太一
パタン!
僕は会社のパソコンを閉じた。時刻は18時ジャスト。
今日は早く帰ろう。妻と息子の顔が早く見たい。
「お先に失礼します。」
会社を出て、駅まで急ぐ。最近は残業続きで毎日帰宅が遅い。だが、優しい妻と、可愛い息子の事を思えば頑張れる。
駅でケーキを二つ買った。妻の大好きなモンブランだ。今日は妻に日頃の感謝を伝えよう。
駅からも小走りで帰り、我が家のドアを開けようとして気づいた。
…………何かがおかしい。
ドアの内側から禍々しい気配が漏れている。
小さい頃から僕は「見える」人間だった。アレの想いが強いほど、ハッキリと「見える」。子供の頃に母親から怒られてから周りには理解してもらう事は諦めた。友梨もこの事は知らない。
しかし…、この見え方は…、こんなにハッキリと見えるのは久しぶりだ。我が家の中に、こんなに強い想いを宿したアレが居るというのか…、誰に対して?いったい何の為に?
僕はそっとドアを開けた。
「お帰りなさい。今日は早かったんだね。」
友梨が玄関まで迎えに来てくれた。息子の陽一もハイハイで友梨の後を付いてきている。
「たまには息子の顔をみたいしな。陽一、ただいま〜!」
愛する息子を抱き上げるが、今日も号泣されてしまった。一体僕の何処が気に入らないというのだろう。もう一歳になろうというのに全く懐いてくれない。友梨は父親はみんなそんなものだと慰めてくれるが、やっぱり落ち込んでしまう。
そんな陽一の事も気になるが、今日はアレの気配の方が気にかかる。僕は、この得体のしれない強い想いから愛する家族を守る事が出来るだろうか。気配はリビングから漏れてきている。僕は友梨に陽一を預けるとリビングへと繋がるドアを開けた。
僕の予想通り、リビングにアレは居た。リビングの天井をフワフワと痩せた男が漂っているのが「見える」。しかし、その想いの強さに反して、危害を加えるような様子は無い。穏やかな顔で、まるで我が家を見守っているかの様だ。この男は我が家に一体何の関係があるのだろう。
男の存在が気になり、妻との会話も生返事で返しながら食事を終えた。友梨は先に風呂に入ってくるという。僕はその間に 男の事を探ってみることにした。
男は相変わらず、フワフワとリビングの天井付近を漂いながら陽一の方をじっと見つめている。ただ、じっと見つめているだけだ。しかし、この想いの強さは何だろう。ここまで姿がハッキリ「見える」のは余程の心残りがあるはずだ。よく見ると男は何かを伝えようとしている。声こそ聞こえないものの、必死で何かを叫んでいる。僕は何を言っているのか口の動きから聞き取ろうとした。
…ウ…イ…チ……リ…
ヨ…ウ…イ…チ…ユ…リ…
ヨウイチ…、ユリ…。
陽一、友梨…!
狙いは陽一と友梨か。
一体なぜ?いや…そもそも、こいつは一体誰なんだ?
僕は頭をフル回転させ、最悪のケースを思い描く。
まさか!いや、しかし…。男のあの表情は…僕と…同じ…。
陽一が急に上を見て泣き始めた。男が見えているのだろう。驚くことはない。赤ちゃんにはよくある事だ。僕は陽一を抱き上げ、男に近づけてみた。男は一瞬嬉しそうな顔をしたが、その後は陽一の泣き声にオロオロするばかりだ。その表情を見て、僕の想像は確信に変わった。目の前の景色が急速に色を失っていく。
「どうしたの?」
いつの間にか後ろに友梨が立っていた。
僕は、分からない、急に泣き出したんだ。とだけ伝え、陽一を友梨に預けるとフラフラと風呂に向かった。少し冷静になりたかった。頭がズキズキと酷く痛む。
僕はお風呂の中で今日一日の事、そしてこれまでの事を思い返した。
あぁ、そうか…。
思いあたる事はいくつかあった。奇妙な男の霊と叫び。いつまで経っても懐かない陽一。陽一の事を相談すると、必要以上にムキになって僕をかばってくれた友梨。
涙が僕の頬を伝っている。
友梨は僕を騙したんだ…。
不思議なもので、男の存在を受け入れることで、噛み合わなかったパズルのピースがピタリと当てはまった。
友梨!
僕はある決意とともに、そっと風呂から上がり、台所に入った。
対面式のキッチンからダイニングの向こう側に僕の求めていた幸せな家族の形が「見える」。カーテンの横でおどける父親とそれを見て笑う息子、その様子を幸せそうに見つめる母親。
僕は何故ここに居るのだろう。あの幸せな家族には僕の姿など「見えない」というのに…。僕の頬をまた涙が流れ落ちた。
僕は台所に無造作に置かれていた包丁を握り締めると、ソファの側に立つ母親にそっと近づいた。
最後までお読み頂きありがとうございました。この話は元々短編だったのですが、太一があまりに可哀想で、太一の側から見た後編を追加してみました。裏切られた旦那の逆襲という、爽快な展開を目指していたのですが、さらに黒く、鬱な展開になってしまいました。
初めての試みですので、感想いただければ嬉しいです。