第13話 永久就職
嵐の年の瀬から10日が過ぎた。昼前、実家に帰省した功は、孝之と一緒に正月恒例のお笑い番組を観ながら幹子が作ったお節料理を食べていた。
せっかくの手料理だから残したくはないけど、これ以上は無理だな。
幹子のお節は、独り暮らしで粗食に慣れ切っていた功の胃袋にはちょっとばかり量が多かった。
「明けましておめでとうございます」
箸を置いた直後だった。背後からスーッと戸が開く音が聞こえた。振り向くとそこには上下ジャージ姿の新平が立っていた。
「遅かったな。まぁ、いい。そんなことより座ったらどうだ」
「うん」
孝之の促しで新平は、功の対面に座った。
兄ちゃんってこんな感じだったっけ?
痩せたのか。それとも、やつれたのか。久しぶりに見た新平の顔は、前に会った時よりも一回り小さくなっていたような気がした。
「へぇ。この番組。まだ、続いていたんだ。あっ。こいつら、俺が小6の時に見た時と同じネタやってる」
恐るべし記憶力。日頃から配球に神経を遣っているからかな?
画面に映っていた漫才師は、テンポこそ当時よりスローになっていたが、功が小2の時に観たものと全く同じネタだった。
「母さん。父さん。俺、このあと個人トレーナーと約束しているからそろそろ帰るね」
「あんた、帰ってきてからまだ1時間も経ってないわよ。もう少し、ゆっくりしていきなさいよ」
「そうだぞ。正月休みくらいのんびり過ごしてもバチは当たらんだろ」
「うん。そうしたいのは山々だけど、こっちもトレーナーと会う前にいろいろと準備することがあるからさ」
「仕方ないわね。でも、あんた、前に会った時より少し痩せたみたいだけど、ちゃんと食べないとダメよ」
「わかってるって」
由紀子が来たのは、新平が帰ってから30分ほど経った頃だった。
「お母さん。お兄ちゃん、また、黒豆と海老ばかりつまんでいたでしょ?」
「あの子、昔からその2つには目がなかったわね」
「黒豆と海老だけであそこまで背が伸びるんだったら、俺もたくさん食べておくべきだったな」
へぇ。兄ちゃんって黒豆と海老が好物だったんだ。今日の今日まで知らなかったよ。
横で3人の会話を聞いていた功は、何とも言えない疎外感に包まれていた。
「それはそうと、功。お母さん達に言わないといけないことあるんじゃない?」
新平の話題が一段落した時だった。
湯呑を置いた母親が唐突に切り出した。
姉ちゃんだな。いや、こんなことをするのは世界、いや、宇宙広しといえども姉ちゃんしかいない。
功はそれとなく由紀子の方に目を遣った。すると、由紀子は「ごめんね。つい、口が滑って」と例の配置転換事件を母親に報告したことをあっさり認めた。
「由紀子から聞いて大体の事情は知っているわ。でもね、1年以上も黙っているってどういうこと?あんた、親を馬鹿にしているの?」
「功。お母さんの言う通りだぞ」
「ごめんなさい」
事情が事情だったので、両親からのお説教タイムはすぐに終わった。
あぁ。だるい。めちゃめちゃだるいぞ。
正月休みが終わった翌日。今年、初めてのタイムカードを押した功は、自席に座るとパソコンの電源を立ち上げた。
年末年始の休みで乱れていた生活リズムと鈍っていた仕事勘のせいで初出勤から数日は、しょうもない凡ミスを連発していたが翌週にはすっかり元に戻っていた。
年を取ったら、時の流れが早く感じるって言うけど、あれ、本当だな。
卓上カレンダーに目を遣ると、来週の途中から3月の日付になっていた。
こういうことは日頃からマメにやっていないとダメだな。
3月に入った最初の土曜日。功は、洗濯機の中に溜まっていた洗濯物を入れると、浴室の掃除に取り掛かった。
このヌルヌルなかなか取れないんだよな。
バスタブを擦っている時だった。
ブーブーブー……。
リビングの方から洗濯機の音とは別の機械音が聞こえた。
こんな時間に誰だろう?
掃除を中断した功は、手を洗って浴室を出た。
「もしもし。今、大丈夫?」
電話は、由紀子からだった。
「あのね。いきなりだけど、私、結婚することにしたの。近々、顔合わせを兼ねた食事会をやるから是非とも参加するように」
突拍子もない内容に功は、かなり遅れてから「えー」と叫んだ。
これって、ドッキリじゃないよな?
