はじまりの町
「……おや。どうやら私は、とんでもない大寝坊をしてしまったようですね」
石畳の冷たさで目を覚ました青年は、ゆっくりと上体を起こした。指先でこめかみを押し、混濁した意識を整理しようと試みるが、記憶の箱は空っぽのままだ。 青年は困ったように眉を下げ、自嘲気味に微笑んだ。
名前も、ここがどこかも思い出せない。けれど、隣に置かれた革カバンの中身――鈍く光る銀の天秤や、厳重に遮光された無数のガラス瓶を見れば、自分が何を生業にしていたかは明白だった。
「私は、調香師。そして、この香りは……」
カバンの底で見つけた一枚の紙片を指先で挟み、鼻先に近づける。 そこから漂うのは、鼻腔をくすぐるような、懐かしくて優しい香りだ。それを嗅いだ瞬間、胸の奥がチリリと痺れるような、あるいは幸せを感じるような奇妙な感覚に襲われた。 だが、彼はすぐにいつもの穏やかな顔に戻り、スッと立ち上がった。
「さて、名前がないのは不便ですねぇ。……そういえば……」
青年は改めて自身の持ち物を思い浮かべると、先ほどの紙片の隅に『Luca』と走り書きがあったことを思い出した。
「ルカ……」
今日からはルカと名乗ることにしよう。 ルカは身なりを整え、使い込まれた革カバンを肩にかけると、賑やかな大通りへと歩き出した。
この世界は、様々な香りに満ちている。
焼きたてのパンが放つこうばしい熱気、石畳の隙間に溜まった昨夜の雨の匂い。ルカはそれら一つひとつの情報を慈しむように、時折足を止めては深く息を吸い込んだ。
「なんだにゃ、急に止まったら危ないにゃ!」
不意にぶつかったのは、干物の袋を抱えた銀色の毛並みの猫人の少女だった。
「……ああ、失礼。驚かせてしまいましたね。少し香りに聞き惚れて……いえ、嗅ぎ惚れていたようです」
ルカは帽子を取るような仕草で、流れるように一礼した。育ちの良さを感じさせる洗練された動作だ。少女は逆立てていた尻尾を気恥ずかしそうに揺らし、耳をペコリと寝かせた。
「……あ、あー……い、いや、こっちも前を見てなかったにゃ。次からは気をつけるにゃよ、お兄さん」
少女は照れくさそうに駆けていく。ルカはその背中を穏やかな目で見送ったが、すぐにその眉間に微かな皺が寄った。 彼の鋭い嗅覚が、彼女の首元から漂う「ある違和感」を鮮明に捉えていたからだ。
(……甘酸っぱく、どこか喉を刺すような。今の彼女の雰囲気には、少しばかり似合わない香りですね)
ルカは首を傾げながら、今夜の宿を探した。 ようやく見つけた宿屋で、受付の老婆が焚いている香が強すぎると気づけば、彼は迷わず身を乗り出した。
「もし差し支えなければ、火をほんのわずか弱め、横に水皿を置いてみてください。きっと、さらにたおやかな香りになりますよ」
頼まれてもいないのに、最高の香りを楽しむための工夫を伝えてしまう。これこそが彼の、天然由来の「超お節介」だった。
しかし、案内された屋根裏部屋でカバンを整理していたとき、ルカの手が止まった。
「――『マタタビ・ペッパー』の精油。まさか、あの子が持っていたのは……!」
それは、とても猫人の少女が持つような代物ではない。特定の肉食魔獣を極限まで興奮させ、標的を追わせるための危険な「戦術誘引剤」だ。 ルカの脳裏に、理屈ではない焦燥感が走る。「誰かが危ない」という本能的なアラートが、彼を突き動かした。
「放っておくわけにはいきませんね」
ルカは上着を掴み、宿を飛び出した。 夜の帳が下りた街。ルカは闇に溶けかかった誘引剤の微かな軌跡を、一筋の糸を辿るように追った。鼻を研ぎ澄ませ、数多の生活臭の中から「危険な匂い」を嗅ぎ分ける。
「……こちらですか」
路地裏の突き当たり。巨大な魔獣に追い詰められたミーナの姿があった。 ルカはカバンから一本の遮光瓶を取り出す。強烈な刺激で魔獣を退ける「催涙香料」だ。これで鼻を潰せば……。 しかし、瓶の栓に手をかけた瞬間、ルカの心に真っ白な霧のような「空虚」がよぎった。
(……誰かを救いたい……。だが、そのために自身も武器ともなり得るものを使って良いというのか……?)
