The daily life of the boy
午前8時5分
少年は時間を確認するために下げた目線を再び前方へと戻し、そして若干ぬるくなってしまった缶コーヒーを傾けた。 もうそろそろ電車が到着する時間のはずだが、どうやらまだ到着してないらしい。
駅前の広場に設置されているベンチに少年は座っているが、まだ本鈴には余裕があるためか、比較的人影はまばらである。 毎日このベンチで少年は時間を10分ほど潰しているのだが、この習慣を変える気はなかった。 たしかにこの10分を捻出するために若干の苦労をしているのだが、
それ以上にこのベンチで過ごすまったりとした時間を少年は気に入っていた。
少し早足で走り去っていくサラリーマン、2,3人でガヤガヤと談笑しながら登校している小学生、そしてトテトテと何処かへと走り去る猫。 それらを眺めながら、そしてやがて到着する電車を待つ___それが少年の毎朝のちょっとした贅沢だった。
そして電車が到着したのであろう、駅のホームが俄に活気を帯びる。
少年は缶に残っていたコーヒーをグビリと飲み干すと、缶を捨て、ベンチの横に止めてあった自転車を押して駅へと近づいていく。
駅の改札口は、さながら蛇口を開いたように人で溢れかえっていた。 駅員の中年の女性が必死で切符を確認しているが到底一人では確認しきれるわけもなく、大半の人は女性の前に置かれている箱の中に切符を投げ捨てていた。
この光景を見るたびに少年は改札機の導入をなぜしないのだろうかとは思う。 まあ、予算が下りないとかそんな理由であろうか?
そして、そんな由無し事を考えているうちに少年の目当てが見つかる。
肩より少し長いくらいの髪を黒いゴムで縛り、学校指定の鞄を背負い、文字どうり人並みに溺れないように必死にこちらの方にやってくる小柄な少女である。 その姿はさながら鞄がピョコピョコ歩いてくるようでもある。
ようやく改札から出てきた少女はキョロキョロとあたりを見まわし、少年をみつけるとニパっと向日葵のような笑顔を浮かべ少年の方へとかけてきた。
「周、おはよう」
「ああ、おはよう結衣」
二人は挨拶を交わすと学校へと歩き出した。
? ? ?
だいぶ桜も散った通学路を周と結衣は雑談をしながら校舎へと歩いて行く。 校舎に近づくにつれて、徐々に生徒の数も増え、それに比例して騒がしさも増してゆく。
「そういえば周、日曜は何してたの?」
結衣が小首をかしげて聞いてくる。 その仕草はさながら一片の汚れもない白文鳥のようでもある。
「私はちなみに弟と遊んでたんだ。 最近よく言葉を喋るようになってね、とっても可愛いんだよ?」
結衣が嬉しそうに昨日の出来事を語ってくる。
「俺は…」
「もちろんデートしてたよ」
周が答えようとしたところ後ろから別の誰かが答えた。 周と結衣が立ち止まり振り向くと、そこには胡散臭気な笑顔でニコニコと笑っているメガネをかけた一人の男子生徒が立っていた。背丈は周と同じくらいで、制服を若干着崩し、少し長めの髪をオールバックにしており、後はこれにサングラスとアクセサリーでもつければ、どこぞの新米ホストかヤクザの様な格好である。
「おい直、いきなり会話に加わるなよ。 あと、せめておはようぐらいは言え」
周が若干不機嫌そうな顔をして、少年に話しかけた。 その直と呼ばれた少年はというと
、慣れたような雰囲気で相変わらずニコニコと笑っていた。
「ああ、ゴメンね周。挨拶は人付き合いの基本だもんね。でもきみにおはようを言うより早く、僕にはしなきゃいけないことがあるから」
「…一応聞いてやる。 なにする気だ?」
周があからさまに嫌そうな表情で直に質問した。
「何ってもちろん通学している女の子全員に声を掛けることだよ。 まず手始めに結衣」
