第8話 初披露
ついに、この日が来たか……。
8月も中盤に差し掛かったある日の午後。梅雨明けから続いていた異常な暑さのせいで『船橋』のクーラーは、無言の悲鳴を上げた。
「こう暑くちゃ仕事になんねぇ。幸ちゃんに連絡するわ」
「そうしておくれ。お前さん」
「おぅ」
仕込みの手を止めた恵一は、商店街にある馴染の電気屋に電話した。
「もしもし。幸ちゃん。恵一だけどね、クーラーが故障しちゃったみたいでさ。今から修理頼めるかな?」
「悪いけど、今日は修理の依頼が多くて無理だね。明日なら都合をつけられないこともないけど」
「明日だって?うちは定食屋だよ。これが原因で食中毒が発生したら営業停止。そうなったら断ったお前さんにも責任取ってもらうからな。こっちは本気だぞ」
「脅かすなよ。でも、確かにこの暑さは異常だよな。よし。わかった。それじゃ、こういうのはどうかな?」
子供の頃からの付き合いで恵一の性格や扱い方を熟知していた幸太郎は、恵一の悪態を軽くいなしたあとで、ある取引を持ち掛けた。
「そりゃ。お前さんのお勧めだから信用はするけどさ。でも、先立つものがないのよ」
「俺と恵ちゃんの仲じゃないか。さっきの条件でOKなら、こっちもしっかり勉強(安く)するからさ。但し、このことは商店街の連中には内緒だぞ。あいつらにバレたら順番を差し置く依怙贔屓店って吹聴されるからさ」
「わかったよ。すべてお前さんの言う通りにする。だから一刻も早く来てくれ」
「がってん。じゃなくて、毎度ありがとうございます」
連絡から1時間半後。『船橋』に新しい業務用のクーラーが設置された。
「あの野郎。何が『勉強するからさ』だ。仕事が早いのはありがたいけど、定価の割引分をアフターフォロー代でとやらできっちり補いやがって」
幸太郎が帰ると恵一は仏頂面でぼやいていたが、それも束の間で心地よい冷気が体を包み込むとあっという間に仏顔に変わっていた。
壊れた時はどうなるかと思ったけど、大将の決断が早くて助かったぜ。
夕方前にひと雨降ったこともあり、功は、心の底から新品クーラーのありがたみを感じていた。
「おはようございます」
「今日もよろしく頼むね」
夏休み期間中は、週6日で朝から閉店まで働いていた。長時間労働だったので疲れていないと言えば噓になるが、そのおかげでラーメン以外にも作れる料理は増えたし、日を追うごとに手際が良くなっている実感もあった。
それとは別に、第2の両親と慕っている2人と毎日のように和気藹々と働けるこの生活が楽しくて仕方なかった。
「功ちゃん。悪いけど、いつものやつ頼まれてくれねぇかな?」
夏休みも残り1週間を切ったある日の夜のことだ。
功が店内の掃除をしていると、裏で一服していた恵一から呼ばれ、近所のコンビニまで愛飲していた栄養ドリンクのお使いを頼まれた。
「女将さん。大将のお使いでそこのコンビニまで行ってきます」
功は、奥でお茶を飲んでいた咲子に声をかけて店を出た。
「あのぉ。すみませんけど、お店の方ですか?」
店を出たところで、子供連れの中年男性から呼び止められた。
「はい」
「誰もいないようですけど、ひょっとして、もう、店仕舞いですか?お恥ずかしい話ですが、私もこの子も夕食を食べ損ねてお腹が空いていましてね」
「奥の方に大将と女将さんがいるので、声掛けましょうか?」
「そうですか。いらっしゃるのであればそれでいいです。どうもありがとう」
中年男性と子供は、功に軽く頭を下げてから店の中へ入った。
