵は含み笑いをしながら許可してくれた。







 そうして始まった二人の生活だった。

 だが、昔仕えていたお嬢様との生活は、思いの外ブライアンを落ち着かない気分にさせた。


「ブライアン。ハンカチにアイロンをかけておいたわ」


 四方をそろえて皺ひとつなく整えられたハンカチが差し出される。

 ブライアンはそれを受け取りながら、困惑した表情を隠しきれない。


 実業家として成功しているブライアンは、住み込みの使用人はいなかったが、家事をするために身元の保証された通いの家政婦を雇っている。

 家のことは家政婦に任せているので、エヴァがアイロンをする必要などないのだ。


「こんなことしなくても良いですよ」

「もう何年も働いているのよ。これくらいできるわ」

「けど、お嬢様にこんなことをして貰うわけにはいきません」


 ハンカチを差し出す手は細くたおやかだが、よく見れば指先は細かな傷があり、昔のような真っ白な肌ではない。

 裕福だった生活から働く身になったのだから、苦労もしたのだろう。

 なぜもっと早く気づけなかったのだろうと、ブライアンは自分を責めた。


「ねぇ、ブライアン。その呼び方は止めて欲しいの」

「呼び方?」

「もうお嬢様なんで呼ばれる歳じゃないのよ」


 エヴァは二十九歳だ。

 女性が就ける仕事が少ないこの国では結婚年齢は早く、もう嫁き遅れと言われている。

 まるで年若い少女のような、お嬢様という呼び方はいささか不自然だ。


「そう言っても、俺にとってはお嬢様はお嬢様です」


 けれど、ブライアンにとってはいくつになろうとも、今は仕えているわけでなくても、彼女がお嬢様であることには変わりなかった。

 実際、両親に大切に育てられた彼女は物静かな性格で、その唇から発せられる声は音楽の音色のように柔らかく耳に溶け、市井で働くようになっても損なわれることのなかった雰囲気は護りたいという気にさせる。


「こんなに立派になったのに、相変わらずなのね」


 エヴァは困ったような微笑みを浮かべ、ブライアンを見上げた。

 出会った頃はエヴァの方が高かった身長は、今では逆にブライアンが覗き込むようになっている。

 ブライアンはエヴァを見つめた。


「お嬢様のおかげです」

「私の……?」

「お嬢様が、俺に読み書きを教えてくださったからです」


 その言葉にエヴァは首を傾げる。


「それまで学校に通ったこともなかった俺は、お嬢様が教えてくださったおかげで上の学校にも推薦して貰えて、この仕事をすることもできました」


 国は識字率を上げようとしているけれど、平民が学校に通うことはまだ多くはない。

 まだ父親が健在だった頃には家庭教師がついていたエヴァは、自分が使った勉強道具などをブライアンに譲って教えてあげた。

 そのおかげだと言うブライアンに、エヴァは目を細めて微笑んだ。


「でも、頑張ったのはブライアンだわ。ブライアンの努力の成果よ」


 そう言ってエヴァは手を伸ばすと、ブライアンの頭を撫でた。

 まるで、彼女の前ではいまだ八歳だった頃のままのようだ。

 ブライアンは僅かに体を後退し、触れないようにしながらエヴァの手を離させた。


「……いけません、お嬢様。俺はもう成人した男です。こんな真似をしてはいけない」


 ブライアンがそう言うと、エヴァは僅かに目を見開いて丸くさせた。


「そうね。私ったらつい、あの頃のままでいてしまうのだから……」


 少し、寂しそうに目を伏せる。

 彼女にとってはあの頃の少年の方が良かったのだろうかと、ブライアンは子供の頃の自分に嫉妬するような思いだった。


「とても立派になったわね、ブライアン」


 まるで姉が弟を懐かしむような目で、ブライアンを見上げる。

 彼女はよくこんな視線をブライアンに向けた。

 母性のような、温かな眼差しだ。

 それを向けられるたびに、ブライアンは胸が苦しむのを感じた。









「――その後はいかがかな?」


 商談が終わり書類を鞄に戻そうとしたブライアンは、目の前の相手の言葉で手を止めた。

 顔を上げると、白い口髭を蓄えた貫禄のある男が視線を向けており、少し切れ悪い返事をした。


「その節は無理を言ってすみませんでした」

「いや、やり手と称される君が、あれほど感情のままに動くこともあるのだと、むしろ感心させられた」


 老齢にさしかかっている男は、白い口髭を揺らして笑った。

 この人物は、エヴァが一ヶ月前まで働いていた伯爵家の当主だ。

 伝統ある家柄で、貴族といえど働くようになってきたこの時代でも商売といったことはなかなか受け入れてくれなかったのだが、ブライアンがエヴァを引き取りたいと頼み込んでからはなぜか気を許して貰えるようになった。

