第22話 居場所
「立花さん。私、今日で辞めます」
「えっ。塩川さん、まだ、十日目だよ。ちょっと、急過ぎない?」
「勝手なのはわかっています。でも、わたし、ここでやっていける自信がないんです。それに……」
塩川奈津子は、そこまでいうと視線を下に落とした。
「その様子だと引き留めても無駄みたいだね。わかった。サ責の中川さんには俺の方から上手く伝えておくよ。短い間だったけどお疲れ様でした」
「すみません」
人離れを食い止めるためにスタートした正規職員登用と退職金共済加入制度は、当初、画期的なアイディアだと目されていたが、根底がブラック気質の『双葉』には焼け石に水の改革だった。
<それは、つまり、残業代を支払え。そういうことですか?>
<はい>
先月の初め頃のことだ。ある若い男性職員が、朝礼の場でサ責の中川に向かって2ヶ月連続で残業代が支払われていないと直訴したことがあった。
<その根拠とは?>
日本語がわからないのか?それとも、わざとそうやって相手をカッカさせようとしているのか?あるいはその両方か?
中川は無駄に学歴が高いせいか、それが他愛もない雑談でもひとたび口を開けば理屈でねじ伏せようとするところがあった。
早い話がとことん面倒臭い中年だ。
<理由は、いくらなんでもこの人数でこの仕事量は多すぎるからです。それを時間内で終えるのは無理です>
<そこを上手く時間内に終わらせるのが君達の仕事だろ?工夫と努力が足りていない人間に払うお金はありません。文句があるなら別の仕事をやればいい。これで生計を立てないという法律はないですよ。話は以上だ>
<……>
悪事千里を走る。
この一件は、その場にいなかった職員だけでなく他の施設にも悪評判として物凄いスピードで広まった。
事実、その月の下旬に隣町に運営母体の大きな医療法人が経営する関連施設がオープンすると有資格者や経験者、特に20代の若い人達はこぞって『双葉』を離れた。
以上の理由から、現在、残っている職員でフルタイム労働かつ有資格者は、功と今井を含めても数えるくらいしかいない。
どうせ働くなら条件のいいところで働かないと損だよな。
功自身も今後のことを考えたら、すぐに転職活動を始めた方がいいことはわかっていた。それでも、踏み切れなかったのには2つの理由があった。
1つ目は体力だ。それまで、わりと楽勝でこなしていた業務、とりわけ夜勤業務は30代に突入したあたりから体力の衰えと勤続疲労の影響からだんだんときつく感じるようになっていた。
『双葉』の有料老人ホームは、同業他社に比べたら利用者の人数が少ない。そんな状態でこのありさまなのに今より利用者の人数が多い職場に行くのは、単純に自殺行為だとしか思えなかった。
もう1つは、出戻りの職員達から一時の感情で安易に同業他社へ転職した介護職員の結末を嫌と言うほど見聞きしていたからだ。
<郷に入っては郷に従え。っていうけどさ、私には無理だったわ>
<それ、わかる>
<もう、あんな思いはたくさんよ>
<だよね>
どんなに資格や経験があっても他所に行けばそこではピッカピカの1年生だ。
仕事に慣れるまでは年下の先輩から注意されたり叱られることはザラ。それだけならまだいい。場所によっては最初から舐めた口調や態度で接して顎でこき使おうとする頭のおかしい輩もいる。
短時間のバイトや生まれながらのドM気質ならともかく、生活のためとはいえ、そんな環境下でフルタイム労働を続けるのは普通に考えて無理だと思った。
そういう意味で言うと、玉木を筆頭に出戻りOKの風土がしっかり根付いている『双葉』は、その良し悪しは別にして本当の意味で労働者のセーフティーネット(最後の受け皿)としての機能を果たしている職場だと思う。
それは他でもない出戻り率の高さが立派に証明してくれている。
「本当に何も聞いてないんですか?」
「聞いてないよ……ってダチョウ倶楽部じゃないからな」
日本シリーズ終了から3週間が経ったある日の午後。入浴介助を終えた功が浴室の黒カビをこすっていると、隣の脱衣所で吐き掃除をしていた今井が不満そうな顔で話しかけてきた。
前日。新平は、球団が用意した会見の席で改めて現役引退を表明した。
一部メディアでは他球団からコーチのオファーがあったという話も出ていたようだが、新平はそれを断り、一旦、球界を離れると明言したのだ。
野球はもうお腹いっぱい。だから、別のステージに進むって感じかな?だとしたら、じつに兄ちゃんらしい。
<いいか。功。1軍選手としての寿命はどんなに長くてもせいぜい10年が限界だ。特に俺みたいな遅くにプロに入りした選手は、常にセカンドキャリアを意識しながら生きて行かないといけない。何故なら、引退後の人生が圧倒的に長いからだ>
ドラフト会議が終わった次の週だった。由紀子の提案で生まれて初めて兄姉の3人だけで都内の高級レストランで食事をした際、新平は早くも第二の人生について熱く語っていた。
まだ、1球も投げていないうちからよく言うわよね。
以前の由紀子ならきっとそんな感じの皮肉を口にしていたと思う。
でも、この日は、皮肉どころか終始暖かい眼差しで新平の話に耳を傾けていた。
自分の人生をしっかり考えている大きな子供。
手前勝手の推測だが、この時、家庭を持ち、兄姉の中で人の親に一番近いポジションにいた由紀子は、新平のことをそんな風に見ていたと思う。