あの子、小学生くらいだと思うけど、その割には上背あったな。俺より、少し目線が低かったから、正味、160㎝ってところかな。
新平という存在のせいで、物心ついた時から身長にコンプレックスを抱えるようになっていた功は、いつのころからか、目視だけでその人のおおよその身長を当てるという、誰にも誇れない特技を身に付けていた。
まったく、たかだかドリンク1本買うだけでこんなに歩くことになるとは思わなかったぜ。
恵一が飲んでいた栄養ドリンクは、どこにでも売っている普通のドリンクだったが、店側の発注ミスや切れなどの不運が重なり3店舗目にしてようやく手に入れることができた。
これだけ、動いたから、今日の賄のお供は、キンキンに冷えたコーラをリクエストしてやるぞ。
夏場特有の人体に嫌らしくまとわりつく不快な汗を拭いながら功は、店へと急いだ。
うっ……。
暖簾をくぐった瞬間だった。功は、妙な違和感を覚えた。
この短時間に何があったんだ。
それとなく店内を見回すと、さっきの子連れ客と奥の座敷に3人組の男達がいた。
この辺りではまず見かけない異質な風貌(うち1人は、どう見ても不良外国人にしか見えなかった)他人の迷惑を顧みない大声の喋り、極めつけは焼き鳥でも焼いているのかと思うくらい黙々と上がっているタバコの煙。
テーブル席で静かに食べているさっきの親子連れとは対照的に、奥に座っていた3人組は、どこからどう見ても堅気の人間には見えなかった。
「遅くなってすみません」
厨房に入ると、恵一と咲子が渋い顔でひそひそ話をしていた。
「あっ。功ちゃん。お帰り。すいぶん遅かったわね」
咲子が言った。
「どこも売り切ればかりで3軒目でようやく買えました」
「手間かけさせちまったな」
恵一は、ドリンクを受け取ると割烹着のポケットにしまった。
「そんなことより、ちょっと、買い物出ている間に嫌な空気になっていますね」
「あの、座敷に座っている連中。さっき、俺が注文取りに行ったらもの凄く酒臭かったから、絡まれないように気をつけなよ」
「功ちゃん。気を付けようね」
2人の困惑した表情を目の当たりにした功は、もし、何かあれば真っ先にこの老夫婦から助けようと思った。
何もなければそれでいい。功は、3人組が帰るのを静かに待っていた。
しかし、ある人物の一言がきっかけで、その願いが叶うことはなくなった。
「君達。さっきからうるさいよ。もう少し、静かにしてくれないかな?」
声の主は、さっきの子連れ男性だった。
「おっさん。あんた、俺達に喧嘩を売るとはいい度胸しているじゃん」
「喧嘩は売っていない。注意しているだけだ」
「いや、これは完全に俺達に喧嘩を売っているね」
3人組の中の日本人離れしたリーダー格らしき男が言った。
「馬鹿は死ななきゃ治らないっていうけど、本当だな」
それまで、双方とも座った状態で言い合っていたが、子連れ男性の最後の発言でリーダー格らしき男は、酔っているとは思えないスピードで座敷を飛び降りると靴も履かないまま男性の席までやって来た。
「お客さん。暴力はいけませんよ」
仲裁に入った恵一をリーダー格らしき男から少し遅れてやって来た3人組の中で1番痩せている男が「じじいの出る幕じゃねぇ。すっこんでいろ」と胸を一突きした。
「あっ……」
押し倒された拍子に木製の椅子の角に腰を強打した恵一は、床の上でのたうち回ったあとで動かなくなった。
「ちょっと。うちの旦那になんてことするの。あんた達。今から警察を呼ぶからね」
