少女トリー奇譚
「すみません、ギルド登録したいんですけど……」
時は乱世、数多くの猛者が暴れ竜討伐にその身を散らし、絢爛豪華な王宮では誇り高き志を持った騎士が己の剣に唯一無二の王への忠誠を誓う。異国の地を踏み鳴らし、お宝目指して縦横無尽に駆け回る冒険者達に襲いかかるは魔王の手先。天使と悪魔が諍いを起こせば海は荒れ、大地は揺れ、天は裂ける。牧歌的な城下町の裏で金貨銀貨が飛び交い果ては人の身その命までも競りに出されて買い叩かれる。野獣を追い出そうとするのは毛無し猿、神が誤ったかはたまたそれさえも世界の秩序か、人と獣の混合種、不死身の血肉のマーメイド、言語を操る動物に、小人、ホビット、森の民。石炭から黄金を、家畜からキメラを、子どもの小遣いで足る材料からホムンクルスを、幾多の人間の生命から賢者の石を創り出そうとする錬金術士にエレメントから奇跡を繰り出す魔法使い。坊ちゃん嬢ちゃん寄っといで、魔法学園従騎士学校の創立だ。
そんな世界では、塵にも等しく、何よりも尊い、たった一人の少女の話。
少女の名前はトリー。つい数日前に16歳になったヒヨッコもヒヨッコ、新米冒険者だ。15歳までの義務教育をヴィッテンデル帝国立魔法学園にて修業し、幼き頃より胸に抱きし宿望を今果さんとして少女は冒険者ギルドの扉の前に立つ。少女の父の、そして母の背を見て大過なく育ってきた彼女に冒険者以外の道は無い。もしあるとするならば、それは志半ばにして倒れた少女の屍である。膝裏にグッと力を込め、キィ、と金具の軋む音と共に、冒険者ギルド――ギルド名を【隠れ家の猫】と言う――へ足を踏み入れた。
そして話は冒頭へ戻る。
ギルドとは、元は専門職毎に作られた労働組合であったが、師弟関係による派閥が増え、また冒険者や医療関係者達などは世界を股にかけて活動するため、本部への連絡を怠らぬよう各地に情報経由可能な支部が設けられ、数がここ数十年で爆発的に増えた世界各国至る所にある商業施設である。酒場や賭博場と併設する所も多くあり民草の娯楽施設に近い。ただし、利用可能であるのはギルドメンバーのみに限られるため、農業や漁業、自営業などの人々、つまり一般人はギルドにあまり立ち寄ることはない。彼等は主に便利屋仕事を請け負う冒険者ギルドへの依頼程度でしかギルドに来ない。冒険者のような特殊な職業に就かない彼等はギルドのような大規模なものでなくその地域だけでの労働者の交流を主とした労働組合を形成している。
要は、ギルドを介さず冒険職に就こうというのは甚だおこがましいと言う訳だ。更に言えば、冒険者の中でも職種は様々、例えば剣士や魔道士と言った王道から呪術士に霊媒師とマイナーなものまであり、またそれらの職種につきFから登ってE、D、C、B、Aランクまでの格付けがなされる。Aランクの更に上、幻と呼ばれるSランクも存在しているが、世界に片手の指の数程もそのランクに至った者はいない。
ギルドメンバーに配布されるライセンスカードには個々の登録名、年齢、生年月日、登録日時、そして職種とランク、本人の顔写真が記載される。このカードが身分証明証となりこれを持っていることによって真の冒険者であると社会的に認められるのだ。うら若き少女トリーが、否が応でもギルド登録をするのはこのためだった。
受付嬢に手数料及び登録料を支払い、手ほどきを受けながらトリーはライセンスカードの発行を行った。職種は魔道士、サブクラス(副職業)は解呪士、それぞれFランクからスタート。年齢生年月日と登録日時に不備がないことを確認して、トリーの顔写真を載せたそのカードを大切に懐に仕舞いこんだ。そんなビギナーを微笑ましく眺めていた受付嬢が口を開いた。
