第15話 幸と不幸は紙一重
この人と一緒ならきっと幸せになれるだろうな。
例の一件をきっかけに泉との距離が急速に縮まった功は、いつの頃からか『結婚』の2文字を意識するようになっていた。
実際、これまでにも何度かプロポーズを試みようとしたが、そういうムードになると決まって緊張感や責任感の重さに押し潰され何も言い出せないまま時間だけが流れていた。
とにかく、気持ちだけは伝えないと。
このままだといけないと思った功は、藁にもすがる気持ちで人生の先輩かつ結婚の先輩でもある新平と由紀子に相談した。
<言うだけ言えばいいじゃないか。それでダメだったら次の人を探せ。まぁ。俺の嫁より美人はなかなかいないと思うけどな>
<馬鹿ね。そんないい子がいるならとっとと既成事実作って一緒になっちゃえばいいのよ。案ずるより産むがやすしって言うでしょ?悩まない。悩まない。まずは行動あるのみよ>
功の相談に対し、新平は適当プラスおのろけ全開。一方の由紀子は、到底女性とは思えないアドバイスをしてきたので、以降、2人へは相談していない。
えぇい。こうしている間にも2人の人生の貴重な時間は削られていく。今日こそは言わねば。
「これが似合うのは世界であなたしかいません。僕と結婚してください」
来月、24回目の誕生日を迎える功は、デートの途中、指輪を差し出しながらプロポーズした。
「嘘?これ、小さいけど本物のダイヤじゃない。うちの安給料でよく買えたわね。ひょっとして、会社に内緒で副業でもやっているの?どっちにしても、あの給料でこれだけのことが出来る男なのでオッケーです」
気安くオッケーって……。
イエスでもノーでもない返しに功は発声することを忘れていた。同時にこういう場面でも臆せず自分の意見を言うところもひっくるめて一緒になるならこの人しかいないと思った。
「そういえば来月、誕生日でしょ?」
会計を済ませ店から出た時だった。泉がいたずらっぽい顔で訊いてきた。
「うん」
「そしたら、婚姻届はその日に出そうね」
「どうして?」
「そっちの方がこの先ボケても覚えていそうな気がするから」
ボケた時点で忘れているだろ?
昨日までの自分ならきっとそんな野暮な突っ込みを入れていたと思うが、泉との付き合いの中で『受け流す』という技術の大切さを学んでいた功は「そうだね」とだけ返してこれから掴むであろう幸せの空想を膨らませていた。
「立花さん、じゃなくて、功さん。今後ともよろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしく」
翌月。身内だけのささやかな式のあとで2人は夫婦になった。
「ここが私達の新居になるの?初めて入ったけど、結構、いいじゃない」
「気に入ってくれてうれしいよ」
入籍から1週間後。2人は、駅から徒歩15分のところにある1LDKのマンションへ引っ越した。
家探しについては、いずれ寮を出るつもりでいたので日頃から情報収集していたおかげでスムーズだった。
問題は、今後の生活費だ。というのも、共働き家庭で育った泉は、以前から結婚したら1度でいいから専業主婦というものを味わってみたいと言っていた。それがどのくらいの期間になるかわからないが、そうなると当面は功の給料だけで生活していかないといけなくなる。
あー。もう少し残ると思ったけど、甘かったな。でも、まぁ、これも幸せの先行投資だから仕方ないっちゃ仕方ないか。
新平からもらった桁違いのご祝儀や由紀子からの不用品を譲り受けてこれだから『船橋』時代から始めていた積み立て預金をやっていなかったらと思うと余計に肝が冷えた。
弁当もいいけど、たまには外食したいな。いかん。いかん。贅沢は敵だ。
正直、この頃の生活は苦しかった。それでも、若さとお互いがお互いを尊重することで精神状態だけはどうにか安定していた。
面白いもので、物質的には不自由していても精神状態が安定していると、それが、思いがけない形となって現れる。
結婚から1年後。功は現実にそれを経験することになった。
「立花。お前に大事な話がある。悪いけど、先に会議室へ行ってくれ」
トイレから戻ったところで課長の赤坂栄治から言われた。
相変わらずの呼び捨てかよ。小島さんとは大違いだな。