恵一に駆け寄った咲子は、突き飛ばした男を睨みつけながら言った。
「君達。いい加減にしないか」
「うるせぇ。こうなったのも元はと言えばお前のせいだろ?」
「それは……」
男性が言葉に窮したところで、リーダー格らしき男は、ニヤリと笑って握り拳を作った。
そして、男性の胸倉を掴むと「全部、お前のせいだよ」と一切の躊躇いもなく顔面にパンチを叩き込んだ。
「ぐはぁ……」
至近距離からまともに顔面にパンチを浴びた男性は、前のめりに床へ倒れた。
「おい。やっちまえ」
リーダー格らしき男の一声で残りの2人が殴る蹴るの暴行を始めた。
女将さん。早く警察に電話して。
功は、咲子にアイコンタクトを試みようとしたが、咲子は恵一の介抱で功のアイコンタクトに応える余裕はなかった。
この人、マジで死んじゃうぞ。女将さん、早く、電話してよ。電話に一番近い場所にいるあんたが、電話しないで誰が電話するんだよ。
「あんた。しっかり」
あー。終わった。マジ、終わった。
咲子の様子から、警察の介入はもう無理だと思った次の瞬間。気を失っていたはずの恵一の口からとんでもない指示が飛び出した。
「功ちゃん。お得意の柔道でそいつらやっちまってくれ。これは、業務命令だ。全責任は俺が取る」
そんな業務命令聞いたことねぇぞ。でも、まぁ、守るって決めていたし、命令じゃ仕方ないか。
「へぇ。お兄ちゃん。柔道やってんだ。全然、そんな風には見えないねぇ」
気が付くと3人組の興味の対象、いや、標的は、男性から功へシフトチェンジされていた。
「俺、柔道はやっていないけど、結構強いよ」
リーダー格らしき男は、ヘラヘラしながら功の前に立ちはだかった。その目は明らかに功のことを舐め腐っていた。
「はい。一応、やってはいました。そんなに強くはないですけど」
「そうなんだぁ」
リーダー格らしき男は、割烹着の襟首を掴むとさらに功に詰め寄ろうとした。
馬鹿め。まんまと引っ掛かったな。油断しすぎだ。このど素人。
リーダー格らしき男の踏み出した左足が、床に着くか着かないかの瞬間を狙っていた功は、その足首を外側から自分の足の裏で思い切り払った。
「あっ……」
大きく体勢を崩されたリーダー格らしき男は、近くにあったテーブル席の角に頭を打ったあとダメ押しで床にも頭を打ちつけそのまま動かなくなった。
かなり鈍い音がしたけど死んでないよな?
「功ちゃん。凄いじゃねぇか」
「カッコいいー」
功の心配など1ミリも知る由がない老夫婦は、これ以上ない完璧なタイミングで決まった『出足払い』に狂喜乱舞していた。
「功ちゃん。その調子であとの2人もやっちまえ。これは、業務命令パートⅡだ。もちろん、全責任は俺が取る」という敬一に「ゴーゴー」と咲子も続いた。
パートⅡでもなんでもいいけど、マジで責任だけは取ってちょうだいよ。
老夫婦のありがたくない煽りに背中を押された功は、相手の態勢を崩し、自分の体を軸にして相手を落とす『体落とし』という技で残り2人もあっという間にやっつけた。
「あんた達。こんなに店を滅茶苦茶にして。この落とし前、どうつけるつもりだい?」
いつの間に。
咲子の右手を見ると中華鍋が握られていた。店内での連中の横暴な振る舞いにはらわたが煮えくり返っていたのだろう。
「まずは、あんたからだよ。覚悟しな」
咲子は、床に寝転がっている3人の頭目掛けて順番に中華鍋を下ろし始めた。
シンやブッチャーじゃあるまいし。戦意喪失の相手にいくらなんでもやり過ぎだろ?