「パーティー申請はどうなさいますか?」
「パーティー?」
「他の冒険者の方達と共に行動しダンジョンを攻略することも出来ますよ」
「そうなんですか」
トリーとしても実践経験は学校の課外授業程度と無いに等しいものであるため、仲間がいれば心強いのだが、このような初心者では相手にしてくれる事がないように思う。
そのような不安が顔に出ていたのか、受付嬢はもう一つ提案をした。
「もし他のギルドメンバーとパーティーを組めない等の不安がお有りでしたら奴隷を買って登録する事も可能ですよ」
「なるほど。考えてみます」
「はい。また何か御座いましたらお気軽にお申し付けください」
受付嬢に礼を済ますとトリーはギルドを出て向かいの店に足を向けた。奴隷商だった。
トリーは元々奴隷というものに抵抗がない。両親の仲間も元奴隷であったし、学園でも貴族の子達は召使いや使い魔として奴隷を連れ歩く者は多かった。奴隷とは生きた財産である。扱い方は人それぞれだがトリーの中の奴隷とは家族の一員となるものに近かった。
ガランガランと扉がベルを鳴らし、店内の目が入り口に集中し、すぐに霧散した。
「……いらっしゃい、冒険者のお嬢ちゃんはどんな奴隷がお望みかな?」
やたら落ち窪んだ目の店主が静かな声を響かせる。少し騒々しい店内でもトリーの耳にするりとよく馴染んだ。カウンターへ寄ってトリーは希望の人材像を伝える。
「ええと、物理特化の種族が良いです」
「ほうほう、それじゃあ獣がいい」
楽しげな店主の声に、トリーの頭には四足歩行の犬が浮かんだ。出来れば意思疎通がしたい。
「けもの」
「そう、野蛮な獣人さ」
「ああ、獣人。良いですね、強くて格好良い」
少女の言葉に店主は奇妙な顔をした。二足歩行をする獣に何を言っているのかこの小娘は、と彼は思う。彼の考え方は至極当然であった。トリーは少し特殊である。
ひとまず店主はトリーを地下へと案内した。彼らが先程までいた場所は一階で愛玩動物、使い魔を主に取り扱っており、地下はさらに大きな部屋で様々な種族を並べている。獣人に魚人、エルフに人間と様々だが、少女にとって真っ先に目に飛び込んできたのは一人の獣人の男であった。カチリ、と確かに目があった。トリーは店主の声で振り向いた。
「この中にお嬢ちゃんのお眼鏡に叶うのがいたらいいがね。……おや珍しい」
「どうしたんですか」
「いやね、あの男、片腕の獣人がいるんだが、あいつは中々売れなくてね。あまり前に出てくることもなかったんだが、今日はどうしたことだか。」
店主が指差した方を見ると、つい先程目のあった男その人であった。確かに店主の言う通り彼の左腕は肘上から下が綺麗に無くなっている。ちなみに、この店での前と言うのは売り者として客の目につく地下一階にいる事で、他の者達は地下二階で店主に呼ばれるか自ら行くかのどちらかを決めるまで待機している。衣食住完全完備のこの店から出たくない者も稀におり、十年間ずっと居座り続けた猛者もいるそうだ。店主の信条は、『来た時よりも、美しく』である。そこはかとない意味の履き違えが伺える。
「彼は強そうですね」
「気になるかい?」
店主の言葉にコクリと頷くと、彼の誘導に従い隻腕の男の近くまで行くことになった。
立っている男は近づいてみるとよく分かるが、随分と上背のある男だった。
「この辺りが獣人ブースさ。まあどいつも人間よりは強いが、一番火力があるのはこの男」
そう言って店主は隻腕の男を手で指し示す。しかし、と言う。
「なんてったって片腕がない。冒険者にゃオススメしねえな」
そして次々と他の獣人の説明も始め、隣にいたエルフやセイレーンについても話し出した。
