冷戦の幕開け
何が悪かったというのだろう。1日経った今でも、リシルドは検討もつかない。
瞳を熱で潤ませ、彼の胸にしなだれる最愛の人。気恥ずかしそうな赤ら顔が初々しく、リシルドの意識を痺れさせた。
思考もままならぬ熱情に冒され、口走った一言。
「俺はなんでもいいや。君が好きに決めて」
あの瞬間、一気に冷えた甘い雰囲気。
彼女は笑みを凍りつかせ、くるりと踵を返して寝室の鍵を閉めたのだ。
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純白を誇る白亜の王宮。その周りを季節の草木と花々が色彩豊かに賑わう大庭園。そこに設えられた薔薇の小道を通ると、これまた白壁の眩しい建物が視覚を灼く。
建国以来、永きに渡り『王の守り手』とあだ名されてきた、近衛師団の兵舎。ここは指折りの実力者ぞろいで、騎士を目指す者たちの憧れだ。騎士道物語に魅せられた男の子まで、将来は騎士になりたい、叶うなら近衛師団の、と声高に叫ぶ。
鍛錬を欠かさず、多くの試練を乗り越えた精鋭のみ許された場所。近衛騎士は力のみならず、気高さや礼儀を重んじる理想像と讃えられている。
とはいうものの。
「そりゃお前が悪い」
あくまでも理想である。
「どしてよ」
兵舎の花壇の縁に腰かけ、友人の愚痴に付き合わされていたエルザールは、首を横に振った。短く切りそろえた黒髪がなびく。
彼に一刀両断されたリシルドがむっと膨れる。
「意味分かんない」
「分からんのはお前だ」
うんざり、とばかりのため息が漏れる。
「奥さんはお腹痛めてまで産んでくれるんだぞ、お前の子供を。労いの気持ちも込めて名前くらい考えろ」
「アマーリエの子供でもあるじゃん」
「お前な……」
それでも父親になる身か。呆れたようにエルザールが前髪を掻き乱す。褐色の肌に浮かぶ新緑の瞳が、非難の輝きを湛えてリシルドを見下ろす。
リシルドとエルザールは従騎士――――見習いの時代よりお互いを高め合った友人同士だ。2人ともめでたく近衛騎士に選ばれたあとも、持ちつ持たれつの関係を繋いでいる。
そんな中リシルドは、近衛師団長の秘書と大恋愛の末、半年前に結婚した。いや、あの熱愛っぷりは、彼が一方的に、といった方が正しいか。
何はともあれ、好きな女性をようやく手に入れたリシルドは幸せの極みにあった。今年の終わり頃には子供も生まれるという。
記念すべき初の夫婦喧嘩は、その子供についてであった。
「女ってのは産むだけでいっぱいいっぱいなんだよ。子供の名前まで気が回らねーよ」
「大丈夫。アマーリエはきっちりしてるから」
「そういう問題じゃねぇって、だから」
友人の愚痴は、惚気から始まる。
彼の妻アマーリエは昨晩、屋敷の書斎でくつろいでいたリシルドと子供について語らったそうだ。いつになく妻の甘えた声にリシルドも聞き入ったとか。
アマーリエはうっとりと、上目遣いに夫に乞うた。
『子供の名前を考えてほしいのですけど……』
柔らかい焦げ茶の瞳に酔いしれたリシルドは、それどころじゃなかった。身重の妻を手荒に扱わないよう、己を律するので精一杯だったのだ。
だから深く考えられなかった。というのが彼の言い訳。
『俺は何でもいいや。君が好きに決めて』
――――冷戦の幕開けである。
微笑を曇らせたアマーリエはソファから立ち上がり、そそくさと寝室に引き返した。虚を突かれたリシルドが追い駆けるも、時すでに遅し。
彼女の飛び込んだ寝室には、とうに鍵がかけられていた。
「寝たら機嫌も治るかなー、ってそっとしておいたけどさ。なのに今朝は『つわりが酷い』とかで門前払いされたんだよ。酷くない?」
「当然の報いだろ」
だいたい、『考えろ』と言ってきた相手に同じセリフを返した時点でおかしい。
剣に人生を捧げた女っ気のないエルザールだって理解できる話というに。こいつはまったく。
「可哀想と思わないの? 俺、仕方なくソファで寝たんだよ!」
「ほお。じゃあ今から野外訓練に行って野宿するか?」
身勝手な発言にエルザールの口角が引きつる。
そうだ。リシルドは反省を知らない男だ。自分の非を認めない。彼女に言い寄っていた頃はナリを潜めていたが、こいつはこういう奴だった。
「お前の子供だろーが」
好きな女性が自分の愛情を受け入れて、身ごもった。その上さらに子の名前を決めてほしいなど、男冥利に尽きるというもの。
苦労して手に入れた嫁の可愛い願い事だ、聞き入れてしかるべきであろう。
前作『愛しい人は時を止めて』があまりに暗すぎたので、ひとつくらいは明るい話を、と。