第11話 タイトル
「いいかね。経理という仕事は、帳簿が読めないとお話にならないんだよ。それとは別に会計ソフトの使い方も覚えないといけないですよ」
銭勘定だけでなくパソコンの使い方まで覚えないといけないのかよ。
本社の経理部へ異動した初日。図形や関数は苦手でも計算だけなら問題ないと高を括っていた功は、経理課長との面談でその甘い考えは瞬時にして吹き飛んだ。
「ところで、立花さんは高校は普通科だったよね?」
「はい」
「それじゃ、まずは来年の1発目に行われる3級に合格するように。それを取ったら次は2級です。遅くても来年いっぱいで取るようにしてください」
「わかりました。前向きに善処します」
「なんだそりゃ?若いのに昔の政治家みたいな答弁だね。君、面白いね」
別にウケ狙いでもなんでもなく、単純に「はい」とだけ返すとプレッシャーになるし「無理です」と返すのもなんか反抗期の中学生みたいで嫌だったので、自分としてはその間を取って返したつもりだったが、どうやらそれが課長の笑いのツボを刺激したようだ。
「是非、前向きに検討して下さいね。期待していますよ」
面談を終えると課長は、笑顔で席を立った。
業務命令とはいえ、こりゃ、大変なことになったぞ。
帰宅後。風呂と食事を済ませた功は、帰りに立ち寄った書店で購入した簿記のテキストと問題集をテーブルの上に広げた。
『簿記とは、正式名称は帳簿記入と言います。簿記のルールは世界共通です。まずは、仕訳をやります・・・・・・』
活字離れの期間が長かったせいか。それとも慣れない事務仕事で精神が疲弊していたのか。
テキストの1ページ目を読んでいる途中から急激な眠気に襲われた。
いかん。いかん。
気合を入れるため、流しまで歩いて思い切り蛇口をひねって顔を洗った。
ふぅ。少しはマシになったな。
ある程度、眠気が消えたところで頭にタオルを巻いた。
今はわからなくてもいい。大雑把でもいいからザっと一通り目を通すのが先だ。
借り方?貸し方?B/S(貸借対照表)?P/L(損益計算書)?
簿記独特の用語に頭の中は、パンクに次ぐパンク状態だったが、この日は意地と根性でどうにか目標のページ数まで目を通して眠った。
翌朝。いつもより2時間ほど早く起床した功は、仕事に行く支度と弁当作りを済ませると、前日まで読み進めたページに再度、目を通した。
理解よりもまずは、勉強するという習慣を身に付けることが重要だと考えての行動だった。
これは、現金だから『資産』と思いきや支払いだから記入は『貸し方』だよな。
継続は力なりとはよく言ったもので、この小さな努力を半月、1ヶ月と続けるうち、なんとなくだが、自分の得手不得手がわかるようになってきた。
最初は、読むだけで眠くなったけど、やってみたらそんなに難しくないな。
必要に駆られて始めたことではあるが、同時に、それは功に自信という副産物を与えてくれた。
これだけ、勉強したんだ。よほどのことがない限り合格最低点(70点)はクリアできるはずだ。
翌年。人生初の資格試験に臨んだ功は、85点で難なく簿記3級に合格した。
この調子で2級も取るぞ。1発合格で気を良くした功だったが、世の中そんなに甘くはなかった。
マジかよ?1級しか違わないのに恐ろしく難しくないか?
3級と2級の間にある見えない壁は、想像していた以上に高く、また、分厚かった。
勉強のやり方自体が間違っているのかな?
教材を変える。問題を解く順番を変える。勉強する時間を増やす。
あらゆる方法を試してみたが、どれもしっくりこなかっただけでなく試せば試すほどわけがわからなくなった。そのうち、勉強を続ける気力を維持するのも難しくなっていた。
どうしよう。このままだと、今年中どころか何年かかっても合格なんて無理だよ。
頭ではわかっていても肝心のやる気は起きない。
焦りと悩みの雪だるまは、日を追うごとに大きくなっていった。
あー。もう、疲れた。いっそのこと、どこかのレストランに転職して見習いコックからやり直そうかな。
暇さえあればそんなことばかり考えるようになっていた。
数日後。たまたま、やっていたお笑い番組を目にしたことでこの逃げの姿勢は一変した。
<どうやったら、東大に入れますか?>
<そんなの簡単ですよ。合格に必要なことを必要な分だけしっかり勉強して合格最低点を1点でも超えれば誰でも入れますよ。まぁ。僕の場合、東大といっても文1じゃないですけどね>
<あのぉ。文1ってなんですか?>
<法学部のことですよ>
<へぇ。東大では法学部のことを文1っていうんですね。私、馬鹿だから知らなかった>
<でしょうね>
<酷い。そこは何も言わないで流すところでしょ>
美人でおバカを売りにしているインタビュアーの女性タレントからの返しに東大卒の男性タレントは苦笑を浮かべていた。
オチが弱い。それと、リアクション(突っ込み)も甘いというか優し過ぎるだろ?
いつもだったら、これで終わっていたと思うが、試験ノイローゼに苛まれていた功にとってこれは目から鱗のやり取りだった。
そうか。必要なことを必要な分だけやればいいのか。
1日でも早く合格しなきゃいけないという強迫観念から、知らず知らずのうちに無用なプレッシャーを抱え込んでいたことに気が付いた功は、初心に戻って勉強方法を見直すことにした。
合格最低点。それさえ、取れば合格なんだ。
それからの勉強方法は至ってシンプルだった。まず、過去問で出題傾向を把握し、問題集にあるAランク(頻出頻度が高く絶対に取りこぼしてはいけない問題)とBランク(取りこぼしてはいけない問題)の箇所だけを徹底的に反復学習するという方法に切り替えた。
とはいえ、試験が難しいことには変わりはない。受験前日まで数えきれないくらいの挫折と不安を経験しながらその日はやって来た。
多分、大丈夫だろう。
年内最後に実施された試験は、前回より若干、難易度が下がったという幸運も重なり、ギリチョン(合格最低点の70点ちょうど)で合格した。