赤坂は、功が経理課に配属されて2人目の課長だ。前課長の小島は、仕事には厳しい人だったが、根は優しく明るく朗らかだった。間違っても社員を見下したり、呼び捨てにすることはなかった。
ところが、赤坂にはそういう概念というか気遣いが一切ないらしく、おかげで職場の空気は常にどんよりかつピリピリしている。
因みに赤坂の名前は漢字表記では『栄治』だが、読みは『しげはる』だ。
今年の夏に自分も人の親になった手前、他人の親の名付け方にケチをつけるつもりはないが、こういう強引というか無理やりなところが遺伝子を介して性格面にもしっかり反映されている気がしてならない。
マジでいい加減にしてくれ。地球はお前中心に回っているわけじゃねぇんだぞ。
会議室に行くようにと言われたが、赤坂はいつものごとく10分経っても15分経っても現れない。
「待たせたな」
何が<待たせたな>だ。お前は、コント赤信号のリーダーか?嘘でもいいから遅れたことを詫びるのが先だろ。そんなこともわからないでよく課長になれたな。
喉から先に出したら間違いなく上司批判となる言葉を必死に飲み込むと同時に顔も神妙な面持ちを装う。
「時間もないから本題に入るぞ。係長の山岡が病気で退職することは知っているよな?」
「はい」
「それでだ。人事部長の方から、近日中に山岡の後釜を決めろと言われている。私としては城田君が適任だと考えているが、どういうわけか人事課の方ではお前が適任という声が挙がっているらしい」
赤坂はそこまで言ってニヤリと笑った。
何故、そこで笑う?こいつ。いい歳してそういうところが人として終わっているってわからんのかな?
「話は以上だ。本決まりになるまで口外しないでくれ」
「わかりました」
わからん。何故、人事課は俺のことを評価しているんだ?
学歴、年齢、入社年次、そして、小学校から大学まで赤坂と同じ学校の先輩後輩という間柄を考えると城田が係長になるのが妥当な線だ。
それなのに学歴もなければ入社した年にトラブルを起こして経理課へ配属された自分が対抗馬になるとは夢にも思っていなかった。
「あのさぁ」
帰宅後。長女の里佳子を寝かしつけたあとで泉に今日の出来事を話した。
「なんで人事で俺の名前が挙がったのか?それがよくわからん」
「それ、多分、城田さんの病気の問題だと思うよ」
「病気?」
「そう。あの人、躁鬱病なのよ。知らなかった?」
前々からおかしな言動をする人だなとは思っていたけど、そういうことだったのか。
泉の言葉ですべてが腑に落ちた。
人事としては、病気で退職が決まっている前任者の後釜に病気を抱えている人間を据えるのを避けたかった。そこで、可もなく不可もない自分が一応の候補に挙げられた。
憶測ではあるが、これ以外の理由で自分の名前が挙がることは考えられなかった。
「正式な辞令が出るまでいつも通り黙って働けばいいのよ。もし、今回、話が流れてもあなたなら近いうちにきっとチャンスは巡って来るわよ」
この子が3歳くらいまでは融通の利くヒラでいたかったな。
予期せぬ形で始まった人生初の出世競争は、人事課と前任者の山岡からの推しであっさり勝利。その結果、10月1日付けで新係長になることが決定した。
余談だが、後日、仲の良かった人事の人から25歳での係長昇進は、異例中の異例で経営者一族を除くと最年少記録だと言われた。
よし。今日も張り切ってやりますか。
係長になったことでヒラの頃より責任感は増したが、同時に給料の方も地味にアップした。
このままじゃ、仕事にならん。最近、忙し過ぎて休みも取れなかったしいい機会だから早めに帰って休もう。
係長に昇進して1年と3ヶ月が過ぎた1月中旬のある日のことだ。この日は朝から冷え込みがきつく、年明けから体調を崩していた功は、病院に行くため午後から早引きするつもりだった。
「おい。立花。今すぐ、会議室に行け。大至急だぞ。わかったか」
赤坂はいついかなる時も横柄な態度だが、この日の横柄さはいつもと勝手が違っていた。
はい。はい。行きますよ。行けばいいんでしょ。
熱と疲れで心身ともに疲弊しきっていた功は、元気なく会議室へ向かった。
コン。コン。
ノックのあとで、戸を開けて部屋に入った。
なんだ?