「こいつは獣人だがあんまり獣要素もない」
「エルフは総じて見目麗しいもんだ、力のある者もいる」
「お嬢ちゃんだし男と二人旅ってのもなんだろう」
店主の言葉にトリーはへえ、はあ、など気のない返事しか返さなかった。
「うーん」
「決まったかい?」
「そうですね、じゃあ、彼で」
トリーの指す方向を見ると店主は嬉しそうに声を上げた。
「おっ、いいじゃないか。銀のエルフとは見る目があるな」
「あ、そっちじゃなくて」
「……あいつ、かい?」
「はい」
結局、トリーが金貨5枚飛んで銀貨30枚支払い選んだのは隻腕の男だった。終始店主は複雑な面持ちで顔に皺を寄せていたが、トリーと隻腕の男の気にする所ではなかった。きっちり耳そろえて店主に金を渡すと彼女は隻腕の男に向かって左手を伸ばした。目が、またカチリとあった。隻腕の男の鋭く、見た者に本能的な恐怖を与えるようかのような赤い双眸を、トリーはひと目で気に入った。綺麗だ、と思ったのだ。
「トリーと言います。よろしくお願いしますね」
「ヴィッツベルペニクス=メグカタルゴ=アヴェアドラ。カルタイだ」
まことの名を告げ、差し出された手を軽く握った。契約は完成した。
こうして、トリーの冒険者としての旅は始まる。
カルタイは困惑していた。
と言うのも、新しい雇い主のせいである。カルタイは獣人である。しなやかな猫の体を持ち、人の骨格をし、滑らかな漆黒の毛皮で肉体を覆い、突き出した鼻頭と大きな三角形の耳、ふくらはぎまで届く尾に立派な髭が彼の種族を如実に体現している。片腕は遠い昔に落としたが、一族を誇りに思う彼にとって自身の自慢の肉体であった。
獣人には多かれ少なかれ野生の勘なるものがあり、カルタイのそれはこれまで一度も外れたことがない。獣人というだけで人間に捕らえられ、奴隷と相成った彼はこれまで何十人と人の下を渡ってきた。見せしめに鞭打つ者、戦場へ送り続け高みの見物をする者、肉体を要求する者など様々な人間がいたが、ろくな人物は片手の指にも満たぬほどであった。しかし彼の勘が、今日売られるべきであると告げており、そうなるべくして出会ったのがその娘、トリーと名乗る少女だった。
そしてその勘の訳が、身を持って知った事が、彼の理解の範疇を超えていた。
カルタイという男は恐ろしく強い。それこそ一騎当千と言った具合で、背丈も七尺三寸(約2.2メートル)程の巨躯を赤兎馬も唸る速さをもって戦場を駆け回る。その姿はまさに鬼神の如き、魑魅魍魎を切り伏せ、猛る虎の様に、獲物を狙う獅子の様に、カルタイは全てを薙ぎ倒し屈服させるすべを持つ。だのに彼が人間に付き従い、屈辱を受け、奴隷という身分を享受しているのは、ひとえに彼の首に取り付けられた枷のせいにすぎない。
この枷の名を『護摩の灰の桎梏』。護摩の灰は盗人、桎梏は自由の束縛。
とある女神の話だ。どこにでもあるような愛憎劇で、ある男に恋をした女神が男と愛を誓い合い、その証として美しい剣を男に与えた。男はそれを持ち逃げし、悲しみに暮れた女神が男を追うとその剣で手を切られ、激怒した女神が男の首に呪いを科した。それが形になったものがこの枷だ。人間の手によって作られた粗悪品のレプリカの一つが彼の首に付けられていた。
一見するとただの白い陶器製の首輪であるが、術が施されており他者が登録することが出来る。登録したものへの絶対服従、直接的または間接的反逆行為の禁止というまるで奴隷のためにあつらえたかのような恐ろしい性能を持つこのアンティーク、違反未遂を起こそうものなら死に匹敵する痛みを伴う。女神の呪い故か、一度付けられたならばどうあっても取り外せはしない。王宮に仕える最高位の解呪士であれば、話は別だが。
