第18話 迫る危険
8月10日。『双葉』で初めての月給を手にした。
あれだけ働いてこれか……でも、まぁ、この間までの生活を考えたらこれでも十分ありがたいことだよな。
時給生活から月給生活に戻ったことで、多少なりとも生活は楽になった。といっても給料に満足しているわけではない。社会保険に加入したことでそれまで全額自腹だった国民年金と国民健康保険を会社と折半で納められるのは、家族、とりわけ小さい子供を抱える功にとってこれは大きな恩恵だった。
何かあったな?
契約職員になって5ヶ月が過ぎた12月のある日のことだ。この日、出勤予定だった沖田が発熱で休むことになり、ピンチヒッターで出勤した功は厨房に入るなり嫌な空気を感じた。
「おはようございます」
「あぁ。立花さん。休みのところ悪いね。辻さんも繋がらなかったし、さすがに俺1人だとしんどくてさ」
沖田は3人の先輩の中で1番若い(といっても65歳)が、1番体力がない。それだけでなく抱えている持病も多い。
一方、二世帯住宅で息子の家族と一緒に暮らしている辻さんは、日頃から孫の世話に忙しく休みの日の連絡は繋がらないことが多い。
以上の理由から、辻さんの休みの日にもう1人が休むことになると自動的に功が出勤するシステムになっている。
ふぅ。何度も経験しているとはいえ、心の準備が出来ていない時の出勤ってマジ疲れるな。
「立花さん。たまには外で飯にしようや」
外で?こんな寒い日に?っていうか、表情といい雰囲気といい朝から少しおかしいぞ。
忙しさで忘れていた朝の妙な違和感を思い出した功は、取り合えず加納さんの指示に従うことにした。
思っていたより寒くないな。
外のベンチに座った功が、急ごしらえで作った鮭入りのおにぎりを口に運ぼうとした時だった。
「あの男が出戻って来たら、辻さんも沖田さんも辞めるだろうな」
横に座っていた加納が口と鼻から大量のタバコの煙を吐き出しながら、ギリギリ聞こえるか聞こえないかの音量で呟いた。
なるほど。それで、辛気臭い顔だったのか。
内容はともかく、朝の違和感はこのことだなと確信した。
本当はもうちょっと詳しく内容を知りたかったが、10分、いや、5分でもいいから横になりたかった功は、加納がタバコを吸い終わると無言で頭を下げてからその場を離れた。
あの加納さんが言うくらいだから、その出戻りの男って、相当、やばい人なんだろうな。
職場内だけかもわからないが、加納は他人の陰口や文句を言う人ではなかった。だからこそ余計に説得力があった。
「おはようございます」
「おはよう。立花さん」
「おはようさん。この前はありがとう。助かったよ」
「おはよう。功ちゃん。この前は急遽出勤させちゃってごめんね」
「そんこと気にしなくてもいいですよ」
この日は、珍しく4人が揃った。といっても、加納さんと病み上がりでまだまだ本調子ではない沖田さんは正午から午後4時までの時短勤務。辻さんと功は従来通りのシフトでの出勤だったので4人が被っているのは3時間だけだ。
「ねぇ。さっき、介護の連中にチラッと聞いたけどあいつ、年明けに戻って来るらしいわよ」
「それ、私もさっき聞いたわ。この業界って出戻り多いけど、あいつだけには戻ってきてもらいたくないわ」
お昼の大戦争が完全に終結した午後2時過ぎ。辻さんと沖田さんが厨房の隅で話しているのが聞こえた。
多分、あの時、加納さんが言っていた例の男のことだな?よし。いい機会だし、思い切って訊いちゃおう。
本来なら加納さんに訊くのが筋だとは思ったが、あいにく、この時、加納さんは休憩に行っていた。
「お取込み中すみません。あのぅ、あいつって誰のことですか?」
功は、恐る恐る2人に切り出した。もちろん、シャットアウトされたらという気持ちがなかったわけではないが、知りたいという好奇心には抗えなかった。
「社長の甥っ子の玉木将司のことよ」
辻さんがうんざりした顔で言うと「今度こそここも本当に終わりだね」と沖田さんが暗い表情でこれに続いた。




