4. 新しい旅路
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「みんな楽しそうね」
クレアは隣国の、とある町をゆっくりと歩きながら、目の前に広がる賑やかな市場に目を奪われていた。そこには多彩な工芸品や色とりどりの果物が並び、香ばしい食べ物のにおいも漂ってくる。人々は笑い合い、その楽しげな様子にクレアも顔が綻ぶが、心の奥には依然として孤独が重くのしかかっている。無意識のうちに「ハァ」と溜息が漏れてしまった。
隣国に足を踏み入れて以来、クレアは割と落ち着いた気分でこの旅を過ごす事が出来ていた。というのも、この国でのクレアに対する人々の態度が穏やかで、まるで普通の一市民として扱われているように感じるからだ。不安からローブを身に纏い、顔をあまり見られないようにしているせいもあるだろうが、今のところ露骨な避けられ方や嫌がらせを受ける事はなく、クレアは少し安心している。
すると突然、何かの拍子で前を歩いていた二人が振り返り、クレアは思わずビクッとした。ふいに自国での冷たい視線を思い出し、胸が苦しくなってくる。すでにトラウマとなってしまった傷はまだ癒やされる事なく、些細な出来事がそれまでの気分を一掃する。しまい込んでいた孤独感が急に大きく膨らんで、クレアは自分が取り残された気分になった。周りに笑顔が溢れるほど、笑い声が響くほど、心には空虚感が広がってゆき、自然とその場から足が遠ざかっていく……。
町外れまでやってきたクレアは、ふと立ち止まり、呆然と空を見上げていた。改めて思う。冷たくされるより、そして嫌悪感を抱かれるよりももっと辛かったのは、誰も自分を覚えていない、誰の記憶にも残っていないという事だった。実に虚しいものである。これまでの自分を否定されたような、そんな気がして、自分の存在意義が分からなくなる。
「いつまでこうなのかしら? ずっとこうなのかしら……?」
不安感が強くなり、思わずクレアはつぶやいた。この国に来てからは泣いていなかったのに、ジワリと涙が浮かんでくる。
「生涯、きっと私は一人きりね。……だったら仕方ないって割り切って、早く気持ちを切り替え…………」
そこで言葉が途切れたのは、視界の隅に一瞬、魔法陣が見えたような気がしたからだ。見間違いかと思ったが、そこには確かに魔法陣が展開しており、現れた人物にクレアは思わず息を呑む。
そこにいたのは、かつての仲間、イムルだった。魔王討伐の為に共に戦った同志で、彼との関係は単なるチームメンバーに留まらず、互いに信頼し、助け合う深い絆で結ばれていた。イムルはクレアの姿を確認すると、「ここにいたのか、探したよ」と、気安く声をかけてくる。
クレアは言葉が出なかった。心臓だけが早鐘のように鳴っていて、状況がいまいち飲み込めない。とっさに後ろを振り返ったり、辺りをキョロキョロしてみるも、クレアの他には誰もおらず、そうこうしているうちにイムルが目の前までやってきて、「どうかしたか?」と、再び声をかけてくる。
「……え、……あの、それ、もしかして私に言っているのですか?」
「君の他に誰がいる? おかしいな、なぜ他人行儀な物言いを?」
「……そんな、だって、私を知る人はみんな呪術が……! みんな私を忘れて……!」
クレアは信じられない思いだった。自分を見る彼の目には信頼と親しみが宿っており、自分を昔ながらの知人として認識している事がはっきり分かる。その変わらない態度にクレアは言葉にできない感情が込み上げてきて、ポロポロと涙が溢れだす……。
そんなクレアを、イムルは少しのあいだ黙って見つめた。それからフッと笑みを浮かべると、力強い口調でこう答える。
「私がクレアを忘れる訳がない。確かに強力な呪術に冒され、解呪にはだいぶ時間がかかったが……、君のことはけして忘れたくなかったのだ」
クレアの心に温かさが広がる。長らくこんな風に扱われる事がなかったので気持ちが一層高揚している。誰かが自分の存在を認めてくれる事がこんなに嬉しいとは思わなかった。そして名前を呼んでもらえるだけでこんなに感動するとは思わなかった。
「……ああ、イムル、どうしましょう……私、うれしくて……」
「うん」
「……ねえ、もう一回、名前を呼んでもらえないかしら?」
「クレア」
「……もう一回……」
「クレア、クレア、クレア」
改めてクレアは喜びを噛み止める。先ほどの沈んだ状態から一転、頬は紅潮し、目には輝きが増している。そうしてその後も何度か名前を呼んでもらい、その度に感極まり、そんなクレアにイムルは愛おしそうな眼差しを向ける。その後、ようやくこれが現実であると実感したクレアは、一旦落ち着きを取り戻した。
「……ハァ。すごい……、あなたってやっぱりすごい魔導士だわ、あの呪術を解くだなんて……。私なんて全然手に負えなかったのに……」
「ちなみに、反転の呪術は完全に無効化しているよ。もう誰も影響を受けていないし、誰も君を傷付けない」
「……え? ……え? ……うそ、本当に……?」
「ああ。自分の解呪を済ませたあと、すぐに君の国へ行ったのだ。それで……、まあ……、いろいろあって、結果的に術が解けた」
イムルはあえて詳細な部分をはぐらかせた。自分たちの遠征中にアルフレッドが浮気をし、それ故に魔王につけ込まれたという更なる追い打ち話で、これ以上クレアの心を煩わせたくなかったのだ。
「……信じられない……あんな、とんでもない呪術が解けただなんて……」
「本当に、とんでもない術だった。……君も、大変だったね」
「……え? ……ええ、……まあ……」
「……それで、どうする? もう術は解けたのだから、国に戻っても平気なはずだが……」
するとクレアは少し考え込んだ後、ふるふると首を横に振った。
「戻らない。私はもう、全部を置いてきたんだもの。それに、みんなが無事であるならそれでいいの。戻ったところで罪悪感を向けられるのも嫌だしね。このまま旅を続けるわ」
その顔はスッキリとし、曇りが晴れたようだった。その様子を見たイムルも安堵の表情を浮かべる。
「そうか。うん、クレアならそう言うだろうと思っていたよ。……では予定通り、私も旅に同行するとしよう」
「……へ?」
「ずっと自由な旅がしたかったのだ。敵を倒す為の旅ではなく、気楽に楽しむだけの旅だ」
「……でも……」
クレアは戸惑ったが、しかし同時に、イムルがこれまで国や使命に縛られ、自由をほとんど享受出来なかった事を思い出した。その点は少し自分と似ており、彼の言う事にも納得する。
「分かったわ。一人より二人の方が楽しいしね!」
「そうだろう? 私がいれば用心棒にもなるよ。女性の一人旅なんて危ないからね、私の大事なクレアに何かあっては大変だ」
「……昔からそうだったけれど、イムルってたまに心臓に悪いのよね、勘違いするわ」
「私はいつだって本気なのだけどね」
こうして二人の新たな旅が始まる。もう孤独ではないクレアの足取りは軽く、イムルはこれから分かち合うであろう日々に期待を膨らませている。陽光が二人の背中を明るく照らし、まるでその先に待つ未来を祝福しているようだった。