第三話 見知らぬ恋人
高村との面談を終えて、かばんを取りに教室へ帰ると、放課後の教室にはひとけがなかった。
自分の席に行って帰り支度をしていると「椎菜くん」と自分を呼ぶ声がして、リオンは飛び上がらんばかりの勢いで小さな悲鳴を上げて振り返った。
てっきり誰もいないと思っていたので、本気で驚いた。
振り返った先に立っていたのは滝沢だった。
夕暮れの教室に溶け込むように立っていたので気づかなかったのだ。
「……びっくり、した……。
滝沢さん、だよね?
どうしたの?」
滝沢は、顔を覆う前髪の間から、リオンを上目遣いで見つめている。
「椎菜くん、本当に私のこと覚えてないの?」
「え、あ、いや、その……」
「付き合ってたんだよ、私たち」
「……えっ?」
「私、滝沢カンナ。
カンナだよ、椎菜くん。
思い出さない?」
滝沢の言葉は、どこか急かしてくるような響きがあり、責めているようでもあって、リオンは脳をフル回転させる。
今すぐ思い出さないと、自分の身が危ない、反射的にそう思った。
「ねえ、私たち付き合ってたの。
恋人だったんだよ。
忘れるなんて酷いよ」
「あ……え、付き合ってた?
僕たちが?いつから?」
ぷくう、と滝沢が青白い顔で頬を膨らませる。
女子高生がやれば非常に愛らしい仕草なのだろうが、滝沢がそうすると冷たい指で背筋をなぞられるような薄ら寒さが際立ってしまう。
「高校入ってからすぐ」
滝沢カンナの言葉に、リオンは首を傾げる。
福井たちの話では、滝沢カンナはずっと引きこもりだったようなのだ。
一体いつ、自分と滝沢はどんな関わりを持ったのだろう。
「好きだって、言ってくれたのに、忘れるなんて、本当薄情だよね」
滝沢は、はっきりと怒りとわかる感情を込めてリオンにぶつけた。
「う、ご、ごめん……。
なるべく早く思い出せるように努力するから……」
リオンがたじたじになりながらそう受け答えすると、なんの予備動作もなしに滝沢カンナが抱きついてきた。
まるで瞬間移動したみたいな俊敏な動きと、抱きつかれた衝撃でリオンの頭の中は真っ白になる。
「あ、あの、滝沢さん……」
「好きだよ、椎菜くん。
私、椎菜くんが大好きなの。
椎菜くんも、私のこと好きって言ってくれた。
将来結婚しようって言ってくれたのは椎菜くんじゃない。
……ねえ、キスして?」
頭ひとつぶん背の低い滝沢のつむじを見下ろしていると、滝沢が顔を上げ、リオンを見上げた。
滝沢の髪からはシャンプーの香りがする。
前髪がはらりと払われ、滝沢の顔が露わになる。
大きく力強い瞳が、まだどこか幼さを感じさせる。
滝沢が目を閉じ、顔を近づけてきた。
──本当にキスするつもりなのか?
リオンはとっさに滝沢の身体を引き剥がすと、のけぞって後退する。
かあっと、滝沢の顔が羞恥で真っ赤に染まったように見えた。
きっと、勇気を出してキスを求めたのだろう。
それを拒否されたことで滝沢は傷ついたのかもしれない。
「ご、ごめん、まだ、思い出せてないから……」
てっきり滝沢は怒るかと思ったが、予想に反して優しげな笑みを浮かべてみせる。
「そうだね、ゆっくり思い出して。
それから、私たちが付き合ってること、誰にも言っちゃ駄目だからね?」
「え?どうして?」
「みんな嫉妬するもの。
椎菜くんが私を好きなことに。
余計な波風立てたくないの。
だからこれだけは誓って、誰にも言わないって」
大袈裟だな、とは思いもしたが、リオンは素直にうなずいた。
「じゃ、一緒に帰ろう。
前みたいに」
滝沢が手を差し出す。
リオンは、渋々彼女の手を取って教室を出た。
☆
椎菜リオンが高校に復帰してから一ヶ月が経とうとしていた。
冬の乾燥した空気に、短くなる日照時間。
相変わらず記憶はなにひとつ戻らないままだったが、学校生活は問題なく送れていたし、友だち付き合いも順調にこなした。
一方で、放課後や休日は滝沢カンナと密かに逢瀬を重ねている。
滝沢は、子どものおままごとのような、恋愛ごっことも取れるような要求をリオンにして、理想の恋人を演じさせている。
手を繋いで一緒に帰ろうとか、デートで遊園地に行こうとか、寝落ちするまで電話で話そうとか、誰もいない滝沢の自宅に招いてリビングのソファでぴったりとくっついて座ってきたり、と、滝沢はとにかく学校にいる時間以外はリオンにべったりで、少しでもLINEの返事が遅くなると怒りに任せて電話をしてきたりするので、リオンはほとほと疲れてしまった。
こんなに束縛が激しいのに、記憶を失う前の自分は不満ひとつ漏らさず滝沢に尽くしていたのだろうか?