それが、今は外されているのだ。
トリーとカルタイは奴隷商からトリーが数日前から間借りしている宿屋で足を休ませていた。出会った時から、真名を言い主従の契を一方的に交わした時から珍妙な少女だとは思っていたが、まさかここまでとは。眉目秀麗な他の奴隷ではなく、無骨で明らかに危険な自分を選び、無い腕をどうと言うわけでもなく、挙句の果て宿まで手を繋いで歩くという。宿に着いたら着いたで、一人部屋から二人部屋へと変更して奴隷にまともな寝床を用意する。カルタイにはトリーが何を考えているのか分からなかった。
トリーが話しかけ、カルタイが端的に答える。カルタイが思わぬ方向にトリーの情報が増えていく。目玉焼きには塩と胡椒だけだの、犬より猫派だのと言った、実にどうでもいい話である。後は、カルタイの容姿を褒める言葉だった。
眼の色などそう褒められたことがないので、どう反応していいか分からずカルタイは無表情を貫いた。そうか、ああ、などとしか言えず、彼にはどうにもトリーを上手く黙らせる返しが思いつかなかった。
そこで不意に気づいたようにトリーがカルタイの首を見ていった。
「それ、邪魔そうですね」
ちょっと待ってね、とそう言って彼女がカルタイに近づき、『護摩の灰の桎梏』に触れた。
キィン、と軽いが細く鋭い音がして、自由の枷は落ちていった。
「は、」
何が起こったのか分からなかった。ある意味、奴隷の自分と十数年間付き合ってきた彼にとってはアイデンティティの喪失であったのかもしれない。
「うわあ、酷い痕」
カルタイさんよく平気でしたね、と言われた気がしたがカルタイの大きな耳には届かない。焼け焦げた傷痕はそんじょそこらの魔術や科学技術を駆使してもすぐには治らないことが一目で見て取れる。トリーの専門は無属性魔法であり、治療を主とする光魔法にはめっぽう弱かった。医者に見せる他無いようだ。
「ど、うやって」
カルタイが漸く口を開いた。呆然として足元の枷と、トリーを交互に眺めている。
「ああ、言ってなかったかな。私結構解呪は得意なんだよ」
「得意……?」
得意で劣化版といえども神の呪いが解けるのかと小一時間ほど問い質したくなったカルタイだったが、トリーがあまりにも事の重大さを分かってない面構えをしているのでどうにかこうにか心の内に押し留めた。きっとこれは彼女にとって当たり前の事なのだろう。
「これは、絶対に外で使うな」
「うん? うん分かった。まあ、この先奴隷買う機会なんてそうないよ」
トリーがこれ程の解呪の能力を持っているとなれば国も奴隷商も黙っていない。こんな事が露見してしまえば暗殺闇討ち待ったなしだ。国家権力と言う名の泥沼に引きずり込まれてしまうかもしれないし、奴隷を開放する力があるとして不穏分子が働きかねない。
とりあえず、このとぼけた雇い主を、もう一度自由を与えてくれた人間を、守らなければならない。それこそが、カルタイ自身気づいていないだろうが、まさに庇護欲そのものであった。
「カルタイさんが私の初めてで唯一の仲間だね。これからよろしくお願いします」
「改めて、私はトリー=クルシュナ。魔導を志し、水を導き、茨を紡ぐ、まじないの女」
「己が名はヴィッツベルペニクス=メグカタルゴ=アヴェアドラ。獣と人の愛し子が子孫、誇り高き自由の民。トリー、お前の牙となり、刃となり、盾となろう。」
胸に手を当て、とんとんと2回打つ。そして相手の小指、中指、薬指、親指、人差し指の順に指を突き合わせて、手のひらを重ねる。縁の契であった。
こうして、カルタイという籠を開け放たれた獣の旅もまた、始まったのであった。
さて、トリーが仲間を得て数日余り、漸く生業に精を出す事になった。