 そのおかげで、何度も断られていた商談にも耳を貸してくれるようになったのだ。


「彼女のお父上とは生前に親交があってね、彼女が家から出されたと知って急いで探したんだよ」

「そうだったんですか……」


 エヴァがブライアンの屋敷に移るとき、まるで孫娘を見送るように気にかけていた姿を思い出す。


「彼女を働かせる気はなかったんだが思いの外、彼女は自立心があってね、働かずに世話にはなれないと言って自ら屋敷内の手伝いをして回り始めたんだ」

「それは……お察しします」


 苦笑いを浮かべる伯爵の苦労が想像できて、ブライアンは頷くしかできなかった。

 エヴァは大人しい深窓の令嬢に見せかけて意外と行動力がある。

 そうでなければ、庭師の孫でしかなかったブライアンと幼い頃に遊んだりはしなかっただろう。


「しかし、若い男女が同じ屋敷に住んでいることは、世間からあらぬ誤解を受けるだろう」


 伯爵は眉根を少し下げて、心配そうに見つめる。

 エヴァの世間的評価を気にかけているのだろう。


「分かっています……。私は、彼女に幸せになって欲しいんです。彼女に相応しい男を必ず見つけます」

「君はそれで良いのか……?」

「彼女の幸せが、私の幸せです」


 ブライアンの言葉に、伯爵は何か言いたげだな様子だったが、それ以上言葉を続けることはなかった。

 ブライアンは深く礼をしてから、屋敷を後にした。

 帰りの馬車の中でも、伯爵との会話が頭を巡った。


 エヴァと暮らすようになって一ヶ月。

 ブライアンはエヴァの結婚相手を探していた。

 彼女自身は結婚を気にしていない様子だが、この先のことを考えるとやはり良い結婚相手は必要だ。

 年の離れた男の後妻などとんでもない。

 頼りない若者でもだめだ。

 彼女には、全身全霊で守ってくれる、身分のある男でなければならない。

 エヴァが幸せになることがブライアンの願いだった。


 それなのに、考えるたびに胸の奥が小さな音を立てる。

 目を伏せると深く溜息を吐き、気分を変えようと職場へ戻る前に別のところへ立ち寄るべく、御者に合図をする。

 街の大通りにある店の前で馬車を下り店内へ入った。


「賑わっていますか?」

「ようこそお出でくださいました。ええ、この通りでございます」


 店主はブライアンを見ると笑顔で駆け寄った。

 この店はブライアンが手がけている店の一つで、服飾品を扱っていて型に囚われない新しさが人気を博しており、店主の言葉通り客が大勢いる様子を見ると仕事をする力が沸いてくる。

 店内を一周して商品の配置や新作のことなどを店主と話しあう。

 それが一息ついたとき、背後からブライアンにいくつもの声がかかった。


「ご機嫌よう、ブライアン様」

「まあ、ブライアン様。お久しぶりですわ」


 常連である若い女性達がブライアンを取り囲む。

 顔立ちも端正で若くして実業家として成功しているブライアンは、けっこう女性に人気がある。

 だがブライアンにとっては彼女達は顧客であり、一人を特別扱いしないように気を配りながら、笑顔で気の利いたお喋りを交わしてその場を後にした。

 店の扉を開けた時、ブライアンの耳に思いがけない声が届く。


「あら。ブライアン」


 顔を見なくてもすぐに分かる優しい声音。

 ブライアンが視線を向けた先には、通りを歩いていたエヴァの姿があった。


「お嬢様、こんなところでどうしたんですか?」

「買い物よ」

「買い物は通いの家政婦に任せているはずです」

「それとは別に、あなたの好きな物を作ろうと思ったの」


 エヴァは手に下げた買い物かごを示して微笑んだ。

 それを見てブライアンは唖然として言葉をなくす。

 嬉しい気持ちが少しあったのも事実だ。


「ありがとうございます。けれど、出歩く際は馬車を使ってください。あと、一人では危険ですから、俺が一緒の時か、護衛を手配しますので言ってください」

「近所だから大丈夫よ」


 街中の大通りの治安は悪くないが、女性が一人で歩いていると声をかけてくる男も多い。

 そんな心配などまるで理解していない様子のエヴァに、ブライアンは彼女の手から買い物かごを受け取った。


「送ります。――失礼、お嬢さん方」


 ブライアンは後ろについて来ていた女性達に会釈して、停めていた馬車へとエヴァを連れた。


「ブライアン。あなた、良いの?」

「自宅に寄る時間はあるので大丈夫です」


 先にエヴァを乗せて側に乗り込み、自宅に寄るよう指示を出す。


「あなた……」


 エヴァが小さな声で呟いた。

 けれど、ちょうど馬車が動き出した音と重なって、その声はブライアンの耳まで届かなかった。


「何か仰いましたか?」

「いいえ。何でもないわ」

「他にどこか寄る店はありますか?」

「大丈夫よ。もう買い終わったわ」


 先ほどエヴァの手から代わりに持った買い物かごは、未だブライアンの手の中にある。

 中には買った食材が入っている。


「ありがとう、ブライアン」


 エヴァが礼を言って微笑むと、ブライアンも笑った。

 そのすぐ後に、彼女が視線を戻すと何かを考えるように少し目を伏せたことに気づくこともなく――。





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