功が驚くのも無理はなかった。由紀子は学生時代から社交的で異性の友達も多かったが、浮いた話を耳にしたのはこの時が初めてだったからだ。
相手の人の名前は?年齢は?仕事は?知り合ったきっかけは?付き合ってどれくらい?……。
質問したいことは山ほどあったが、そこは由紀子の方でも想定済みだったみたいだ。
「功。あんた、今、頭の上に私に対するいろんなクエスチョンマークが浮かんでいるでしょ?私だって年頃の女だからそこはいろいろあるのよ」
由紀子は、含みを持たせた口調で電話を切った。
「おい。功。由紀子の旦那の顔。あれ、昔の武藤にそっくりでなかなかの男前だな」
確かに。顔だけでなく雰囲気も似ている気がする。
2週間後。身内だけの食事会に参加した功は、新平の的確過ぎる指摘に感心していた。
親族同士の簡単な挨拶が終わったところで、由紀子の夫となる中肉中背の男性が新平と功のところにやって来た。
「初めまして。荒木康弘といいます」
「由紀子の兄の立花新平です」
「弟の功です」
新平も功も両親からの情報で年齢は由紀子より3つ上、職業は都内のホテル勤務ということは知っていたが、荒木と会ったのも言葉を交わしたのもこの時が初めてだった。
「荒木さん。結構、引き締まった体しているけど、学生時代、何かスポーツしていたの?」
コップのウーロン茶を一口だけ飲んだあとで、新平が訊いた。
「はい。小学生の頃は野球をやっていました。でも、ずっと補欠だったので、中学に入ってから陸上を始めて、高校を卒業するまでやっていました」
「因みに種目は?」
「主に800でした」
「スプリントでもなくマラソンでもなく中距離か。また、渋いところ選んだね」
兄ちゃん。おめでたい席なのに感じ悪いよ。
功は新平の物言いに内心、冷や冷やしていたが、荒木は「えぇ。そこしか、レギュラーを狙えなかったので仕方なくって感じです」とさわやかに答えていた。
「お兄さんならきっと、プロになれますよ」
「ありがとう」
新平とのスポーツ談議が終わったところで、功は、荒木にどうしても気になっていた質問をぶつけた。
「ところで、荒木さん。姉ちゃんとはどこで出会ったんですか?」
「自動車教習所です」
「また、変わった場所で出会いましたね」
「お恥ずかしい話ですが、じつは私……」
子供の頃から機械の操作が苦手だった荒木は、マニュアル車の検定試験に何度も落ちていた。自分の不甲斐なさに免許を取るのを諦めようとした時に声を掛けてきたのが由紀子だった。
<あのぉ。以前からよくお見かけしますが、そろそろ、卒検ですか?>
<それが……>
前の週。検定試験に落ちて心が弱り切っていた荒木は、初対面にも関わらず気が付くと愚痴をこぼしていた。
普通の女性ならここで<なんだこいつ>と思われ避けられてもおかしくないところなのだが、元来が世話焼き星人かつ顔面ドストライクだった由紀子にその選択肢はなかった。
<ふーん。そうなんだ。でもさぁ、別にマニュアルに拘る必要はないじゃん。マニュアル車って操作が多くて不便なだけよ。運転するだけならオートマ車で十分じゃん>
<もし、仕事でマニュアル車を運転しないといけない場合はどうするんですか?>
男は、マニュアル車を運転してナンボ。
今じゃ、考えられないだろうが、当時はそういう風潮がまだ根強く残っていた。
荒木は言わなかったが、この時の由紀子の物言いにイラっとしたはずだ。
ところが、次の言葉を聞いてそれが男のしょうもない見栄だと思い知ることになった。
<そんなの簡単よ。「私、オートマ車しか運転できません」ってはっきり言えばいいじゃん。私、前から不思議に思っていたけど、だいたい、マニュアル車のメリットってなんなのよ。壊れた時に修理しやすいとかオートマ車に比べて馬力が強いぐらいでしょ?」
だよな。無理してマニュアル車を運転する必要なんかないよな。
わずか数分のやり取りで『男たるものマニュアル車くらい運転出来なきゃダメ症候群』の呪縛から解き放たれた荒木は、翌月、オートマティック車の免許を取得した。
「あの時、由紀子さんと出会っていなかったらと思うとゾッとします」
運転免許を取得した荒木は、急な人事異動で東京郊外の支社へ配属された。幸運にもそこの社用車は全部オートマ車だった。今は役職に就いているので仕事上で自ら運転する機会はないらしい。
「最後にもう1つ質問していいですか?」
「はい」
「ずばり、姉ちゃんのどこを好きになったんですか?」
「視野の広いところです」
荒木は間髪入れずに答えて笑った。その顔は、人気絶頂時の武藤よりも格段に色気があった。
「お父さん。お母さん。今まで育ててくれてありがとうございました。私達、末永く幸せに暮らします」
「必ず由紀子さんを幸せにします」
年度最後の日。由紀子の苗字は、立花から荒木へ変わった。




