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旋灯奇談

旋灯奇談  第一話  ジャージーベンチ

作者: 東陣正則


   第一話  ジャージーベンチ

 

 都心の外れ、古い住宅地にある公営団地での出来事である。

 築五十年、四階建て十六棟の団地に隣接して、ふれあいパークと名づけられた公園がある。ウサギ小屋と揶揄される狭い間取りの公営住宅と違い、広々とした芝生の広場に植栽や遊具を配した小公園は、周辺住民の憩いの場であると同時に、広域避難所としての役目も果たしている。

 そのふれあいパーク。朝の太極拳のグループに始まり、日中の幼児連れのママさんや、お年寄り、日が傾いて以降は、塾帰りの学生に帰宅を急ぐサラリーマン、ウォーキングを楽しむ人たちと、深夜まで人の姿が絶えることがない。ただ東寄りの奥まった一画だけは、隣の天神様のオオクスの枝が張り出して昼なお暗く、夜も八時を過ぎるとパタリと人影が途絶える。

 

 クスノキの赤い新芽が青葉に変わり始める季節、時刻は夜の九時。

 団地北一号棟の住人、稲取一巳さん五十八歳が、ふれあいパーク中央の広場を足早に歩いていた。

 バブル崩壊のあおりで会社が倒産、週に三回夜勤のパートで口に糊する一巳さんは、忙しい妻に代わって家事をこなす。当然、ゴミ出しも一巳さんの担当である。屋根付き鍵付きの団地のゴミ置き場は、指定日の前夜からゴミ出しOK。そのため一巳さんは、夜仕事に向かう足でゴミを出すのを習慣にしていた。

 芝の張り替えを行ったばかりの広場は、今月一杯は立ち入りが禁止されている。一巳さんもそれは知っていたが、両手にゴミ袋を四つも提げていたこともあり、横着を決めて真新しい芝に足を踏み入れた。なにせゴミ置き場は広場を突っ切った先にある。

 人の目を避けるように俯き加減で歩く、その一巳さんが、広場の真ん中で足を止めた。

 広場を縁取るツツジの植え込みの先から、声高な話し声が聞こえる。

 オオクスの下に置かれたジャージーベンチの辺りからで、はっきり年配の女性とわかる声だ。一人は痰の絡んだようなしゃがれ声で、もう一人はやや細い丸みを帯びた声。あたり構わずといった大きな声でやりあっている。いったいどこの婆さんがこんな時間にと思ったが、電車の時間もあり、一巳さんは声の素性を確かめることなく、そのままゴミ置き場へと急いだ。

 

 翌日、稲取さんは妻の房枝さんに、昨夜耳にした声のことを話した。

 暇をもてあまし気味の夫と違い、妻の房枝さんは、訪問介護のヘルパーと化粧品のセールスの仕事を掛け持ちしながら、仕事の合間には、やれ編み物のサークルだ食事会だと、独楽ネズミのように忙しく家を出入りしている。

 壁の介護表のスケジュールを目で追いながら、房枝さんは夫の話を鼻先で受けると、夕食を掻き込み部屋を飛び出していった。

 なおジャージーベンチとは、四十年ほど前に町内の牛乳屋さんが団地に寄贈した木製のベンチのことで、ミルクのように真っ白な背もたれに、店の名前と茶色い牛の絵が描かれている。ミルクを絞る牛といえば白黒模様のホルスタインという時代に、野生的な茶色い毛並みのジャージー種の牛は、いかにも自然溢れる健康的なイメージを連想させて、売り上げにも大いに貢献したらしい。

 そのベンチ、幼い子どもたちはモーさんベンチと呼んでいたが、若いお母さんたちは、少し洒落てジャージーベンチと名付け、それが定着して今に至っている。かつては団地のなかに八脚ほど置かれていたが、痛んだものから順次撤去されて、今ではクスノキの下に一脚を残すだけとなっていた。やもすれば足がもげてしまいそうな危いベンチだが、団地内を散歩するお年寄りにとっては格好の足休めの場所、昼間はほとんどシルバーシートと化していた。

 さて……、夫の話を全く気に留めていなかった房枝さんが、一週間後に、もう一度その話を脳裏に蘇らせることになる。団地の編み物サークルでその話題が出たのだ。

 話を持ち出したのは、年子の姉妹を持つ若いお母さん。塾で帰りの遅くなった中学一年の長女が、自宅のある北二号棟に戻る途中、芝生広場を斜めに横断していて、声高に話す老女の声を耳にした。夜の十時過ぎということもあり、中学一年の少女としては、公園の隅の暗がりに足を運んでまで、声の正体を確かめようとは思わなかった。ただ帰宅後、気になったので、母親にはそのことを伝えた。