リオンは未だに滝沢に対して恋愛感情を抱いていないのだから、余計に束縛が苦痛だった。
滝沢に別れを切り出そうとするが、彼女が放つ不穏な気配に尻込みしてしまって、なかなか言い出せずにいた。
彼女を刺激することは危険だ、そう脳のどこかが警鐘を鳴らす。
鬱々とした日々を送っていた冬のある日の出来事だった。
日曜日の昼間、リオンは滝沢とともに駅前の繁華街を歩いていた。
滝沢から買い物に付き合ってほしいと言われたから従っていたのだ。
滝沢が繋ごうとした手をやんわりと振り解こうとしていたときのことだ。
「あの、『Dreamer』のリオンさんですよね?」
ふたり組の高校生らしき女の子から、そう声をかけられた。
「……え?」
とっさに振り向こうとしたリオンを、滝沢が引っ張って止めようとする。
どこか焦っているような滝沢の仕草に、反抗心が芽生えていたリオンは、滝沢の妨害をかわして声をかけた高校生のほうを振り向く。
「きゃあっ、やっぱり椎菜リオンだあ!」
「握手してください、わたし、ファンなんです!」
「顔ちっちゃい!スタイルいい!」
「いつグループに復帰するんですか?」
女子高生は、リオンの顔を見るなり興奮した様子で、きゃっきゃと騒ぎ出す。
女子高生のはしゃいだ声が聞こえたのか、周囲にいた若者たちまでが立ち止まり、声を上げてリオンを取り囲んだ。
「すげえ、本物の椎菜リオンだ!」
「サインください!」
あっと言う間に出来上がった人垣に、リオンは戸惑いを隠せない。
群衆に紛れてしまい、滝沢の姿は見えない。
女子高生に両手を握られた、そのときだった。
「……っ!」
リオンを、強烈な頭痛が襲った。
──この光景、どこかで見たことがある。
走馬灯のように、脳裏にさまざまな映像が流れては去っていく。
興奮したファンが自分と握手をするため列をなしている。
自分は、自分を推してくれるファンに感謝を告げながら次々と握手をしていく。
感激して涙を流すファンの笑顔。
──なぜ、こんな重大なことを忘れていたのか。
痛みにうずくまってしまったリオンに、「えっ、大丈夫ですか?」と心配そうな声が降ってくる。
ゆっくりと立ち上がったリオンは、自分を取り囲む群衆に、曇りのない笑顔を向けた。
「大丈夫だよ、ごめんね。
ちょっと立ち眩みがしただけ」
そういうと、女子高生たちはほっとした表情になる。
「握手でいい?
サインも書くよ」
リオンが提案すると、周囲から黄色い声が飛んだ。
その場にいた女子高生たち全員と握手と写真撮影をし、求められるまま即席のサイン会をすると、みな笑顔で感謝を述べて去っていく。
思い出してみれば、見慣れた光景であった。
笑顔の作り方も、手の振り方も、サインも、どう振る舞えばファンが喜ぶかも身体が覚えている。
人波が一段落すると、群衆に紛れて立ち尽くしていた滝沢と目と目が合った。
「きみは……誰だ?」
リオンの問いに、滝沢はなにも言わない。
「俺ときみは、付き合ってなんかいない。
そもそもきみは、学校にすらきていなかったはずだ」
「……思い出したんですね」
「ああ、すべてね。
俺は『Dreamer』のリオン……。
夢原柚希の後を追って自殺した……。
だから俺は、きみと恋人ではない」
うつむく滝沢に、リオンは言った。
「きみは、誰なんだ?
どうして俺と付き合ってるなんて嘘をついた?」
「それは、あなたが好きだからです」
「だからって、嘘をついて記憶喪失の俺を騙すなんて卑怯だろう。
そんな人とは恋人になれない。
もう俺に近づかないでくれ」
拒絶の意志を示すため、リオンは滝沢に背中を向けた。
だがなぜか、そう言ったあとの記憶がリオンにはなかった。