無論カルタイもトリー同様ギルドライセンスを発行し、無事剣士の職に就いた。口を利いたこともない他のギルドメンバー達に奇異の目で見られたが、トリーは然程気にすることもなく、相棒がその様であったため、カルタイもまた姦しい毛無し猿共に目を向けることはなかった。余談ではあるが、何も奇異の目で見られているのはカルタイの片腕についてだけではなく、幼さの残る少女が口を開けばカルタイさんと強面の大猫男の名を呼び、どこへ行くにも彼の手を引いているからである。その事を当事者だけが気づいていないのだ。
ある日の夕暮れのことである。トリーとカルタイは市街地を漫歩して、ウンテル・デン・リンデンならぬ菩提樹の木がちらほらと植えられた街の大通りに差し掛かり、喧騒の音を耳にした。振り返ると小奇麗な服を着た青年と、つるりとした真っ白な仮面をつけた者が相対していて、青年のがなり声が響いている。野次馬根性を目にちらつかせたトリーが腕を引っ張るので、仕方なしにカルタイも歩を進めた。
「この役立たずが!」
まず、第一に耳に飛び込んできたのがそれだった。きらびやかな服を纏う青年は心底忌々しそうに顔を歪め、唾とともに罵詈雑言を吐き出しては、息をするように仮面を被る者を嬲る。時たますれ違う道行く人々もそれを見て眉をひそめては足早に立ち去って行く。
聞くに堪えない罵りを大声で喚く青年の脳足らずな言葉を拾い上げて鑑みるに、仮面の者は青年の従者らしい。先の会合で恥をかかされたらしく、青年は怒り猛っているようだ。
「貴様は今からクビだ! 精々野垂れ死なないようにするのだな」
まあその首輪がある限り不可能か、とそう言って下品に笑う。カルタイは確か十数人前の雇い主によく似たのがいたなと思い出す。確か、そうあの男の末路は敵国の子どもに刺されたのだったか。介錯をしていないので詳しくは知らないが、何十回と串刺しにされた、むごい死体と成り果てたのだったと聞く。
仮面の者をおまけとばかりに蹴り飛ばし、青年はフンと鼻息荒くこちらへ歩いて来る。どうやらお帰りのようだ。待ち構えている馬車が目の端に映った。
「いらないのですか」
「何?」
トリーが青年に声を掛けた。
「仮面の人、クビにするのなら私が貰ってもいいですか」
青年は突如話しかけてきた彼女を訝しげに見つめ、上から下までジロジロと不躾に見回した。次いで、嘲るように鼻で笑った。
「薄汚いこそ泥の小娘か。あの下賎な男とはお似合いだろうな、許可してやる」
「わあ、どうも」
この手の人種には反応しないに限る。トリーはそれを知っているくらいには聡明だった。
男が馬車に乗り込むのを見てから、いつの間にか消えたカルタイを呼ぶ。その瞬間どこからか降って出るように湧いた彼に、トリーの顔は引き攣った。
「なんで隠れていたの」
「絡まれると面倒だ」
「そっか」
トリーとカルタイはついに罅が入ってしまった仮面を見やる。二人がゆっくりと近づいても、蹲ったまま微動だにすることはなかった。
トリーが声を掛けて初めて白い面が動いた。
「拾ってくれるのか」
若い男の声だった。
「あなたが良ければ。野垂れ死ぬより良いと思うよ」
「いいや、私は死ねないのだ」
「不死身なの?」
少しばかり瞠目したトリーが聞くと、男は滔々と語り出した。
「あの男が命令をするのだ。何もするなと。しかし何もしなければ死んでしまう。私は死ねない躰であるが、それ故に、飢餓を感じる。痛みを感じる。寒さを感じる。生きているのだから当たり前なのだが、いずれ死ぬこともない躰であるために、逃れる事は出来ぬままだ。男の命令に背けば、心の臓を鷲掴みされ、肋骨を全て折られ、頭蓋骨に穴を開けられるような痛みを受ける。ああ、全て経験した事だから間違いはない。これからも逃れることは出来ないために、苦しい。男が登録を解除しないがために、私は今、呼吸さえも