直が、威張れもしないことを堂々と胸をはって宣った。 しかし周は直をむしろ哀れみに満ちた表情で見つめていた。 そう、さながら死刑囚を見つめる聖職者のような表情で…。
「ほう…? 今なにかとても愉快でファンタジックな幻聴が聞こえたような気がするんだけど、なにかな? 私はまだベットでナイトキャップを被ってオネンネしてるのかな?」
瞬間、脊髄に氷柱を差し込まれるような声が三人の耳に入ってきた。 直がロウソクのように蒼白な表情で振り返ると、そこにはしなやかな体躯で鞄を肩にかけ、髪をポニーテールにし、快活そうな顔立ちの少女が立っていた。
「二人ともおはよ。 それで、さっき私の聞いたメルヘンな言葉は幻聴だったりするのかな?」
その快活そうな少女が笑顔で周と結衣に話しかけてきた。 しかしその笑顔は、顔事態は笑っているのだが、目が少しも笑ってない、さながら能面のような笑顔だった。
「…いや、幻聴じゃないと思うぞ眞森。 俺にも聞こえてたし」
「…うん、眞森ちゃん。 私も幻聴じゃないと思うよ」
「ちょっ…ふたりとも!?」
周と結衣の返答を聞き、直が泡を食ったように二人に詰め寄ろうとした。 しかし直が二人に詰め寄るよりも早く、素早くワッシと首根っこを掴まれてしまった。
かなりの力で掴んでいるのだろうか、直の顔色が蒼白を通り越してサッと土気色へと変わっていった。
直も必死で外そうともがいているが、一向に外れる様子はなく、むしろさらに締まっいっているようにも見える。
「それじゃ二人とも。朝っぱらからこのバカに少しばかりお仕置きしなきゃいけなくなったから、私は先にいくわね」
そう言って眞森は、ドナドナがBGMで聞こえてきそうな雰囲気の直を首根っこを掴んだまま、校舎へズリズリと連行して行った。
そして後には、一連の出来事に振り回された二人が取り残された。
「…どうする?」
「…どうしようか?」
「…とりあえず行くか」
「…そうだね」
そういうわけで、二人は再び校舎へと歩き出した。
? ? ?
直と眞森が帰ってきたのは、3時間目が終わった直後だった。
まあ、余談であるがその時、直は何故かゲッソリした表情をしていたが一方の眞森はというと非常にツヤツヤとしていた。
まあ、まことに余談であるが。
「大丈夫か直? なんか蘇生したてのゾンビみたいになってるぞ」
机に突っ伏してダウンしている直に周がツンツンと頭をつつきながら質問した。
「…今は新鮮な人肉よりも血がほしい気分かナ… もしくは、スッポンとかもいいかもネ…」
「はいはい。んなヴァンパイア的なこと言ってねーでさっさと移動するぞ。次の授業は体育だ」
少し見ない間に、吸血鬼に転職したらしい友人の分の体操服もまとめて教室の後ろから持ってきていた周が、直の上に無慈悲にもそれを落とした。
「ケぺッ!? ………あのね周、頭に落とすのは酷いと思うよ」
「五月蝿い。 とっとと起きないお前が悪いんだろ、お前が」
周はブツブツと文句を言いつつ、ようやく体を起こした直を引き連れ廊下へと出た。 この学園では体育の着替えは教室ではなく更衣室で行うので、二人は体育館に併設されている更衣室へと向かう。
休み時間の廊下には授業で溜まった憂を晴らしている生徒で溢れかえっていた。 友人とダベっている者、じゃれあっている者、恋人といちゃついてる者。いずれの者も、授業中には見せないであろう生き生きとした表情をしている。
「そっか、そういえば今は男子も女子も体育館か…」
直がふと思い出したように、ポツリと呟いた。
「…たしかに両方とも体育館だが。 それがどうかしたのか?」
「いや、ということは眞森のブルマ姿を満喫できるなとね。 眞森は足がスラッと長いから足を強調するブルマはさぞエロ可愛いく似合ってるだろね」