指先がガタガタと震え、肝心の一歩が踏み出せない。脳が、あるいは魂が、誰かを……魔獣でさえ傷つけてしまうことを激しく拒んでいる。
その窮地を救ったのは、魔獣を追ってきた冒険者の放つ鋭い剣閃だった。
「……ふぅ、助かったぜ。おい、怪我はねぇか?」
大剣を肩に担ぎ、銀髪の冒険者が快活な声を上げた。魔獣の巨体はすでに物言わぬ肉塊となり、夜の闇に沈んでいる。
ルカは強張っていた全身の力を、ふっと抜いた。 震える指先を上着のポケットに滑り込ませ、握りしめていた遮光瓶を奥へと隠す。その顔には、いつもの穏やかな、しかしどこか所在なげな微笑みが戻っていた。
「ええ……。私たちは無事です。鮮やかな手際でしたね、ありがとうございます」
ルカは優雅に一礼すると、腰を抜かして座り込んでいたミーナに歩み寄った。彼女の目にはまだ涙が溜まり、銀色の耳は恐怖で力なく垂れ下がっている。
「怖かったですね、ミーナさん。もう大丈夫ですよ」
ルカは彼女の目線に合わせるように膝をつき、安心させるようにその小さな手を包み込んだ。 そのまま、彼女が首から下げていた紐状の物へと、そっと指を伸ばす。 ルカは紐の先へ付けられた小瓶の蓋を指先で弾き、その中身を僅かに嗅いだ。 一瞬、彼の瞳から温度が消え、専門家としての鋭利な光が宿る。
「……マタタビ・ペッパーの精油を、より攻撃的に変質させた合成香料。ミーナさん、これをどこで?」
ルカの問いかけに、ミーナはまだ震える声で、ぽつりぽつりと話し始めた。 市場の裏通りにある古びた薬屋の跡地に、最近、不思議なおじさんが住み着いたこと。その人は「悪い獣が来ないように」と笑って、この小瓶を分けてくれたこと。
「おじさん、とっても優しそうだったのに……これ、悪いものだったの?」
ミーナの潤んだ瞳がルカを見上げる。ルカはその視線を受け止めると、小瓶をそっと閉じ、自身のポケットへと深くしまい込んだ。
「いいえ、ミーナさんのせいではありませんよ。ただ……この香りは、少しばかりいたずらが過ぎたようです」
ルカは再び彼女の目線に合わせるように膝をつき、安心させるようにその小さな手を包み込んだ。 再び顔を上げたとき、その瞳には春の陽だまりのような温かさが戻っていたが、その言葉には確かな芯があった。
「ミーナさん。香りはね、人を守り、笑顔にするためにあるものなんですよ。……二度と、こんな悲しい香りをさせてはいけません」
彼女を家まで送り届け、心配で泣き崩れていた母親に引き渡すと、ルカはその様子を部屋の隅で静かに見守った。 薪が爆ぜる乾燥した木の匂い、温かなスープの湯気、そして家族が再会を喜ぶときに漂う、言葉にできないほど優しい体温の混じった空気。
(ああ……そうか。私は、これを知っている)
ルカの胸の奥で、記憶の欠片がほんの少しだけ震えた。 誰かと誰かが寄り添い、幸せを共有する瞬間の、あの圧倒的に幸福な「匂い」。 自身にも幸せを共有する家族の存在があったのだろうか……。
母親から差し出された、お礼の温かいお茶を最後の一口まで飲み干し、ルカは席を立った。
「貴重なお話をありがとうございました。その『薬屋』のことは、私の方でも少し調べてみることにしましょう」
丁寧な別れの挨拶を済ませ、ルカは再び夜の街路へと踏み出した。 夜風が運び込んでくるのは、冷たい夜露と、どこか遠くの草原で揺れる名もなき花の淡い芳香。
ルカは歩きながら、胸元のムエットをそっと取り出した。
「私は……香りで、誰かを幸せにすることができるのでしょうか」
自問自答する声は、夜の静寂に溶けて消える。 記憶の中の優しい香りが、今の彼の唯一の道標だ。 なぜ自分がこんなにも他人の不幸を見過ごせないのか。その答えはまだ霧の向こう側だが、ルカは今日出会った家族の笑顔を思い出し、ふわりと微笑んだ。
「さて。明日はどんな香りが、私を呼んでいるでしょうか。……とりあえず、今度こそは安眠できそうですね」
お節介な調香師ルカの旅は、まだ始まったばかりだ。




