1. 忘却の聖女
「私はこの国を出て行かなければならない」
静かな夜、クレアは白く浮かぶ月を見上げ、自らにそう言い聞かせた。月は冷たく輝き、その光が彼女の奥深くにまで入り込み、ズキズキと胸を痛めつける。周囲の静けさがより悲しみを際立たせ、次々と浮かび上がる思い出が涙となって溢れ落ちる。胸が押しつぶされそうになりながらも、彼女は決意を固めて前を向く。月明かりが照らす道を一歩一歩、歩き進めた。
かつて、クレアは国中の人々に愛された光輝く聖女だった。彼女は勇敢にも魔王を打ち負かし、混沌としていた世界に平和と安寧をもたらした英雄の一人として知られており、その卓越した能力と、長い銀髪の美しい容姿、そして困っている者に手を差し伸べる内面の優しさは、多くの人の尊敬と羨望の眼差しを集めていた。
ところが、ある日突然、クレアの存在は人々の記憶から消えてしまった。誰も顔も名前も覚えておらず、人々はまるで彼女が存在しなかったように振る舞うのだ。更に奇妙な事に、クレアと親しかった者ほど、一目彼女を見るなり嫌悪感や不快感を露わにした。それは幼馴染で婚約者でもあったアルフレッドも例外ではなかった。
「私よ! クレアよ! どうか思い出して!」
「其方など知らぬ! 馴れ馴れしくするな!」
「そんな! 共に学び、苦難を乗り越え、支え合ってきたではありませんか!」
「……支え合ってきただと?」
「そうです、幼い頃から私はあなたの婚約者として懸命に――」
「馬鹿を言うな!」
瞬間、頬に痛みが走り、クレアは自分がぶたれたのだと理解した。今まで一度だってこんな扱いを受けた事のなかったクレアは信じられない思いで立ち尽くし、そんな彼女をアルフレッドは蔑んだ目で見つめている。次いで、彼は驚くべき事を口にした。
「私の婚約者はエミリアだ! 私を側で支え続けてくれたエミリアこそ我が愛する者なのだ!」
その言葉はクレアに衝撃と深い傷を心に負わせた。いつの間にか婚約者の座が入れ替わっていたのもショックだが、エミリアといえば、クレアに対して事あるごとに難癖をつけ、仕事を妨害してきた人物である。アルフレッドもその事に腹を立てていたはずだが、まさかここでその名前が出るとは思わなかった。
「気でも触れているのか? 自らを婚約者などと口走るとは……、まさかとは思うが、エミリアの立場を奪おうとしているのではあるまいな? もしそうだとしたらおぞましい……、貴様のような性根が腐った奴が私は一番嫌いなのだ!」
ドン!とクレアを押し除けて、アルフレッドはそこからさっさと立ち去ってしまう。クレアは訳が分からず、ただ呆然と俯いた。
それから、クレアは混乱と心の傷を抱えたまま日々をやり過ごした。名高い聖女だったからこそ彼女には与えられた邸宅があったのだが、使用人たちが彼女の事を忘れてしまっているので使う事が出来ず、その為、彼女は修道院に身を寄せ、そこで手伝いをしながら暮らしているのだ。しかし、長く留まれば修道女達が自分に嫌悪感を抱くようになる為、彼女は町から町へと異なる修道院を転々とせざるを得なかった。
何かがおかしい、不気味な力が働いている――。そんな事にはもうとっくにクレアは気付いていた。だからこそ原因を探り、現状を打破する為に彼女は動いていたのだが、調査と見解が深まるにつれて、次第に打ちのめされる事になる……。
「……私では、どうしようも出来ないわ……」
おそらくこれは呪いの一種だろうとは思っていた。だが、いずれは自分が解いてみせる、そう意気込んでいただけにひどく落胆してしまう。認めたくはないが、導き出された結論は、これは彼女でも手に負えないという事だ。非常に強力で、且つ複雑な『反転の呪術』が人々にかけられていたのだった。
そして、これほどの呪術を操れるのはただ一人、きっと魔王に違いなかった。息絶える前、魔王は時間差で発動するこの呪術を使ったのだ。相手の思いや感情を完全に逆転させてしまう、この強力で強大な反転の呪術を……。だとすれば、術者が死んでしまっている今、これを解くのは難しい。それどころか、このままでは――。
クレアは人々の顔を思い浮かべた。気になっていた。日に日に皆の顔色が悪くなっていっているのが……。実はクレアは時々、友人たちの元を訪れ、こっそり様子を見ていたのだ。時には恐る恐る声をかけたりもしてみたのだが、案の定、その者たちは彼女を見るなり嫌悪した。今にして思えば、嫌そうな表情をしながらも、どこか辛そうに見えたのは、心と体に負荷がかかっていたのかもしれない。きっとそれは今現在もそうで、クレアがいる限り、呪いは人々を蝕み続ける事になる……。
恐ろしい事態に、クレアはカタカタ震えてくる。とっさに誰もいない修道院の陰に隠れ、身を小さく縮めてしゃがみ込んだ。
それから数日……、クレアは夜空に浮かぶ月を見上げ、自らにこう言い聞かせた。
「私はこの国を出て行かなければならない。みんなの為に。私がここに居ては誰も幸せにはなれないのだから」