第10話 さらば厨房
まだ、肌寒さが残る3月中旬。
半月前、無事、高校を卒業した功は、孝之の運転する軽トラに揺られながら就職先の会社が用意してくれた社宅へ向かっていた。
「着いたぞ」
ラッキー。
建物を見た功は、一気にテンションが上がった。
昨年の秋に行われた会社説明会で、総務の担当者から1つだけ新築物件があると聞いてはいたが、まさか、自分がそこに入れるとは夢にも思ってもいなかったからだ。
「それじゃ。荷物、運び出すぞ」
軽トラの荷台に昇った孝之は、バケツリレーの要領で積み込んできた家財道具を次々と功に渡した。
「よし。次で、最後だ」
人生初の引っ越しは、30分足らずで終わった。
「しかし、お前、いくら、独り暮らしだからって少な過ぎやしないか?」
荷台から降りた孝之が、不安そうな顔で訊いてきた。
「男の独り暮らしだから、これで十分だよ」
孝之にはさらりと言ってのけたが、『船橋』で働いていた時に貯めたお金を極力減らしたくなかったというのが本音だ。
「それじゃ。父さんは帰るけど、なんか困ったことがあったら新平や由紀子にも相談するんだぞ」
幸か不幸か。不幸か幸か。
当時、新平と由紀子の住まいは、社宅の最寄り駅から乗り換えなしで行けるターミナル駅の2つ手前の駅から徒歩で10分の場所にあった。
それにしても、疲れたな。シャワー浴びて、食うもの食ったらさっさと休もう。
シャワーでさっと汗を流した功は、夕食時には少し早かったが、実家を出る前に
自分で拵えた弁当を食べた。
あー。美味しかった。
弁当箱を洗うと、自宅から運んできたばかりの就寝用マットを広げ体を横にした。
瞼が重いな……。
移動と引っ越し作業の疲れと満腹感は、5分もしない間に功を深い眠りに誘った。
俺と違って、どいつもこいつもそれなりに様になっているな……
翌日。見習いのコックとして働くことになっていた功は、この日のためだけに新調したスーツに身を包み、オリエンテーションが行われる会場へ入った。
「それでは、只今より、新入社員オリエンテーションを始めます」
この日のオリエンテーションは、会社の偉い人達の挨拶に始まり、社史、法人の理念と目標、各部署の事業内容、最近の業績、最後にあらかじめ割り当てられていた新入社員同士グループに入って自己紹介を行うという流れで終了した。
やっぱり、誰だってそうなっちゃうよな。
午前9時から3時間ぶっ通しで行われたオリエンテーションが終わると、新入社員の大半が功と同じように疲れ切った表情で会場をあとにしていた。
「立花功です。よろしくお願いします」
翌日。配属先のレストランに初出勤した功は、朝礼で居並ぶ先輩コックや従業員に挨拶した。
「立花さん。君の教育係は、井川さんだ」
「井川です。よろしくね」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
コックの同期は3人。功は、その中で1番若かった。
「それじゃ、そっちにある皿から洗って」
「はい」
郷に入っては郷に従え。
『船橋』での経験を完全リセットした功は、教育係の井川はもちろん、調理経験者と聞いていた同期の2人からも貪欲に学ぶ姿勢でいた。
「立花さん。君、以前にどこかで働いていたことあるでしょ?」
3ヶ月の試用期間が終わった翌日。この日を以て正式に社員となった功がいつもの
ように厨房の隅で昼の賄飯を食べていると先に食べ終わっていた井川から唐突に訊かれた。
「えぇ。地元の小さな定食屋で2年半ほど働いていました。といってもバイトだったのでそこまで手の込んだメニューは作れませんけどね」
「やっぱり、そうでしたか。初めてにしては鍋の振り方が様になっていたから、そうじゃないかなとは思ってたんだよね」
「そんなことないですよ。あっちにいる同期の佐々木さんや近藤さんに比べたらまだまだですよ」
