焦がれるパンの隠し味
一夜明け、宿の老婆のアドバイス通りに火を弱め、水皿を置いたロビーには、昨日よりもずっと柔らかく、心地よい睡蓮の香りが満ちていた。
「おはようございます。よく眠れましたよ」 「おはよう、ルカさん。……あんたの言う通りにしたら、今朝は他のお客さんもみんな上機嫌でね。これ、お礼だよ」
老婆から手渡されたのは、焼きたてのパンと、数枚の銅貨。 ルカは丁寧にお辞儀をして受け取ると、清々しい朝の光が差し込む街へと踏み出した。
(さて、まずは昨日聞いた『薬屋の跡地』を探してみましょうか。……おや?)
市場へと続く大通りを歩いていたルカの鼻先が、ぴくりと動く。 朝の街に満ちる、活気ある匂い。その中に、ひどく「不協和音」な香りが混じっていた。
本来なら人を幸福にするはずの、焼きたての麦のこうばしい香り。 だが、その奥底に、ひどく沈んだ「憂鬱」と「焦げ」の匂いが混じっている。ルカは無意識に、その匂いの源――角にある小さなパン屋へと足を向けていた。
「はぁ……」
店の前で、一人の少女が大きなため息をついていた。 リリィという名のその看板娘は、トレイに山積みにされた、少し焼き色の濃すぎるパンを前に、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「おはようございます。……素敵な香りのパンですね。ですが、少しばかり火力が強すぎたのでしょうか。あるいは、貴方の心がどこか遠くへ行っていたのか」
気づけば、ルカは声をかけていた。記憶をなくしても、乱れた「香り」を正さずにはいられない、いささかお節介な性分。
「あ……ごめんなさい、お兄さん。せっかくの朝なのに、焦げたパンの匂いなんてさせちゃって。……でも、そうかも。私、心ここにあらずだったから」
リリィは力なく笑った。彼女からは、焦げたパンの匂い以上に、強い「不安」と、誰かを想う「切なさ」の香りが漂っている。
「何か、お悩みですか? 余計なお世話かとは思いますが……香りは正直です。貴方のパンが、悲しいと泣いていますよ」
ルカは優しく目を細め、彼女の言葉を待った。 リリィによれば、幼馴染の衛兵が今日、魔獣被害の調査のために危険な遠征に出発するのだという。せめて元気が出るパンを渡そうとしたが、緊張と不安で失敗してしまった。
「彼、私のパンを楽しみにしてくれてるのに……。こんな失敗作、渡せない」
彼女の小麦色をした耳が、しょんぼりと垂れ下がる。昨夜のミーナと同じ、この街に暮らす猫人の少女だ。ルカは彼女の顔を覗き込み、穏やかに微笑んだ。
「まだ時間はあります。……今朝、別の方にいただいたパンがとても美味しかったものですから。そのお返しに、少しだけ『魔法』をかけさせていただいてもよろしいですか?」
「魔法……? お兄さんは、魔法使いなの?」
「いいえ。ただの、香りに少し詳しいだけの旅人ですよ」
ルカは石畳の上に革カバンを下ろし、手際よく器材を取り出した。 少女の恋心と、パンの香りと、そして勇敢な衛兵の背中。 それらを最高のかたちで結びつける処方箋が、ルカの脳内にはすでに完成していた。
(香りは、人を幸せにするためにある。――そうですよね?)
昨夜、魔獣を前に震えた自分の指先に言い聞かせるように、ルカは一本の遮光瓶を手に取った。
「……ふむ。焦げた、という事実は変えられませんが、その香りの『意味』を変えることはできそうです」
ルカは調理場の端を借りると、カバンから一本の遮光瓶を丁寧に取り出した。 指先で遮光ガラスの冷たさを確かめ、中に入っていた「シナモン・オーク」の精油を、そっと掲げる。琥珀色の液体が朝陽を透かして、ルカの瞳を微かに色づかせた。
「リリィさん、生地にこれを一滴だけ。そして、仕上げに少しだけ岩塩を振ってください」
リリィは不思議そうにしながらも、ルカの指示通りに作業を進めていく。 すると、どうだろう。先ほどまで鼻を突いていた「焦げ」の匂いが、シナモンの温かい芳香と混じり合い、まるで焚き火でじっくりと焼き上げたような、香ばしくも深みのある「薫製」のような香りに変化したのだ。
「わぁ……! さっきより、ずっと美味しそうな匂い……。焦げてるはずなのに、なんだか不思議に落ち着く気がするわ」
「ええ。焦げは時として、力強い『生命感』に変わります。遠征に向かう方には、上品な甘さよりも、こうした力強い香りの方が、きっとその背中を支えてくれるはずですよ」
焼き直されたパンをバスケットに詰め、ルカはリリィに微笑みかけた。 「さあ、行ってください。彼が一番求めているのは、パンの完璧な焼き色ではなく、それを届ける貴方の笑顔なのですから」
リリィは大きく頷くと、温かなパンを抱えて駆け出していった。その背中から漂うのは、先ほどまでの「憂鬱」ではなく、前向きで凛とした「勇気」の香りだった。
彼女を見送ったルカは、パンの粉で汚れた手を丁寧に拭い、自身のポケットをそっと撫でた。中には、昨夜回収したあの不穏な小瓶が入っている。
(……香りは、人を守り、笑顔にするためにある……)
昨夜、魔獣を前にして手が震えてしまった自分の情けなさが、この新しいパンの香りで、少しだけ中和されたような気がした。
しばらくして、頬を紅潮させたリリィが戻ってきた。
「ルカさん、ありがとう! 彼、すごく喜んでくれたわ。『この香りを嗅ぐと、絶対帰ってこなきゃって思える』って言ってくれたの!」
「それは良かった。どうやら、私の拙いお節介も役に立ったようですね」
ルカは安堵からくる柔らかな笑みを浮かべた。だが、すぐにその表情を引き締め、懐から昨夜の小瓶を取り出した。
「リリィさん、実は少し伺いたいことがあるのですが。……昨夜、市場の裏通りに住み着いた男の話を聞いたのですが、この瓶と同じ香りを、どこかで見かけませんでしたか?」
リリィは小瓶をじっと見つめ、何かを思い出すように小麦色の耳をぴくりと動かした。
「……あ。そういえば、ここ数日。西門の近くにある古びた薬屋の跡地から、よく似た変な匂いが流れてくるわ。店主さんは『よく育つ肥料だ』って言って、市場の農家の人たちに何かを配ってたみたいだけど……」
「……肥料、ですか」
ルカの眼光が、一瞬だけ鋭く光った。 魔獣を狂わせる誘引剤を「肥料」と称して配る。その意図が何であれ、それは香りを扱う者として、そして何より人々の平穏な生活を守りたいと願うルカの性分として、見過ごせるものではなかった。
「ありがとうございます、リリィさん。……お節介ついでに、少しその薬屋さんまで散歩をしてくるとしましょう」
ルカは再び愛用の革カバンを肩にかけると、少女に別れを告げ、西門へと向かった。
この世界は、様々な香りに満ちている。
けれど、その中にはやはり、放置してはいけない「悪臭」が混じっているようだ。 ルカは深く息を吸い込み、記憶の中の「優しい香り」を道標にするように、不穏な匂いの源へと歩みを進めた。




