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冷戦夫婦の名付け騒動  作者: 惟織
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ある意味、似た者同士



 めでたく結ばれても、リシルドの恋路には障害が乱立していた。


 格式高き男爵家の出自だからか、アマーリエの父親の野心は強かった。娘を宮廷に送り、大臣の花嫁かあわよくば王家の寵姫にと望んでいた。

 アテは外れ、アマーリエは一代貴族にすぎないルーカスに召し抱えられた。

 だけどもルーカスは元平民といえ近衛師団長。若手ながら、王家の信頼が厚く実力も国内随一。決して悪くない相手である。男爵は一縷(いちる)の望みを託した。

 その望みも虚しく、娘はどこぞの馬の骨に見初められ、恋に落ちた。若さが取り柄の青二才、うまみのない近衛師団の一騎士だ。貴族ならともかく、商家上がりの騎士とは。名誉を追い求める家には相応しくない。


 身分、名声、特権…………リシルドはすべてにおいて欠けていた。

 一旦は仲を裂かれそうになった。けれどルーカスの協力を借りて彼女に対する熱意を訴えたら、男爵も渋々認めてくれた。幸い見目(みめ)は恵まれているので、男爵家の飾りには申し分なかろうと。



 男爵も愛娘には弱いそうで、アマーリエが小さな命を宿したと伝え聞いた時は屋敷に押しかけた。そして彼女の傍を離れずに尽くす娘婿を見、多少なりとも認めてくれた。


 男爵の信頼を得るにはまだまだ努力が必要だ。リシルドの評価は屋敷の使用人が見定めているので、振る舞いには気をつけねばならないのだけども。


「はあ…………」


 この空気だと、男爵のはらわたまで煮えくり返っているのが容易に想像される。


 リシルドは1人の食事を済ませ、入浴のあと書斎にこもった。やることは睡眠。妻が寝室に入れてくれないのであれば、ここのソファで寝転ぶしかない。寝心地は至って悪いが。

 壁一面を分厚い書物の刺さる本棚で囲われ、真ん中あたりにポツンと置かれた書き物机と革のソファ。無駄にだだっ広い空間は、どこかうすら寒い。

 執事に押しつけられたブランケットを手に、リシルドはソファに腰を休める。


「どうしようかな……」


 初めての妻の不機嫌に、何も打つ手が思い浮かばぬリシルドであった。




********




 薄絹のカーテンを突き破って寝台にかぶさる、淡い朝日。うっすら黄色がかった光が、風にそよぐカーテンに合わせ、白い上掛けの上で揺らめく。


 つい数日前まで彼女の寝顔を眺めていた夫が、いない。大きな寝台。シーツに手を滑らせても、ぬくもりの残滓(ざんし)すら見つからない。

 アマーリエは唇を噛み締めた。うつむいた横顔に一筋の巻き毛が零れる。白い肌は彼女の感情に敏感で、今もすっきり整った頬を紅く色づかせている。長いまつ毛は焦げ茶の虹彩を色濃くし、儚げな艶を(たた)えている。乱れ気味の夜着も、しなやかな肢体がちらついて悩ましい。きっと、内なる迷いが彼女を困惑させているせいだろう。

 若干張りを帯びてきた腹部に手を当て、首を垂れる。


 夫が子供の誕生の日を待ちわびてくれているのは感じていた。


 懐妊のきざしが緩やかに現れ、医師に診てもらった日。嬉しさのあまり、帰ってきた夫にはしたなくも飛びつき、命の訪れを告げた夜。初め夫は呆けた顔をしていたけれど、しばらくして満面の笑みを咲かせた。アマーリエを抱き締め、見つめ、何度も口づけを注いでくれた。ありがとう、と。

 お礼を言うべきは彼女の方なのに。


 アマーリエ以上に夫は舞い上がっていた。近衛師団内に触れ回ったのか、毎日祝いの品が届けられたりして。

 『早く会いたい』とはしゃぐ彼に涙があふれた。


 自分の身に生命の息吹が実って間もない頃。アマーリエは不安で仕方がなかった。女性は妊娠すると変わってしまうとは教わったけれど、具体的にどうなるのかまで想像すらできなくて。


 周りにはたくさんの迷惑をかけた。今まで好きだったものがアマーリエに牙を剥いて、気分を悪くしたり、もどしたりもあった。これから自分はどうなってしまうのだろうと怖くなった反面、夫に嫌われないか悩んだ。

 けれど夫は彼女の不安を裏切り、かいがいしく世話を焼いてくれた。時折抱き寄せられ、手を握られて、優しい言葉をかけてもらった。この人に愛されて良かったと、どれほど幸せを噛み締めたことか。