「確かにあの2人は、資格も経験もあるみたいだけど、佐々木さんはプライドが高いし、近藤さんは言われたことしかやらない。2人とも、正直、コックという職業には向いていないと思うんだよね」
おい。おい。変なこと言うなよ。聞こえたらどうするんだよ。2人とも同じ社宅に住んでいるんだぞ。
幸い、2人の耳には届いていなかったみたいだが、あっけらかんとした顔で物騒な物言いをする井川に功の肝は、凍てついていた。
3ヶ月後。井川の指摘は、恐ろしい現実となって功の人生に関わることになった。
「これ、作ったの誰?こんなものお客に出したら失礼だぞ」
「それ、俺が作りました。でも、これくらいの失敗は許容範囲ですよ」
「屁理屈はいい。そんなことより、早く作り直せ。時間がない」
「だったら、なおさら、これを出した方がいいでしょ?別に大きく失敗しているわけじゃないんだからクレームなんか出ないですよ」
「そういう問題じゃない」
佐々木が、先輩コックと料理の出来を巡って口論となった。
この日は土曜日。しかも、家族連れも多いランチタイムでのトラブルだったので、ただでさえ忙しかった職場は、どのコックも殺気立っていた。
「さっきからうるさいですねぇ。無駄口を叩く暇があるなら作り直せばいいじゃないですか。デカい図体して頭の中は小学生ですか?」
井川は、仲裁に入るなり佐々木に向かって強烈な毒を吐いた。
「じじい。てめぇ。言いたい放題言いやがって。いい機会だ。てめぇのことは最初に会った時から気に入らなかったんだよ」
佐々木より遥かに体格の劣る井川は、胸倉を掴まれると、あっという間に『人間サンドバッグ』と化した。
いくらなんでも、やり過ぎだろ?
止めに入りたいのは山々だったが、どうしても手が離せない仕事をしていたうえに2人がやりあっている場所まで少し距離があった功は、誰でもいいから止めに入るのを待っていた。
「おい。じじぃ。さっきの威勢はどうした?」
かつて暴走族の頭を張っていただけあって、気性の荒い佐々木は、執拗に井川を痛めつけていた。
このままだと、井川さん本当に死んじゃうぞ。
誰も止めに入らないことに業を煮やした功は、仕事の手を止めると佐々木に向かって猛突進した。
「佐々木さん、やり過ぎですよ」
功の体当たりで佐々木は、井川の胸倉を掴んでいた手を離した。
「痛えじゃねぇか。てめぇ。俺と本気でやりあうつもりか?」
うっ。こいつ、マジでクサい。吐きそうだ……。
寝起きから仕事の直前まで、しこたまタバコを吸っていたのだろう。ヤニ臭たっぷりの吐息を浴びせられた功は、佐々木の顔を遠ざけようとして無意識のうちに襟首を掴んでいた。
ガッシャーン。
厨房中に響く大きな物音のあとで、佐々木の巨体は、床の上に間抜けな姿で転がっていた。
あぁ。つい、勢いでやっちまった。
「こんな忙しい時に騒ぎを起こすとは何事だ」
物音を聞いて駆け付けたレストランの責任者に功と井川は、強制的に連れ出された。床で伸びていた佐々木は、3人がかりで医務室へ運ばれた。
「立花さん。あなた、社会人としてどうかしているぞ」
「すみません」
「井川さん。あなたも教育係失格ですよ」
「申し訳ありません」
結局、この日は仕事には戻れず2人揃って退社時間いっぱいまで上の人達からお説教を受けたあとで1週間の自宅謹慎を言い渡された。
「よぉ。功。元気ねぇなぁ」
「功。何かあったの?」
理由はよくわからないが、昔から大ピンチに陥った時に限って、何故か2人揃って図ったかのように功の前に現れることが多かった。
「じつは……」
功は、不意に訪ねてきた新平と由紀子に先日の職場での一件を話して聞かせた。
「佐々木さんは、前のところでも素行に問題があったから俺がクビになる可能性は低いって先輩方は言っていたけど、でも、怪我をさせたのは俺だし、下手したら傷害罪で訴えれるかも……」
