アシュアさんに聞いてみよう
「そんなにコスパを求めるなら死ねば?」
「えっ」
「だってそうでしょ。貴方が死んでしまえば、コスパを考えなくて良くなる。コスパを考えなくて済むほど、コスパの良い事ってある?」
その幼い体と、それに相反する切れ毛一つない純白の長髪。彼女の容姿によって緩和されなければ、今すぐにでも立ち去ってしまいたくなるような棘のある言葉は、佳奈の心に深く刺さった。認めたくない図星を突かれた時や、誹謗中傷を受けた時には、心がキュッと締め付けられるような感覚になるが、アシュアさんの言葉はそういうものではなかった。気づいてはいるけど、気づきたくない。ずっと掃除をしていないシンクの排水溝を覗いては、掃除をしなければと焦燥感にかられながらも、重い腰を上げることができずに、ダラダラしていたところ、遊びに来た友人に「この部屋、下水の匂いがするんだけど」と言われてしまい、遂に掃除をする決心がついたような、辛辣や苦悶というよりも、痛快というべき刺さり心地だった。
きっかけは、結のさりげない一言からだった。学食がないこの高校では、毎日昼休みになると、近くの弁当屋がケータリングを持ってきてくれる。「三種の彩り野菜弁当」をなんとか買えた私は、結がいるいつもの場所に向かった。
私達はいつも教壇の下手、一段高くなっている所に腰掛けて昼食を食べる。結が、弁当を食べながらも話しかけてくるが、話半分でそれとなく相槌を打っていた。結には申し訳ないが、今は結の話よりも、この頭に過ってきたことを整理したかった。
昼食を食べる場所、いわば昼休みにおけるテリトリーは、一学期が始まって一月も経てば、自然と決まってくる。こういった「ルールとして明示されていないが、不文律として出来上がっていく」ものは往々にしてある。人間に限らず、動物にも見られる性質で、その多くは「そうすることが、全体に寄与するから」が理由なのだと思うが、人間社会においては、むしろ仇になる時もある。
エスカレーターの「急いでいる人のために片側を開ける」が良い例だ。メンテナンス面から考えれば、片方にだけ重さがかかり続けることで、部品の損耗にムラが出るし、最近では「開けるべき」とされている側の手すりしか持てない人のために、エスカレーターは歩かずに止まって2列で使いましょう、なんていうお触れ込みすら見かけるようになった。不文律を、ルールを是正するというのは些か滑稽だが、それは言葉を使える人間の特権だな、なんてことを突拍子もなく考えたりする。
「ねぇ、佳奈ってば。話聞いてる?」
「あっ、ごめん。なんだっけ」
「また私の話聞いてない。ほらこれだよ。今バズってるやつ」
結がスマホの画面を見せてくる。ありきたりなショート動画のフォーマットで、タイトルに書かれていた文字を見ると、
「相談者が皆病んでしまうカウンセラー、アシュアさん?」
「そう。悩んでる事とか、自分で決断できないことを相談すると的確な答えを教えてくれるんだけど、あまりにも的確すぎて、相談者が病んじゃうんだってさ。」
「図星すぎて相談者が耐えられないって事?いくらなんでもそんなことある?」
「たぶん。よくわかんないけど」
母から幼い頃、「お話をするときは、相手の目を見て話すの」と、言われたが、私の視線はそれでも画面から離れなかった。釘付けになったのは、煽り要素満載のタイトルだけが原因ではない。画面に映っているアシュアさんだと思われる女の子の姿も、その一つだった。六頭身ほどの身長に、膝まで伸びる、画面越しでもわかる綺麗に整えられた光沢のある白髪。その白髪を引き立たせる真っ黒なワンピース。頭身から醸し出される幼さを吹き飛ばすかのような、鋭い目。その目に影を落とし、より鋭さに拍車をかけている、麦わらの大きなカプリーヌ。抑揚が抑えられ、理路整然とした話し方。現実とは思えないような、再生回数稼ぎにAIに作らせたフェイク動画であってくれと願いたくなるほど、稀有な光景が広がっていた。
「佳奈、こういうの好きでしょ」
「うーん…」
「あっ、図星の時の奴だ」
「うーん…まぁ、気にはなるけど…」
「気にはなるけど?」
オウム返し。
「いや、流石に本物ではないでしょ。AIとかに作らせた偽物の動画じゃないの?最近そういうの流行ってるんでしょ」
「違うって。アシュアさんは本当にいるんだよ。他にも #アシュアさん でいっぱい動画あがってるもん」
「いやだから、AIに作らせたんなら、幾らだって投稿出来るでしょ…」
「だから!いっぱい動画もあがってるし、色々な人が投稿してるんだよ。本当だって!」
いくらか、結の言葉が感情的になる。
「その色々なアカウントが実は一人で運営されていました。全部嘘でした、ってこともありえるでしょ。結はちゃんと動画見たの?あんな幼い子が相談に乗るなんてあり得ないでしょ」