まあ、もちろん何だって似合うんだけどね、と惚気けることも忘れない。
周が渋面で唸り声をあげていると、おおかた押す際に力加減を間違えでもしたのだろう か、なにやら若干マトリックスのような倒れ方で、じゃれあっていた女子の一人が周たちの方へと倒れこんできた。
「Nooooooooooooooooooo! Allisoooooooooooooooooooooooooooooon!」
なにやら洋画風の悲鳴をあげつつ、ダイナミックに。
すると直が、廊下と女子との間に体を滑り込ませ、すばやく受け止めた。 優しく、ふんわりと、紳士的に。
「大丈夫? 休み時間だからタガを外すのもいいけどほどほどにね。 それとふっくらとしたいい腰だね。 安産型?」
ついでに若干エロく。
「何言っとるかこのドボケェ!」
そして直のツッコミが空を切り裂く。
「なにするんだ周、危ないじゃないか。女の子は割れ物なんだよ? うっかり落としたらどうする気なんだい?」
周が放ったケリを女子を抱えたまま、危なげ無く避けた直がクレームをつける。
「じゃかーしィ! 何昼間から盛っとるかこの糞ボケ! おまえは犬畜生か! 助けるまではいいが何だその後の一言は! 昔っからお前はいつも一言多いんだよ!」
「何って助けた後のお約束? 別名ピロートーク?」
「お前意味分かって言ってるだろ!? ピロートークには、救助者と非救助者の感動の会話とかそういう意味はない! それといつまでも腰に手を回してないでいい加減に下ろせ!」
「あれそうだったっけ? じゃあ、どういう意味か教えてよ周。意味を知ってるんだろう?」
少女を優しく廊下へと降ろした直が純粋な表情で聞いてくる。
「さあさあ教えてよ周。 僕たちは友達だろ? だんまりは良くないよ?」
もとい、純粋そうな表情で聞いてくる。
「まさか、いつも助けてくれる親友にそんな冷たい仕打ちはしないよね? このまえの結衣とのデートのプランニングと、各種お膳立てをしたのは誰だったかな? あのレストランの予約を取ったのは誰だったかな? 水族館の館長さんに頼んで、特別に餌やりをさせてくれるように頼んだのは誰だったかな? 結衣が見たがっていた映画の試写会のチケットを用意したのは誰だったかな?」
直がとてもイキイキとした表情で周を追い詰める。しかし、周も慣れたものでこの程度では口を割らない。なので直は切り札を切ることにした。最強の切り札を。
「それとホテルの…」
「わー! わー! わー! 言うから! 言います! 喜んで言わせていただきます!」
直が泡を食って口を開く。こんなところでそんな事をペラペラとしゃべられてはたまったものではない。
「………ピロートークつーのは、あー……こう、男と女が………なんつーかほら、…雄しべと雌しべの……」
「あのー… お二人とも次の授業体育なんじゃ…? もうすぐ始業のチャイムなっちゃいますよ?」
周がたどたどしい口調でピロートークの説明を始めたとき、置いてけぼりをくっていた少女がおずおずと口を開いた。
そして、その時の少女は後にこう語る。
「あの時のお二人の表情ですか? うーん、なんというかムンクのような表情でしたね。こう、今にも叫びだしそうな」
そして、もう一人の少女はこう語る。
「こう、なんて言えばいいんでしょうか…? 空気というか空間? にヒビが入るような音…? が聞こえました。 こうピシッって感じの」
この学園に所属する体育教師の中に、生徒から鬼口と呼ばれている教師がいる。鬼口というのは本名ではなく、直が最初の授業でわざと間違えてそう呼んで、それが定着したものだ。そして何故そのあだ名が定着したかというと、そのあだ名が本名よりもピッタリだったからである。要するに…。
二人は必死の形相で、一目散に走りだした。