 その話に「うちのダンナも、先週似たようなことを話してたわ」と、房枝さんが、すかさず反応。夫へは頷き半分で済ましたが、実はちゃんと耳をそばだてていた。生え抜きの団地っ子である房枝さんにとって、団地内の出来事は些細なことでも話のタネ、聞き逃さない習慣が染み付いていた。

 娘さんの話では、声はジャージーベンチの辺りからだったという。

 サークルのメンバーが編み棒を動かす手を止め、姦しく喋り出した。

「歳を取って耳が遠くなると、声が大きくなるのよねえ」

「そうそう、うちのお爺ちゃんも、鼓膜が破れそうな声で話しかけてくるわ」 

「でもそんな時間に、お年寄りが、あの場所でお喋りなんかするかしら」

「二人ってことなら、ボケたおばあさんが出歩いてた訳じゃないよね」

「団地の人だとしたら、誰だろう……」

 テーブルを囲んだ一同の視線が房枝に注がれた。お年寄りに関しては、ヘルパーをしている房枝が一等詳しい。が皆の期待に反して房枝は首を振った。該当するお年よりが思い浮かばなかったのだ。古い公営団地らしく、住人は高齢化が進み独居老人もあまたきら星のごとく在居している。しかしここ長窪団地は人間関係が濃密で、未だに孤独死の老人を出していないのが、団地自治会の自慢になっている。

 それにと房枝は思う。先ほど誰かが指摘したように、年寄り同士その時間帯に茶飲み話をするなら、どちらかの家に上がりこんでする。新緑の季節とはいえ、夜はまだまだ冷える。むろん家族に聞かれたくない話をするために外でということも考えられるが、それなら団地の公園よりも表通りの喫茶店を使うだろう。だいたいが、声高に喋っていたというのなら、伏せる内容の話ではない。

 みなが編み物の手を休め茶菓子を頬張りつつ出した結論は、近所のお年寄りが、たまたまジャージーベンチに座って話をしていたのだろうという、月並みなところに落ち着いた。不審な声が男の声なら防犯上留意すべきかもしれないが、年寄りの女性なら心配することはない。老いた女性が犯罪の被害者になることはあっても、加害者になることはまずないからである。

 

 しかし、全く問題がなかったかといえば、そうでもない。

 ふれあいパーク寄りの北三号棟四階、山神さんの長男がその声を聞いていた。それも五週連続でだ。路上の音は、上の階の方が良く聞こえるもの。公園を見下ろす部屋で窓際に机を置き、受験勉強にいそしむ高校三年生の山神大輝君に、その声がしっかりと、いや煩いほどに届いていた。

 大輝君の話では、声が聞こえたのは五週共に木曜の夜。時間は九時から十時すぎ。夏場、団地の住人が、夕涼みがてらに、公園に出てお喋りをすることはよくある。だから大輝君も最初は聞き流して勉強を続けていたが、声高な喋り方のために、段々と耳に付くようになった。夜なんだから控え目に喋ってくれればいいのに、一体どこのお婆ちゃんだろうと、苛々し始めたところに、母親が夜食のラーメンを持ってきた。

 すかさず大輝君は「文句を言ってきてよ」と、母親に注文を付けた。

 耳を澄ますまでもなく、窓の外から耳障りな声が聞こえてくる。母親は急いで服を着替え外に出た。ところがその時には声も止み、オオクスの下にも人影らしきものは見当たらなかった。ただ教育ママを自認する山神さんは、息子の受験勉強に支障があってはならじと、すぐに団地の区長にメールで対処を申し入れた。

 実は山神さんから連絡を受けた時点で、すでに区長は編み物サークルの女性陣からその話を聞いていた。さらには、自分の孫からも……。

 近所のコンビニにお使いにいった区長の孫、小学四年生の裕貴君が、その話し声を耳にしていた。場所はやはりクスノキの枝の張り出した辺り。裕貴君がベンチに近づくとお喋りは止み、ベンチから離れると、また始まる。気味が悪くなって裕貴君は全力疾走で自宅へ逃げ帰った。日時を照らし合わせれば、裕貴君の耳にした声と、大輝君が窓越しに聞いた声は同じものだ。

