友梨
ドン!!
リビングから大きな音が聞こえた。
トイレを掃除していた友梨は大きな音に驚き、リビングをのぞいた。
リビングでは一歳になる「陽一」がスヤスヤと眠っている。特に異常は見当たらない。
今のいったい何の音だったのかしら?
時刻は一時半。何も異常が無い事を確認すると、トイレの掃除に戻った。
夫の「太一」とは結婚して三年目。会社の同僚で、一年の交際期間を経てゴールインした。陽一という子宝にも恵まれ、生活には何の不満もない。陽一が生まれたのをきっかけにマンションも購入し、子育てと掃除に情熱をかける毎日を過ごしている。
掃除が終わると、友梨は陽一を連れ、買い物に出掛けた。お義母さんにもらったジャガイモがまだ残っている。今日は肉ジャガにしよう。楽だし、太一も喜ぶし、一石二鳥だわ。なんてことを思いながら買い物を済ませ、玄関のドアを開けた。
ドアを開けた瞬間、友梨は違和感を感じた。
………………。何かがおかしい。
違和感の正体はすぐに分かった。リビングのカーテンが開いている。出掛ける時に確かに閉めたはずなのに…。
気味が悪いので、一応家の中を見回り、何もないことを確認した。今日は変な事がよく起こる。
買い物から帰ってからも、たまった洗濯物の片付け、陽一の相手、夕食の準備と一日はあっという間に過ぎていく。最近は陽一がハイハイを始め、ますます目が離せなくなってきている。主婦とはいえ、ゆっくりしている時間はほとんどない。忙しくしているうちに、カーテンの事などすっかり忘れていた。
「ただいま〜」
陽一のご飯が終わった頃、太一が帰ってきた。玄関まで迎えにいく友梨に陽一がハイハイで付いてくる。
「お帰りなさい。今日は早かったね。」
「たまには息子の顔を見たいしな。お〜い陽一!ただいま。」
太一は陽一に笑顔で声を掛けるが、陽一は友梨の後ろに隠れたまま出てこない。
「陽一!ただいま〜!」
太一が抱き上げると陽一は手足をバタバタさせ、「ギャー」っと激しく泣き出した。
今日も父子の触れ合い作戦は失敗のようだ。友梨が代わりに抱きあげると、陽一はピタッと泣き止んだ。
「しかし、陽一はなんで俺に懐かないんだろうな?」
肉ジャガを頬張りながら不思議そうに太一は言った。
陽一はご機嫌で録画したテレビ番組を見ている。
「父親は悲しいねぇ〜。でも、目元なんかますますあなたに似てきたよ。」
「そうかなぁ。」
「そうだよ!お義母さんも太一に良く似てるって喜んでたし。」
「顔だけ似ててもなぁ。」
太一は悲しそうに呟くと、ご飯をかきこんだ。
「フギャー!フギャー!」
友梨がお風呂に入っていると、リビングから泣き声が聞こえる。いつものことだ。
友梨は溜息を付くと、いそいで服を着てリビングへ急いだ。
リビングではおなじみの光景が広がっていた。泣き叫ぶ陽一を困ったように抱く太一。
だが、今日は陽一の泣き方がいつもよりひどい。天井のある一点を見ながら泣き叫んでいるのだ。
「どうしたの?」
友梨は陽一を抱きながら尋ねた。
「分からない。テレビを見てたら突然天井を見て泣き出したんだ。」
友梨の質問に、太一は困ったように答える。陽一はいつもなら友梨が抱けばすぐに泣き止むのだが、今日は泣き止まない。天井の角を見つめ、何かに怯えているかの様だ。
友梨は太一にお風呂に入るように促した。
太一がお風呂に入ってしばらくすると、陽一もようやく落ち着いてきた。さっきまでの騒がしさが嘘の様に部屋を静寂が包み込んだ。
プルルルル…プルルルル…
静寂の中に友梨のスマホが鳴り響く。
表示には「阪口 美和」と表示されている。短大時代の同級生の美和だ。
美和だ!なんて懐かしいんだろう!
友梨は慌てて通話ボタンを押した。
「友梨〜!久しぶり!元気〜!」
受話器から美和の声が聞こえる。短大卒業以来だからもう10年になるだろうか。本当に懐かしい。ひとしきり、昔話に花を咲かせ、近況を報告しあうと、本題に入るかのように美和は声のトーンを下げた。
「ところで、友梨って陽介くんと付き合ってたよね!」
友梨の脳裏に「陽介」の笑顔が浮かぶ。陽介は学生時代の恋人だった。何処へ行くにも二人一緒で皆が羨むような恋人同士だったが、大学を卒業後、友梨が地元に帰った後はしだいに疎遠になり、連絡もいつの間にか取らなくなっていった。
数年前までは…。
ある日、街中で偶然出会った元恋人達は運命のいたずらに飲み込まれるように、年に数回のペースで会い、かつての仲を取り戻していった。しかし、そんな関係も二年前に陽介からの一方的な申し出により終わりを迎えた。それ以来、一切連絡はとっていない。
そんな事など知らない美和は、一人で話し続けている。
「…でね、陽介くん亡くなったって話、聞いた?」
えっ…。
美和の言葉に目の前の景色が、急速に色を失っていく。
「亡くなったっていつ?」
友梨は震えながら尋ねた。
「今朝だって。二年前くらいから身体を壊して、最近はずっと入院してたらしいよ。」
美和の声が遠くから響いてくる。
二年前…。私が最後に陽介にあったのもその頃だ、そしてベッドの上で別れを告げられたのも…。
「ねぇ、友梨。聞いてる?ねぇ!友梨ってば!」
美和の声が遠い。まだ何か話し続けているが、友梨は電話を切った。
信じられない。でも、最期に見た陽介の身体…。凄く痩せていた。ダイエット中だなんて笑っていたけど…。
「会えなくなっても僕はずっと君の事を愛しているよ。」
友梨は陽介の最期の言葉を思い出していた。
あぁ、そうか…。
過去の事、そして今日一日の事を思い返してみる。思いあたる事はいくつもあった。リビングから聞こえた物音、開いていたカーテン、陽一の奇妙な行動。
涙が友梨の頬を伝っている。
陽介は死んだんだ…。
不思議なもので、霊的なものの存在を感じることで、陽介の死を受け入れることができた。
心のなかで、陽介に話しかける。
陽介…、最期に会いに来てくれたんだね。私達の事、やっぱり心配なんだね。でも、私も陽一も元気だから大丈夫だよ。ほら、目元なんてあなたにそっくりだよ。
陽一の方を見ると、カーテンの方を見ながら笑っている。息子の笑顔に答えるように、白いカーテンがフワリと舞い上がる。カーテンの側でおどける父親と、それをみて笑う息子、そして私。本来あったかもしれない理想の幸せな家族の形が今は私にも「見える」。
「お〜い!上がったよ〜。おっ、陽一もご機嫌だな。」
後ろから太一の声が聞こえる。
「そうだね。陽一はやっぱりお父さんが大好きなんだね。」
友梨は涙を拭き、振り返って笑った。
友梨の様な人が十人に一人はいるらしいと聞き、凄く怖いです。
うっ、うちはちがいますよっ(汗)
後編「太一の逆襲」編に続きます。