『船橋』での事件の時は、まだ、学生だったということもあり、そこまで深く心配することはなかったが、今回は未成年とはいえ社会人なので仕事を失うだけでなく前科者になるかも知れない。
そう考えると恐怖で体が震えた。
「なぁに。そんなことにはならねぇよ。俺も一応は会社員だからわかるけど、会社組織ってのは何よりも体面を重んじるもんだよ。だからわざわざ自分から身内の恥を晒すようなことはしないよ。それに、法律で正社員は簡単に首切りできないことになっているから日頃から素行の悪い佐々木の野郎はともかくお前と井川さんは自分から辞めない限り組織には残れるはずだ。でも、コックとして残るは難しいだろうな」
話を聞き終えた新平は、冷静に自分の分析結果を口にした。
「功。怒らないで聞いてね」
それまで、黙って2人の話を聞いていた由紀子がおもむろに口を開いた。
「お兄ちゃんと同じで私も功は、クビにはならないと思う。でも、もし、そうなったら、そことは縁がなかったと思って別の仕事を探せばいいじゃない」
クビにならない。でも、コック復帰は難しい。
もし、クビになったら別の仕事を探せばいい。
コックになりたくて就職したのに、これじゃ、どっちに転んでも最悪じゃないか……。
まとまりのない2人の意見に功の頭は、パンクしていた。
あぁ。疲れた。俺がどうこう思ったところで処分を下すのは会社だ。処分が下ったら素直にそれに従えばいい。
2人が帰り、その結論に至った時、床の中から窓へ朝日が差し込むのが見えた。
謹慎が終わる前日の夕方。人事部に呼び出された功は、人事課長から11月1日付けで本社の『経理部』へ異動するよう言われた。
なんだかんだで兄ちゃんの言う通りになっちゃったな。
「おはようございます。この度はご迷惑をおかけしましてすみませんでした」
謹慎明けの翌日。功は、朝礼で先日の件を謝罪した。そこに井川と佐々木の姿はなかった。
結構、きついな。
この日は、久しぶりの労働で体も仕事勘も訛っていたが、そんなことよりも功にはどうしても気になっていたことがあった。
井川さんが退職した本当の理由だ。
あの日、功と同じく1週間の自宅謹慎を命じられていた井川さんは、謹慎から3日後、25年勤めたレストランを辞めた。
表向きは今回の騒動の責任を取っての退職ということになっていたが、加害者側ならともかく被害者側がそんな幕引きをするのはどう考えても不自然だとしか思えなかった。
教育係ではあったけど、それほど、話をした記憶はないんだよな。一体、どういう人だったんだろう?
井川が退職して1週間が経とうとしていたある日の昼休み。仲の良かった先輩コックにそれとなく井川さんの過去について訊いてみた。
「ちょっと、こっちに来て」
その先輩コックは、少し周りを見て誰もいないことを確認したあとで「井川さん、昔、プロボクサーだったのよ」と左右の拳を小気味よく前後に動かしたあとでこう続けた。
「あの人、現役時代、軽量級のホープと期待されていて世界も狙える逸材と言われていたらしいけど、試合中に相手の選手を壊しちゃってさ。それで、現役を引退してこの世界に飛び込んできたのよ」
どおりでビビらなかったわけだ。と同時に功にはピンとくるものがあった。
ヘビー級とライト級。階級は違うが、恐らく井川が本気を出せば佐々木は、少々、手こずりながらも確実に仕留めていただろう。
でも、過去のトラウマがそうすることを許さなかった。
そうなると、井川に出来るのは誰かが止めに入ってくれるのを待つことくらいしかない。
しかし、現実はどこまでも井川に冷たかった。
それまで仲間だと思っていたセコンド陣(同僚達)は、凶暴に暴れまくる佐々木を恐れるあまり傍観するだけで、功を除くと誰一人としてタオルを投入(止めに入ろうと)しようとしなかった。
あくまでも推測だが、この時、井川は第2のリングを降りようと決めたに違いない。