 大輝君の証言からすれば、少なくとも五週に渡って、夜間、ジャージーベンチの辺りで、年配の女性が話し込んでいたことになる。

 声はすれど姿はなし、なんとも不可解な出来事である。

 相談を受けた区長は、翌朝一番にジャージーベンチに足を運んだ。

 不審なものは見当たらなかったが、区長は太極拳に勤しむ老人会の面々の袖を引くと、相談があるといって集会所に誘った。そして朝のお茶を飲みながら今回の不審な声の一件を説明、協力を仰いだ。

 現在老人会は、夜間に有志で防犯パトロールを行なっている。その夜回りのメンバーに公園に張り込んでもらい、声の正体を確かようというのだ。

 

 そして翌週、声が聞こえるという木曜の夜九時。

 いつもの夜回りのメンバー五人に加えて、正副の区長、それにヘルパーの房枝さんと山神の奥さんが自治会の集会所に集合した。すでに一時間ほど前から、団地消防団の若手二人が、ふれあいパークの植え込みに潜んでベンチの様子を窺っている。不審な声が聞こえれば、すぐにケータイで連絡を寄越す手はずである。

 全員で現場を見張らなかったのは、もちろん人が大勢いると不審な声の主が現れない可能性があるからだ。

 集会所では、待機している面々が想像の翼を脹らませていた。姿無き声というのがイメージを刺激する。湯呑みで回される焼酎に、一同口も滑らか。

 張りのある大声で喋るのは、昔ガキ大将で鳴らした元デコトラ運転手のデンさんだ。

「天神様の墓地から幽霊たちが遠征してきてんじゃねえか。団地の出来る前、ここは竹やぶでよ、火の玉が右に左に飛んでたんだぜ」

 元経理マン、自治会書記のヒロさんが、持参したビデオを弄りながら相槌を打つ。

「幽霊かな、でも賑やかなバアさん幽霊じゃ、撮れても絵にならないし」

「幽霊なら映らないでしょう」

「そんなことより、団地の誰かをお迎えに来てんじゃねえか」

「なら、四号棟の海老原のダンナか、もしくは九号棟一階のユリ姉さん」

「あいや、ゆめゆめそのようなことを……」

 時代劇マニアの区長が芝居がかった声で合いの手を入れた時、その区長の目の前、テーブルに置いたケータイが、水戸黄門の着信音を鳴らした。

 見張りから通報、声が聞こえ始めたという。時刻は九時を五分回ったところだ。

 ツツジの植え込みからジャージーベンチまで、距離にして三十メートル。人影はないのに、はっきりと聞こえるという。明らかに二人分の声だが、事前に教えられていた声高な喋り方ではなく、抑えた話しぶりで、時々すすり泣くような音も混じるとのこと。いったいどこに声の主が……。

 待機していたメンバーは、互いの背を押すようにふれあいパークに急いだ。手には懐中電灯、ただし明かりはつけていない。足を忍ばせ、植え込みの側にいる見張り役の背中に張り付く。教えられるまでもなく、ベンチの方向で声がしている。タンの絡んだようなしゃがれた声と、やや細いおっとりとした声だ。散策路沿いの常夜灯の明かりが、クスノキの枝葉が落す深い闇のなかにも零れて、白いベンチを朧に浮かび上がらせている。

 ベンチに人の姿はない。

 気味悪そうに皆が様子を窺うなか、房枝さんが「あの声は」と、抑えた声を上げた。

「心当たりでも?」と、消防団の青年が振り向き聞く。

「ええ、でもまさか……」

 自慢の漱石髭を拳でしごき上げた区長が、気合を入れるように拳を振った。

「確かめよう。録音した音を流している可能性もある」

 区長に続いて全員が腰を上げる。とベンチの声が急に先細った。

「あらあら、団地の人たちに見つかってしまったようね」

「わたし、もう行かきゃ」

 喉を詰まらせたような音と共に、ベンチからの声は途切れた。

 静けさの戻ったジャージーベンチに、一斉に懐中電灯の明かりが向けられる。春にペンキを塗り直されたベンチが、黄色い光を鈍く反射。と薄暗い常夜灯の明かりでは気づかなかったものが、ベンチの座面に乗っていた。子供の拳大の物が二つ。

「やはり、いたずらじゃな。誰かが小型のスピーカーでも置いて……」

 幽霊の正体見たり枯れ尾花と言わんばかりのしたり顔でベンチに詰め寄った区長が、ピタリと足を止めた。威勢のいい元運転手のデンさん初め、後ろに続いた面々も、ベンチに顔を向けたまま唖然と目をしばたかせている。