「本当に居るんだって。佳奈ってこういうオカルトみたいな話になると、全然乗らないよね。そんな考え方してると人生つまんなくなっちゃうよ」
「うっ…」
「図星の時の奴だ」
「…うるさい」
事実そうだった。感情的になりにくい私の性格は、メリットでもありデメリットでもあった。運動会のクラス対抗リレー。クラスメイト達が一生懸命走る姿を、皆必死に応援していた。私も、そういう気持ちが込み上げてこないわけではない。ただ、その気持ちが弱いのだ。他の皆は間欠泉から水が溢れるかのように、感情の激流を言葉で、体で表しているが、私の中ではそんな勢いはなく、まるで蛇口の締め具合が甘かった時のような、ぽたぽたと滴る程度しか感情が出てこないのだ。予想外の出来事に出くわしても、冷静に対応出来るというメリットよりも、他人と感情を共有することが難しいというデメリットの方が、私には大きく感じられた。その点、結は私と対極の性格だ。喜怒哀楽がはっきりしており、裏表もない。思ったことはハッキリ言うし、忖度もしない。それ故、普段あまり絡まないグループの子でも、必要となればすぐに溶け込める。
「人は、自分と似たものを持っている人か、あるいは自分が持ちたいのに持ち合わせていないものを持っている人とコミュニティを形成する」
と、何かの本で読んだ覚えがあるが、私と結は後者だった。私はこちらのほうが好きだった。似たものを持っている人で作られたコミュニティはどこか足し算のようなものを感じた。一方で、補完しあうコミュニティは掛け算のイメージ。同じ数字、いわば同じ能力だったら、足し算より掛け算の方が数字が大きくなる。つまり、生み出されるものが大きくなり得るのではと考えたからだ。
「相手がマイナスだった時に掛け算だと破綻しませんか?」という反論は受け付けない。それなら、私もマイナスをかけ合わせて、プラスにしてしまえばいい。
「じゃぁ、佳奈が実際にアシュアさんに会いに行ってよ」
「は?」
沈黙を打ち破るように、とんでもない提案が結から出された。
「そんなに信じられないなら、佳奈が会いに行って相談してきなよ。いつも考え事してる佳奈なら相談したいこといっぱいあるでしょ」
そう言いながら結は、動画のコメント欄を見せつけてきた。
"アシュアさんに相談したいことがある方は、コメント欄に書いてください。アシュアさんに選ばれた方にはダイレクトメッセージでご連絡の上、直接会って相談していただけます。"
「総コメント数…一万二千!?」
呆れて物が言えないとはこの事だった。こんなあからさまなフェイク動画に、こんなに多くの人が関心を寄せている。「感情的になりにくい私」はそう感じたが、同時に「そうではない私」は、「宝くじみたいなもんさ。とりあえずコメントだけでもしておけば?」と囁いてきた。
少し悩んでから、
「わかったよ。後でコメント書いておくから、その動画送っておいて」
「おっけ」
何気ない昼休みの、他愛もない雑談だった。
その日の夜、夕食と風呂を済ませ、自室でスマホをなんとなく見ていた時、昼休みの動画の事を思い出した。その場しのぎでコメントを書いておく、と言ったものの、内心は少し興味があった。結から送られてきた動画を開く。アシュアさんと、相談者の大学生と思われる男性が変わり代わりに映る。
「告白する勇気がないっていうのは言い訳にはならないわ。勇気がないのが告白できない理由じゃなくて、貴方が自身の好きという感情を、理解しきれていないからじゃないかな」
「どういうことですか?」
「好きという感情を分解すると、「愛したい」とか「愛されたい」に分解できると思うんだけど、貴方の好きはどうかな?」
「…」
相談者は黙ってしまった。
「もし「愛したい」なら、それは能動の愛。能動の愛を勇気がないから告白しないなんていう受動で誤魔化せるわけがないわ。でも「愛されたい」なら、それは受動の愛。相手からの告白を待ってみるのも悪くはないかも」
正直当たり前のことを、それっぽく言っているだけにも聞こえたが、それでもこんな少女から出てくるアドバイスとは到底思えない程のものだった。
「でも、人の心は移ろいやすいの。昔のモンゴルの遊牧民がゲルを使って、住処を転々と変えているのは、どこか人間の本能にそういう気質があるからじゃないかな」
「…わかりました。ありがとうございました…」
魂の抜けたような、おぼろげな声だった。
動画が最初に戻ってループを始めた頃に、コメント欄を表示する。
「働かずに生きていきたいです」
「アシュたんえっっど」
「お金持ちになるにはどうしたらいいですか?」
「彼氏の束縛が強すぎるので別れたいです。でも別れようって言っても別れてくれません。どうすればいいですか?」
「プロゲーマーになってお金を稼ぎたいです。どうしたらゲームを上手くなれますか?」
「アシュアさんみたいなキレイな髪になりたい!ヘアケア何使ってる?」
