報われない
嫌な予感は裏切らない第一師団長にこれでもかといびられ、途中ルーカスの取りなしがあっても悪質な謗りを甘んじさせられたリシルドの気分は、最悪だった。
隊務を終えて兵舎を出る。小高い丘にそびえる王宮と兵舎は森に囲まれており、ある種街と隔離されている。
リシルドは慣れた坂道を伝い、王都の大通りへと下った。幅広な馬車道に沿って立ち並ぶ屋台は、夕暮れ時の今でも活気に沸いている。
「さあさあ! あと1個だよー! 明日にはもうないよ! 今日限りだからね!」
クルミやシイ、アーモンド…………とりどりの木の実を詰めた袋を掲げ、商売人が声を張り上げる。あと1個、という文句に引き止められた女たちが一斉にその店に押しかける。特別な言葉遣いに弱いのだ。家に帰ったら、後悔するだろうに。
かと思えば隣接する牛乳売りも負けじと客寄せに徹していた。
「そろそろ店じまい! 安くしとくよー! 量は少ない、早いモン勝ちだあ!!」
みんな血眼だ。商売人は自分たちの商品をこれでもかと突きつけ、売りさばく。
リシルドは自分の袖を掴んで強引に売りつけようとする果物屋をいなし、乗合馬車を拾う。
乗り場には2、3人の女性が先に馬車を待っていた。人混みから現れた白い騎士服の青年を目ざとく振り仰ぐ。
銀の筋を流す、指通りの良さげな髪。澄み渡った明るい双眸は空の向こうまで届いているよう。すっと通った顔の線に整う、薄い口元と目鼻立ち。どちらかといえば甘やかな、それでいて凛々しさの香る青年だ。
市井の者ならば近衛騎士という身分だけでも羨望の的なのに、さらに加えて見た目も上等とは。女性が食いつくのも無理はない。
リシルドは貫かんばかりの視線に愛想笑いを返し、やって来た馬車に向かって手を挙げる。御者は手綱を引いて馬を止まらせ、座席の扉を開ける。
女性たちは最後に乗り込んだリシルドを目で追う。だが彼の左手の薬指にはまる指輪を見て、慌てて顔を逸らした。
リシルドは一息つき、窓の景色に意識を転じる。沈みゆく夕陽が一際まばゆい輝きを投げ打っていた。
馬車は王都中を巡り、最後に貴族街を走るから、今日も暗くなった頃の帰宅となるだろう。いつもは早く着けと焦れるが、今日だけは居心地良い。
馬車がゆっくり回っている間に、愛妻の機嫌が直ってくれればとリシルドは願った。
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無駄にだだっ広い兵舎には近衛騎士が寝泊まりできるだけの部屋数と食堂、その他もろもろの設備が完備されているものの、リシルドは妻の待つ屋敷で1日の終わりを過ごす。
馬車を降りた彼は屋敷の外観を見渡した。
漆喰を削って土色の模様を浮き彫りした壁面。赤レンガの屋根。兵舎と比べると小ぶりな、可愛らしい佇まいだ。
妻のいるだろう寝室がほの明るい。リシルドは我知らず呟いていた。
「……会えるよね」
朝っぱらから見ていないものだから、せめて一言だけでも交わしたい。
「お帰りなさいませ」
玄関広間に入れば、形式化した老執事と侍女長の礼が出迎える。
使用人に上着を預け、リシルドは問うた。
「アマーリエは?」
「すでにご就寝していらっしゃいます」
同時に、侍女長の厳しい視線が突き刺さる。
王都の貴族街にそびえる邸宅と少数の使用人は、アマーリエがリシルドに嫁いだ際の持参金だ。リシルドが彼女に結婚指輪を贈っただけなのに対して。
「つわり?」
「ええ」
あっけらかんとした相槌だ。
妊娠が発覚してのち、屋敷では慌ただしい物音が絶えなかった。アマーリエのつわりが酷かったせいだ。食欲よりも倦怠感が勝って寝たきりで、体調が良くなったと思えば倒れて。大好きな屋敷の庭園の薔薇にも吐き気をもよおした。妊娠中の女性の身体は敏感だから、彼女の顔色が青ざめるたびにリシルドは心配したものだ。できることといえば一緒にいてやることくらいで、もどかしかった。
そんな日々もようやく峠を越えたと、少し前に聞いたのだが。
「あたくしも経験しましたけど、この時期は変わりやすいものですし。心の持ちようによっては左右されますもの」
心の持ちよう――――。
なぜだろう、胸が痛い。
「お見舞いに、」
「いけません」
言い終えぬうちに拒まれる。
ムッとなって言い返してやった。
「俺はあの子の夫だ」
ところが一も二もなく。
「それがどうしたというのです」
蹴倒された。
リシルド以上に女主人と付き合いの長い使用人たちは当然、彼女の味方である。彼女の命には忠実に従う。
「お食事の準備ができております。こちらへ」
侍女長は有無を言わさず食堂へ急かす。食堂は妻の寝室と反対方向だ。
「旦那様」
「…………はーい」
屋敷に漂う重苦しい空気。
今日は引き下がるしかなさそうである。