第1賞 調教師長沼の憂い
~星幽とは、オカルティズムやファンタジーの世界では、身体から分離された精神と云われている。~
寒々とした大都会で、今日も長沼厩舎の何気ない未明からの一日が始まった。
あぅ~あ。眠いなぁ。さぁ馬達の馬体チェックをしに行こうか。
ここ大井競馬場の厩舎棟では、首都圏にありがちな、車の喧騒が流石に午前1時30分ではまだ無かった。
おや、通勤用のバイクがない。吉村君はまだ出勤していないみたいだな。
さては寝坊かな?さあ、俺一人でも先に仕事を始めるとしようか。
吉村とは、社長兼調教師の長沼文義が半年前に厩務員として採用した19歳の男の子だった。
その時、長沼の左ポケットに入れてある携帯電話のライン着信音が静かな厩舎内で鳴り響いた。
吉村君から寝坊の謝りのメールかな?今時の若い子は電話でなくメールで連絡なのかな。
しょうがないなぁ。どれどれ見てみるか。
『社長、止めるんでヨロシク。何で止めるかって、理由かぁ。?朝、はえぇし給料安いし、やってやれねぇよぅ。?馬のくそがくせぇんだよ。1日に何度も掃除・掃除・掃除、これもやってやれない理由だぜぇ。?次の理由は、ん~ん、今は思いだせねぇが沢山あるんだよ。あ、そうそう。あんた(長沼)、馬肉を食わないらしいな。他のキュウシャ(厩舎)の人に聞いたんだが、自分(長沼)を養ってくれている馬を食うことができないてぇな。星人ぶってバッカじゃねぇか。俺は夕べ馬刺しをたらふく食ってやったぜ。それこそが馬の供様、くようっと。それから、昨日までの給料を振り込んでくれよな。頼むぜ。このラインメッセージが自評ということでヨロシク。』
うぐ・・・。吉村君、字が間違っている。止めじゃなく辞め。星人でなく聖人。供様でなく供養。自評じゃなくて辞表だよ。
しかし、父さん(正義)、家族のためとは言え、よく長年この仕事をやって来たよな・・。あの時、父さんが長沼厩舎を人に譲り引退するよと急に喋り出し、それを聞いていた妹が私が継ぐと言い出したので、長男でもあるしカッコつけるため、しぶしぶ俺が今まで勤めた会社を辞めて、厩舎を継ぐとつい言ってしまった・・・。
実際に仕事を引継いてみて、今、後悔はしていないと言うのは、嘘になるが、父さん・・俺も今年で齢60半ばになるし、休みは殆どなく、動物を扱う商売の難しさに打ちひしがれているよ。
長沼は伝えることができない空(あの世)にいる父へ向かって心の思いを叫んでいた。
兎に角、代わりの厩務員を探さないと・・・。それに、近い将来この厩舎を引き継いでくれる人も・・・。
それから1週間後、ネットに出した求人広告が功を奏し、とある若い女性が、明日、面接へ来てくれると云う。
若い女の子かぁ。厳しい仕事の中身を詳しく説明したら断れそうかも。
面接当日になり、長沼は大井競馬場の職員から小会議室をお借りし、その女性を待っていた。
コン・コン・コン。「失礼します。」
小柄な女性が、お辞儀をし小会議室へ入って来た。
「虎谷雪乃と申します。本日は宜しくお願いします。」何故か悲しみに満ちた声に聴こえる。
その女性は目の周りにクマが出来ていて、化粧を殆どしていないのも良くわかる。なのにこの可憐な美しさは。なんだ。
長沼は、見とれて、ポカンとしてしまった。
「あっ、履歴書を持参してくれましたか?」長沼は少しうろたえながら言った。
「こちらになります。」と、雪乃は淡々と言い、履歴書を長沼へそっと手渡した。
「虎谷さん、そ・そちらの椅子にお掛けください。」無口でシャイな長沼は、それを言うのが一杯一杯だった。
履歴書、履歴書っと。年齢は28歳。見た目は二十歳前後にしかみえないなぁ。高校は、青森県弘前市内の高校卒。東北出身なんだ。道理で肌がキレイなわけだ。大学は、東京大学農学部獣医学卒。とっ・とうきょう大学。なんでぇ、うちのような厩務員を希望しているの?職歴は、某大手銀行退職。エ・エ~。からかって面接に来たのかな?
「虎谷さん、羨ましい会社にお勤めだったのですね。失礼な質問ですが、差し支えなかったらご退職された理由をお聞きかせ願いたいが。」
雪乃は、暗い目をしてゆっくりと言い始めた。
「私は元来から田舎者かも知れませんが、仕事に関する物事の割り切りが上手く出来ませんでした。銀行の業務で日々数多くの方のクレームを対応するうちに浴びせられる罵倒の言葉がトラウマになり、過呼吸の症状が出て自宅に引きこもるようになって退職しました。実は・・うつ病と診断され今も病院でカウンセリングを受けています。」
「・・うつ、うつ病ですか。それは大変ですね・・。厩務員の仕事も、ある程度の人との関わりがありますが。」
「現在、通っている病院の先生が言っていました。動物とのコミュニケーションも病気改善に繋がると。都合の良い話ですが、厩務のお仕事でお馬のお世話をさせて頂き、動物と触れ合うことで私の病気の治癒に繋がり、しかも生活の糧(給金)が確保出来る。と・・。駄目でしょうか。虫が良い話ですよね。失礼いたしました。」
雪乃は、椅子から立ち上がり長沼にお辞儀をして立ち去ろうとした。
「まっ、待って。朝早くからの仕事で、給金も前職の半分以下になりますが、それでもいいですか。」
長沼は雪乃を押し留めた。
「は、はい。是非宜しくお願いします。」雪乃は長沼へ向かって頭を深く下げた。
潤んだ瞳からは涙が。おや?長沼も何故かしらオイオイ泣き出した。年なのか。
さあ、雪乃の厩務員としての初仕事が明日から始まろうとしていた。
しかし、これから、ある、うつけ馬との出会いが待っていようとは。
多難。多難。おうコワッ。