 ベンチの上のもの、それは二個の入れ歯だった。

 入れ歯型のスピーカーなどではない。正真正銘口に入れる入れ歯である。形や歯並びからして、同じ人のものではなさそうだが、そのことよりも、一方は乾いているのに、もう一方は懐中電灯の黄色い光にヌラヌラと艶光りして、まるでいま口から取り出したばかりのもののように見える。

 恐る恐る顔を寄せる区長の目の前で、入れ歯がカチャとずれ動いた。

 とたん弾かれたように一同が後ずさる。その逃げ腰の面々を押しのけ、房枝さんが前へ。

 房枝さんはベンチの脇にしゃがみ込むと、濡れた入れ歯を手に取った。

「大丈夫かい、稲取さん」

 心配げな区長をよそに、房枝さんが品定めでもするかのように入れ歯に顔を寄せる。

 やがて房枝さんがブルブルと首を振った。

「まさか、そんなことって……。でもあの声、間違いないわ」

「どうしたのよ、房枝さん」

 片越しに覗き込む山神さんに、房枝さんがヒョイと入れ歯を差し上げた。

「これ、三原のお婆ちゃんの入れ歯よ、南一号棟十四号室の」

 訪問介護の仕事をしている房枝さんの担当に、長窪団地で一人暮らしをしている三原ハルさん、八十七歳がいる。近くに住まう娘さんが仕事の都合で顔を出せない日に限り、房枝さんが夕食のお世話をする。食事の後、房枝さんは、ハルさんの入れ歯を洗ってコップの中の水に浸ける。もう丸一年も続けていることだから見間違うことはない。今日も夕食を終えた後、洗って水に浸けておいたのだ。

 そのことを房枝さんは自分を取り囲む区長や夜回りのメンバーに説明した。

 房枝さんが嘘をつく必要はないし、事の真偽は三原さんちを訪ねれば分かる。確かめて来ようと、区長は房枝さんの肩を叩いた。

 入れ歯の件を確認したらケータイで連絡を入れるからと言い置き、区長は房枝さんと小走りに南一号棟に向かった。

 十四号室のドアを、房枝さんが預かっている合鍵で開ける。

 夜の早い三原ハルさんは、食後に一時間ほどテレビを見ると、直ぐに眠ってしまう。果たして天井の明かりは豆球だけ。薄暗い台所の隣、六畳の居間で、ハルさんはベッドに横になっていた。起こさないように房枝さんがそっと部屋に入り、ベッド脇のワゴンの上、入れ歯専用にしてあるガラスのコップを確かめる。もちろん入れ歯は入っていなかった。後ろから区長もコップを覗き込む。

 房枝さんは区長に目配せをすると、手にした入れ歯をコップの中に沈めた。

 そして二人が抜き足でその場を立ち去ろうとした時、タンの絡んだしわがれ声が二人を呼び止めた。

「ゴメンナサイね、わざわざ持ってきてもらって」

 ベッドの上から……、ハルさんだった。

「ごめんなさい、起こしましたか」

「いいの起きてたんですよ、とても寝ていられなくてね。それより、お漏らしの徳三郎くん、彼女の入れ歯は持ってきてくれた」

「ちょっと三原先生、お漏らしは止めてください、もう六十年も前のことですよ」

 徳三郎とは、区長の下の名である。

 区長が小学二年生の時の担任が、三原ハル先生。あれから半世紀、学校でお漏らしをして先生にパンツを代えて貰った区長も仕事を引退。担任の三原先生自身も、誰かにお漏らしの世話をされる老境に入った。

 咳払いをしつつ区長が、ハンカチで包んだもう一つの入れ歯をジャケットの懐から取り出した。区長の横で、房枝がハルさんに尋ねた。

「彼女って誰のことですか」

「アキちゃんよ、あなたも知っているでしょ」

 介護用のベッドから体を起こしたハルさんに、区長がハンカチに乗せた入れ歯を手渡す。ハルさんは、その入れ歯を両手で押し頂くと、愛おしそうに頬を寄せた。


 区長は皆の待つ集会所に戻ったが、房枝は三原さんの側に残った。ハルさんが急に体を震わせ涙を流し始めたのを見て心配したのだ。

 戻ってきた区長を取り囲み、皆がどうでしたかと顔色を窺う。

 区長は緊張が解けたように椅子に腰を落とすと、二つの入れ歯が、それぞれ三原さんと、その友人の女性ものであったことを告げた。そして「おそらくは……」と前置きの上で、今回の出来事のあらましを語った。