部屋の真正面に置かれていた長い机には、左側から見覚えのない老年の男、人事部長、老年の女が並んで座っていた。
「まぁ。掛けてくれ」
中央に座っていた人事課長の促しで功は、正面に置かれていたパイプ椅子に腰かけた。もちろん、頭の中はボーっとしている。
「こちらは、城田さんのご両親です。単刀直入に伺います。立花さん、あなた、最近、城田さんを叱責しましたか?」
ひょっとしてあのことか?
年明けから10日ほど経った頃だ。仕事中、城田がいきなりハイテンションになったことがあった。これまでにもそういうことは何度かあったが、赤坂と自分と三島がいい具合に抑止力となり大事には至っていなかった。
ところが、その日、赤坂と三島は揃って有給を取っていた。また、間の悪いことに自分もその時間帯は所用で事務所にはいなかった。
30分くらいして戻ってくると新人女性職員の1人が「係長。あの人。係長が居なくなった途端、私にまとわりついて来たんですよ。とにかく、しつこいし、気持ち悪いです」と目に涙を浮かべて訴えてきた。
〈城田さん。ちょっと、外に出ましょうか?〉
事情を把握するのが先だと思った功は、城田を連れ出して何があったのかを問い質した。
<すみませんでした>
聞き取り調査が終わると、城田は事実を認めて謝った。
「つまり、あなたは事情を聴いただけでそれ以上のことは何もしていない。そういうことですか?」
「いえ。今回はあまりに酷かったみたいだったので最後に軽く頭を小突きました」
人事部長の聞き取りに<はい>とだけ答えてシラを切り通すことも出来たが、30後半にもなって親を会社へ乗り込ませる城田のやり口に無性に腹が立っていた功は、敢えて事実を口にした。
「うちの息子はあなたに叩かれたせいで会社に行くのが嫌だと言っています。私達は、あなたのことが許せません。来月中には弁護士を立てて裁判します」
父親は、横で泣き崩れている母親の肩を抱きながら鼻息荒く捲し立てた。
マジだな。この人達。
熱とだるさでボーっとしていた頭でもそれだけは伝わった。仮にそういう状態でなかったとしてもこういう人種はこっちがどんなに謝っても謝罪を受ける気はないだろう。
裁判も結構だが、その前に病院に行って治療するのが先じゃないの?
せめて、そんな捨て台詞が吐けたら少しは溜飲も下がっただろうが、それが出来ないほどこの日は体調が悪かった。
結局、この件は城田の両親と会社の話し合いに任せることになった。
「ごめん。俺、無職になっちゃった」
翌月末日。訴えを取り下げる条件と引き換えに功は、高卒から8年近く勤めた会社を辞めた。
「悪いことしてないのにお父さん馬鹿ですね。でも、カッコいいから許そうね」
泉は腕の中で眠っている里佳子に向かって遠まわしに励ましてくれた。
しばらく休んだらすぐに仕事を探さなきゃ。
理解のある泉と天使のような寝顔を見せてくれる里佳子のおかげで、家庭の中では平常心でいられたが、人間不信という名の心の病は、静かにそして着実に功の心を蝕み始めていた。




