意趣返し
半年ぶりの近衛師団の兵舎にアマーリエは目を細める。
懐かしい。王宮と繋ぐ花園も、お飾り程度に設けられた噴水も、重厚な鉄の門も。
夫と自分を巡り合わせてくれた、大切な場所。
この時間帯だと近衛騎士が鍛錬を重ねているだろう。門番の許可を得たアマーリエは、お付きの者と御者を馬車に待たせ、兵舎の裏回廊を目指す。
裏通路は近衛師団の一部しか知らない廊下だ。兵舎の玄関広間にかけられたタペストリーをめくり、長方形の縁取りがなされた壁を押せば、回転する。この回転扉の動きに合わせて身体を入れ込めば、あっという間に執務室へ続く裏階段に辿り着くのだ。執務室と資料室の道を何度も行き来していたアマーリエは、見かねたルーカスに最短ルートを教えてもらったのだ。
下手に表の通路を使って注目されるのは避けようと、アマーリエは周囲を見渡す。直後、
「おっ。アマーリエ」
聞き慣れた声がアマーリエを止めた。
痩せぎすの人影が広間の奥から、アマーリエに手を振っている。爽やかな好青年。アマーリエは両手を叩く。
「エルザール様」
夫の友人だ。
「びっくりしたじゃねーか。女がいるから」
駆け寄りかけたアマーリエを制し、男は悠然とした足取りで近づく。
健康的な肌に載る、固い筋肉。近衛師団で特に際立つ長身は、小柄なアマーリエの首を疲れさせる。
よくよく認識しているエルザールはさり気なく腰を屈めた。膝に両手を置き、アマーリエを眺める。
「久しぶり。痩せたか?」
「そうですか? たくさん食べているのですけど」
「今はどんだけ食ってもガキにもらわれるからな。しっかり摂れよ」
エルザールは優しい言葉をかけてくれる。彼だけじゃない、ここの人たちはいつもそうだ。近衛師団唯一の女性ということで、何かと気遣ってくれていた。
「それで? どうしたんだ? 身重なのにここまで来て」
「ええ。…………リシルド様に会いたくて」
本題を突きつけると、エルザールは苦笑した。鋭い彼にはお見通しだったらしい。
「子供の名前か?」
「! どうしてそれを!?」
話好きの夫である。秘密にしておきたい事情も、漏らしてしまったに違いない。
青ざめたアマーリエに、そこまで深刻な内容だったのか……とエルザールは顔を歪める。
「なんつーか…………すまんな」
エルザールは髪を掻いた。
「あいつ、ああいう奴だろ。まだ自分が悪いってことに気づいてないと思うんだ」
「いいんです。私も意地を張っていましたし」
アマーリエは首を横に振る。
これは夫婦の事情だ。エルザールが気に病む必要はない。
「私が名前をつけようと思うんです。そう言いに行きます」
争いはできるだけ早くに治めた方がいい。ようやくそんな気が湧いたのに、夜まで引きずるのは嫌だ。
「それでいいのか?」
「……………仕方ありませんもの」
夫にその気が湧かないなら、無理強いしても無駄だ。
「そりゃあ夫婦円満の秘訣は妥協だろうがよ」
エルザールが喉を唸らす。納得がいかないようだ。
顎に手を当て、考え込む。
「…………そうだっ。だったらこうしようぜ」
指をパチっと弾いて、エルザールは白い歯を煌めかせた。
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「それで私につけてもらいたいと」
「すみません……」
まだ膨らみの目立たぬお腹を撫でさすり、アマーリエは縮む。
申し訳なさそうにうつむく彼女を、ルーカスは穏やかになだめる。
「いいよ。時間はまだあるし」
あの面倒臭がりな旦那によれば、妊娠して4ヶ月といったところらしい。
「本当に私がつけていいのかな? 君たちの子供なのに」
「お願いします。あの人は、私が決めたならそれでいいと仰いました」
「そういう意味で言ったわけじゃなさそうだけど……」
夫が夫なら妻も妻だ。突飛な行動を思い立つ。まさか無関係の人間に、名付け親になってほしいとは。
「男の子か女の子か分からないから、2人分の名前を考えないとね。何がいいだろうか」
ぱちぱちと目をまたたかせ、ルーカスは首を傾げる。
「流行りの名前がいいかな。あ、でも名家の令嬢が母君なんだから、古風でも伝統のある名前の方がいいかな。…………どうしようか……」
さきほどまで友人夫婦の仲を案じていたとは思いがたい調子である。
「名前を考えるのって楽しいものなんだね」
「そうですか?」
「生まれてくる子供を早く呼びたいってワクワクする」
ルーカスは乗り気だ。対照的にアマーリエの心持ちは暗くなる。
「…………あの人は、そう思って下さっているのでしょうか」
子供好きな夫ならば、産まれても邪険にせず愛してくれるだろう。けれどそれは父親として――――なのか。
ルーカスは答えず、組んだ指に頬を預けて彼女を見守る。アマーリエが窺うと、はぐらかすかのように相好を緩める。
生まれは庶民ということだが、どこかの貴公子と言い切っても遜色ない気品だ。しかも有能となれば、王家が重用するのももっともである。
「私が名づけるってことは、私がこの子の父親だね」
「…………え?」
頭が真っ白になる。
「本当の親はリシルドだけど、名前を決めるのが私なら愛着が湧くしね。あいつはああだから、いっそ後見人になるのもいいな」
「あ、あの。ルーカス様」
とんでもない方向へ話が発展しそうだ。アマーリエはあわあわと困惑する。その直後。
「――――許さないよ」
後ろから落ちた低い声音。アマーリエの肩が弾んだ。