 三原ハルさんが、出産を期に長窪団地に住まうようになったのは、今から五十年近くも前のことになる。団地内には子育て真最中の家庭が多く、友だちもたくさんできた。中でも郷里が一緒の岩下アキさんとは、家族同様の付き合いをすることに。社交的で気風のいいハルさんと、少し内気でおっとりとしたアキさんは、いいコンビだった。二人は一緒に子育てをし、一緒に子供の成人を祝い、一緒に孫を抱いて、そしてダンナを看取った。一人暮らしとなってからは、互いの家を行き来する毎日である。しかし時の流れは確実に二人の上に老いを刻む。

 四年前、リュウマチを患っていたアキさんが息子のいる隣の市に引っ越すも、老いて尚かくしゃくとしたハルさんが、岩下さんの家に遊びに行く形で交流は続いた。会えない日は電話のやり取りである。

 ところが、その元気な三原さんも、ついに昨年からは腰を痛めてベッドに寝たきりになってしまう。そして困ったことが起きた。タイミングを合わせたように、アキさんがリュウマチの薬の副作用で、極度の難聴に陥ってしまったのだ。補聴器を付けても会話が成り立ち難く、もとより電話での会話は不可能。

 会うことも話すこともままならない。仕方なく手紙を書くが、毎日声を聞いていた人と喋れなくなるのは辛いものだ。

 三原さんはまだしも、元来が気の弱いアキさんは生きる気力をなくし、げっそりと痩せてしまった。このままでは早晩お迎えが来るに違いない。でもその前に、もう一度、会って思い切りお喋りがしたい。そうアキさんは願った。

 区長が皆に目配せをした。

「その願いが、あるものに乗り移ったんだな……」

「それって、もしかして入れ歯ってことですか」

 信じられないとばかりに首を振る男性陣の横で、山神さんが顔を強張らせた。

「嘘でしょ、動くことの出来ない二人の代わって、入れ歯が会って喋ってたなんて」

「信じるもなにも、そうだったんだから仕方ないだろう」

 区長が突っぱねるように声を高めた。


 みなが唖然として区長の説明に聞き入っている頃、南棟の十四号室では、昂ぶった気持ちが落ち着いてきたのか、三原さんが房枝の入れたお茶を手にしていた。

 一口二口と茶を啜ると、気丈な三原さんが、しんみりとそのことを口にした。

「アキちゃんがね、いってしまったの」

「いったって?」

「あちらの世界へですよ。さっきはね、彼女が最後のお別れを言いに来てくれてたの」

 絶句する房枝の前で、友人の入れ歯を頬に当てたハルさんが、しみじみと呟く。

「アキちゃんとは、いっぱいお喋りをしたよね。ほんとにいっぱい、ありがとう」

 

 翌日、三原ハルさんのもとに、岩下さんの親族からアキさんの訃報が届いた。

 やはりアキさんが亡くなったのは本当のことだった。もちろん、どうやって入れ歯がベンチの所に赴いたのか、どうやって声を出して喋ったのかは謎である。でも老いた仲良しが、最後に別れの気持ちを互いの入れ歯に託したことは事実だ。

 体の状態もあって、三原さんは弔電を送るだけで、葬儀には参列しなかった。

 代わりに房枝さんと区長が長窪団地を代表して葬儀に足を運ぶ。

 告別式の後、区長が持参したアキさんのものと思われる入れ歯を親族に返却し、かつ、この間団地で起きた不思議な出来事を伝えた。遺族の人たちは、祖母アキと三原さんの親交のことを十分すぎるほど理解していたので、さもありなんと頷いてくれた。

 その遺族の方たちの反応を確かめた上で、区長が、三原さんからの『たってのお願い』を先方の家族に伝えた。

 それは、三原ハルさんの入れ歯と岩下アキさんの入れ歯を、一緒に骨壷の中に納めて貰えないかということだ。ずっと未来永劫というのではない。遠からず三原さん自身も鬼籍の門を潜る。それまでの間でいいのでと。ハルさん曰く、引っ込み思案のアキちゃんは、あちらの世界に行ってもなかなか友だちを作れないでしょうから、仲良しの私が行くまで、お墓の中で話し相手に困らないように、とだ。

 遺族は面食らい、そしてしばらく後、にこやかに頷いた。

 話を聞いていた曾孫の女の子が、大人たちの気持ちを代弁するように口を挟んだ。

「あの二人さ、耳が遠くて大声で喋るから、きっと墓参りの人が腰を抜かすよ」

 大人たちが、思わず吹き出す。

 その瞬間、二つの入れ歯が小さくクシャミをしたという。


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