「女将さん。もう、気は済んだでしょう?それ以上、振り下ろしたら女将さんが捕まりますよ」
4巡目の振り下ろしに入ろうとしたところで、功は、咲子の背後から中華鍋を取り上げた。恵一に目を遣ると、恵一は顔の前で拝みポーズを作っていた。
「お巡りさん。こっち。こっちです。早く来てください」
店先に目を遣ると、男性の子供が表に向かって派手なゼスチャーをしながら叫んでいるのが見えた。
「兄貴。やばいですよ。すぐそこまでお巡りが来ているみたいですよ」
「うー。うー」
「兄貴。しっかりしてくださいよ。こんなところお巡りに見られたら留置場直行ですよ」
「体が動かねぇ。肩を貸せ」
「はい」
リーダー格の男は、痩せ型の男ともう一人の男に肩を借りると逃げるように店から出て行った。
「あのおじさん達って馬鹿だね。連絡もしないで警察が来るわけないじゃん」
おかしいと思ったぜ。ドラマじゃあるまいし、住宅街から離れた場所にあんなに都合良く警官が登場するわけないもんな。
まぁ。でも、この子の機転のおかげであの連中が生きているのが確認できたからよしとするか。
「私のせいで、大変ご迷惑をおかけしました」
3人が消えたあと、奥で咲子に手当してもらっていた男性は、恵一と功に向かって頭を下げた。
「そんなことはいいよ。それより、あんた。武藤さんだろ?こうやって話すのは25年ぶりだね。急に見なくなったけど、元気だったかい?」
恵一が笑顔で訊いた。
「はい。やっぱり、覚えていましたか?その節は大変お世話になりました」
「ところで、そっちはあんたのお子さんかい?」
「はい。息子の敬一です」
「そうかい。結婚したんだ。しかも、俺と同じ名前とは驚いたねぇ」
「字は違いますけどね。あっ、そうだ。このお詫びはいずれ改めてさせていただきます」
「いや。あんたは悪くない。悪いのはあの輩連中だよ。それにしても、あんたのお父さん、立派だね」
咲子が敬一に言った。
すると、敬一は「立派なのは、あそこでお皿を洗っている柔道の強いお兄ちゃんだよ」と功の方を指さしながら答えた。
褒められて嬉しくないわけではなかったが、ここで何も言わないとこの子の価値観が歪んだものになると思った功は、水仕事をしていた手を止めると、敬一に向かってこう言った。
「それは違うぞ。本当に強い人っていうのは、相手が誰であれ、言うべき時に言うべきことを言える人間だ。あなたのお父さんは、それが出来る人。それだけで、立派だよ」
「でも、もし、お兄ちゃんが柔道を習っていなかったらもっと酷いことになっていたかもしれないじゃないか。そうなったらどうするつもりだったの?」
功の説明に納得がいっていないのか。敬一は、間髪入れず別の切り口で反論してきた。
「いい質問だ。そうだな、もし、俺が柔道を習っていなかったら、厨房に入って凶器になりそうなものを手当たり次第にあいつらにぶん投げて、あいつらが怯んだ隙に警察に電話する。もしくは、外に飛び出して大声を出しながら近所に助けを求めるかな。大体、ああいう連中って頭が悪い上に肝っ玉も小さいから暴力しか武器がない哀れな人種なのよ。君の学校にもそういう人間っているだろ?さっきの連中はそれの大人版だよ」
「確かに。言われてみれば。お父さん、馬鹿なこと言ってごめんなさい」
「何から何までご迷惑をおかけしました」
武藤親子は、3人に礼をして店を出た。
「あんた。これ、さっきの連中のかね?」
武藤親子が帰った30分後。座敷を掃除していた咲子が、座布団の下から見付けた黒革の財布を大将に見せた。
「多分な」
「どうする?一応、落とし物だし、警察に届けた方がいいんじゃない?」
「いくら入っているか知らないけど、損害賠償として処理するからありがたく預かってやろうじゃないか」
「それもそうだね。クーラーも買い換えたことだし、出費は最小限に抑えないとね」
「そういうこと」
暴行指示の次は、ネコババかよ。まぁ。これに関しては見なかったことにしよう。
「功ちゃん。遅くまでご苦労さん。これ、タッパーに詰めたから持って帰って家で食べな」
「ありがとうございます」
余計な運動してお腹空いちゃったからいつにも増して美味そうに見えるぜ。
予定外の後片づけで、いつもより1時間近く遅れて家に戻った功は、シャワーでさっと汗を流すと恵一が作った賄飯にかぶりついた。