許されない筈なのだが、男はあなたに言ったな。お似合いだ、許可すると。これで別の命令が下されたわけだ。嗚呼、なんと喜ばしいことだろう。けれども、男の登録は解除されていない。気まぐれに命令を下すだろう。いずれまたこの苦しみは訪れる。それまで暫し、どうか一時の休暇をくれないだろうか。どうか、拾ってくれないか」
仮面の男はトリーを仰いだ。カルタイも横目でトリーを見た。
トリーは特に気にしたことも無い様子で、随分軽く頷いた。スッとしゃがみ込んで、仮面の下へと手を伸ばした。
「うん、いいよ」
「トリー」
カルタイがたしなめるように名を呼ぶ。前に言ったことを忘れたのか、と赤い目が言っている。トリーは決してカルタイの言葉を忘れてなどいなかったが、蔑ろにしてしまうのは彼女のエゴであり優先順位の差であった。
「新しい仲間にとってお邪魔なものはのけてしまおう」
キィン、と音がした。
「私の名はコキュートデンセル=ノバ=ギュッツェルパンド。キューリエと呼んでくれ。ヒイラギの葉を共に結ぼう、イラクサの影を共に歩もう。これこそが、メビウスの輪から解き放たれた男、とこしえの放浪人、神の忌み子。あなたの影となり、あなたの知恵となろう。望むならば、永遠の血肉を捧げよう」
「キューリエさんはどんな顔をしているのかな」
「仮面の下が気になるかい?」
「それはもう。ね、カルタイさん」
「そうだな。興味はある」
昼下がり、ギルド【隠れ家の猫】で三人は談笑している。酒場といえども酒だけの店ではないこの場所に、人もまばらなこの時間帯は彼等のお気に入りだった。
順調に依頼もこなし、幾らか懐も温まってきたので折角だからお面を買いに行こうとトリーが言い出し、その帰りに立ち寄った。キューリエの新しく新調した仮面も、つるりとした真っ白な物で、罅の一つも今のところ見当たらない。面白いことに、キューリエのそれは顎の部分が外れるようになっており、口周りだけ出して食事に不便がないように作られていた。そのためトリーとカルタイは一度たりとも彼の素顔を見たことがなかった。
「顔は、確かそう、普通だった。しかし今は爛れてしまってね、見るも無残な姿と成り果てている。あの男にクビを切られたのも、男の友人たちが集まる席で、不慮の事故があり誤って仮面が外れてね、ご令嬢方に怯えられたからさ」
「それ、痛くないの」
「ふむ、この火傷が出来たのはうんと昔の話だからな、今じゃ痛いのか痛くないのかも分かるまいよ」
「神経が麻痺しているんじゃないのか」
「そうかもしれないなあ、それでも見たいかね?」
トリーはカルタイと顔を見合わせた。目と目で通じ合う事が出来た。
「見たい」
「見せてくれないか」
んふ、と少しばかりどころか大分嬉しそうにキューリエは笑った。
「それ程までに熱望なされるのであれば私とて吝かではないがね」
そう言って、仮面に手をかけた。
キューリエの顔の皮膚が外界の空気に触れた瞬間、そこかしこから小さな悲鳴が上がった。盗み聞きしていたギルドメンバーや受付嬢のものだった。
一方仲間の二人はというと、泰然として、むしろ身を乗り出して顔を覗き込んでくる。
「気持ち悪いだろう」
「気持ち悪くはないかな、首輪の痕よりずっといいよ」
「目は紫色だったのか」
「本当だ。キューリエさんのも綺麗だね」
「おや、それは、嬉しい」
仮面の彼、キューリエの冒険は、トリーとカルタイに出会った時から始まっている。
世界はようやく、輝く色を紡ぎだす。