 だからこそ同じ思いを持ってほしかったのだ。


「アマーリエ様」


 寝室の扉が叩かれた。乳母が気遣わしげに顔を覗かせる。侍女長の座も兼ねている乳母は、アマーリエが最も心を預ける女性だ。出産においても様々な手助けを得た、人生の先輩でもある。


「旦那様が話をしたいとのことですが…………どうです?」


 奥方の体調を刺激せぬよう、料理長が厳選した果物の盛り合わせと野菜スープの盆を携え、乳母は寝台のサイドテーブルに運ぶ。アマーリエは匂いの薄いスープに手を伸ばし、ゆっくりと口元で傾けた。

 素材の味を引き出した野菜の甘さが温かい。


「お考えは改められたようですか?」

「…………普段通りにあそばしておられます」

「そう……」


 目を伏せ、自分だけのものでなくなった身に、上掛けを引き寄せる。


「リシルド様は、」

「もう出て行かれました。ですから今夜くらいにでも、と」


 おそらく何も分かってないだろう夫の困り顔を思い描き、アマーリエは気を落とす。


 夫のアマーリエに対する接し方は、恋人として結ばれたばかりの頃と大差ない。子供のことは嬉しがっているけれど、自分がその子の父親であるという自覚が芽生えているようには、見えないでいた。


 名前を決めてもらおうと思いついた理由がそれだ。子供が生まれる前に実感してほしいのだ。


 出産して、元気な産声が上がったら、もう2人だけの生活は終わる。『家族』になる。その重い責任を、分かち合いたい。

 それに愛する人の血を引く子だ。夫に名づけられればと願う妻は、アマーリエに限らないはず。


 多くは望まない。

 名前だけ。


 夫には充分すぎるほど救われた。なのに『もっと』なんて贅沢だろう。――――でも、譲れない。


「どうしましょう……」


 つわりの余韻が尾を引いている奥方の目は、いまだ寝ぼけ(まなこ)だ。乳母は女主人のしどけない仕草にハラハラする。


「ですが、このままだと進展しませんよ。アマーリエ様も歩み寄りませんと」


 当初こそアマーリエの側に立っていた使用人は、今や彼女の説得にかかっている。屋敷の主たる新婚夫婦が火花を散らしていると、彼らもやりにくいのだ。彼女よりいくらか年上のくせに大人げない青年と比べたら、気心の知れた女主人に物申した方が早いと踏んだらしい。


「……私はリシルド様に名づけてもらいたいんです」


 折れたくない。

 しかし弱い主張は、乳母に言いくるめられる。


「ですが今は、顔を合わせて仲直りすることが先です。お子様のお名前は、そのあと折り合いをつけましょう」

「堂々巡りになりそうなのだけど……」

「いえ。これで旦那様もこりごりなはずです」


 最愛の奥様に二晩も避けられたのですもの。言うことを聞くでしょう。


 たった数ヶ月のやり取りでリシルドの人となりを見切った乳母は断言する。

 若い婿の、あの目も当てられない溺愛具合――――平気で愛されていた奥方も奥方だが――――を考えるに、一度距離を置かれたらこたえるだろう。


「そうかしら」

「そうですとも」


 力強く肯定し、乳母はアマーリエにオレンジを一切れ勧める。


「アマーリエ様も、寂しい思いをしておられるのでは?」


 本心を突かれ、アマーリエの(かす)んだ意識がハッと晴れる。乳母の唇が満足げに弧を描いた。


「妊娠中というのは心細いですわ。夫の支えがあってこそ乗り切れるというもの。旦那様の申し出もありましたし、こちらが負けたわけではございません。どうです? 今夜」


 乳母の言う通り、寂しい。声も姿も会わさなかった昨日、夫の心が飛び去っていったようだった。多分夫は苛立ったろう。

 今まで浴びていた愛情が深かった分、辛い。

 ほころびを直したいのは山々だ。


「怒っていらっしゃいますよね……」

「いえそんな。アマーリエ様からのお(こた)えがあるとなれば飛びつかれるでしょう」


 もはや屋敷の者たちは、リシルドを犬か幼い男の子と見なしている。


「そうですか……」


 乳母の言い分も一理ある。

 ひとつ考慮して、アマーリエは決めた。瞳に不敵の輝きがこもる。


「では今から参りましょう」

「…………へっ?」


 思わず素っ頓狂な声を上げる乳母。


「リシルド様が私との話し合いを望んでいるなら、いつだって構わないでしょう。それなら、もっと仲が悪くなる前に済ませた方がいいと思うんです。ばあや、すぐに支度と馬車の手配を」


 テキパキと指示を出し、別の侍女を呼んで着替えを持って来させる。


 乳母は唖然とした。

 彼女に仕えて十何年になるか。我が子同然のアマーリエを、乳母は隅々まで把握している。


 そう。いったん決意した女主人は譲らないのだ。


 …………なんとなく似た者同士な新婚夫婦に、乳母は言うべき言葉もなかった。




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