我欲全開のコメントを見ていると、コメントをする気が失せてきた。共感性羞恥のような、いたたまれない気持ちが押し寄せてきた。
しかし、結と約束してしまった以上、仕方がない。割り切って、なんとかコメントを書いた。
「感情を取り戻すにはどうしたらいいですか?」
投稿が完了し、その言葉が表示された画面を暫く眺め、
「…アホらしい。寝よ」
低俗な人間に紛れる自分は、他者とは違って、あくまでもその状況をメタで認知しているという免罪符を無理やり作ることで、心の拠り所を設けることにした。せめてもの、この呟きによるセーフティーネットがなくては、プライドを保てなかった。
枕元のカラーボックスに無造作にスマホを置き、眠りに就いた。
翌朝、電車に乗るまで、昨日のコメントはすっかり忘れていた。ギリギリまで寝ている佳奈には、それまでスマホを見る余裕はなかった。通知欄には昨日コメントしたSNSのアイコン。それをタップする。
"1件のダイレクトメッセージがあります"
メッセージの送信元アカウントは、アシュアさんだった。
恐る恐るメッセージを表示する。
"はじめまして、アシュアです。コメント拝見しました。是非直接会ってお話できたらと思います。興味がございましたら、ご都合の良い日時を返信でお知らせください。お待ちしております。"
アシュアさんが何人にメッセージを送っているかはわからないが、少なくとも一万二千のコメントから私が選ばれたということ。嬉しいよりも、不安のほうが強かった。
どうする?返信をするか。でも、この前の学年集会でも、「インターネットで知り合った人とは出会わないこと!」って先生言ってたし…でも、こんな偶然のチャンス、滅多に起こらない…もしアシュアさんが本当に実在するなら会って話してみたいし…
やはりここでも、結との約束をした時と同じ様に、二人の私が葛藤していた。しばらくの思索の末に出た答えは、
「今日の放課後に会えるか送ってみよう。当日の昼過ぎに会えますかなんてアポイント、どうせNGが出るだろう。それで駄目だったら、もう断ろう」だった。
私は、チャレンジしてみたい自分と、リスクを怖がっている自分との間で折衷案を設けることにした。
アシュアさんからの返信はすぐに返ってきた。
"わかりました。では、本日の午後四時に下記の場所までお越しください。もし、来れない様でしたら、またご連絡ください。調整します。お越しになる際には必ず一人で来てください。"
場所は、都内のタワーマンションの一室。下落合から、電車を乗り換えれば一時間もかからない。こんな場所をあんな子がどうやってと疑問は募るばかりだったが、それよりも私は、突然訪れた非日常に、胸を躍らせていた。
昼休みは、結からの「アシュアさんからメッセージが来たか」という尋問をかわすので精一杯だった。結を連れて行くことはできないので、なんとかメッセージは来なかったの一点張りで誤魔化した。結にメッセージが来たことを伝えたら、絶対についてくる。それでせっかくの非日常がなくなってしまうのはご免だ。
「本当はメッセージ来てるんでしょ」
「来てないって」
「来てる」
「来てない」
この押し問答を延々と続けていた。
放課後、アシュアさんのタワーマンションに向かうまでの電車で、なぜ私はこんなに喜怒哀楽がハッキリしない、過度に落ち着いた性格になったのかを振り返ってみた。
小学生の頃、家族で相模湖にある「蒼天」という大きな吊橋アトラクションに行った。標高約三百メートルの山頂に、八種類の吊橋がかけられている。吊橋は山頂からさらに二十メートルほどの高さに設けられており、思い出すだけで足がすくんでしまう高さだ。スリルに拍車をかけているのは高さだけではない、命綱の見かけの心許なさも相まってのことだ。腰に着けたハーネスから伸びた命綱を、先端のカラビナで吊橋の外側に設けられているワイヤーにつけるだけだ。周りに落下防止のネットがあるわけでもない。万一踏み外したら、地上二十メートルで宙ぶらりんになってしまう。まだ感情が生きていた私は、恐れ知らずにどんどん駆けて行った。最初こそ高さに怖気づいていたが、だんだん慣れてきて楽しくなってきた頃に、それは起こった。
本来命綱のカラビナは、頭の高さにあるワイヤーにつけるのだが、それを間違えて腰の高さにある手すり代わりのワイヤーにつけてしまった。そして足を踏み外し落下。本来の高さよりも低い場所で命綱をつけてしまったために、吊橋を掴んで上がることもできず、完全に宙ぶらりんになってしまった。なんとか、両親に持ち上げてもらい、事なきを得たが、それでも、中学生の女子にトラウマを植え付けるには、十分すぎる経験だった。それ以来、私は「リスクを取る」ということを極端に忌避するようになった。感情が現れにくくなったのも、それが原因だと思っている。
感情を出すということは、リスクだ。その場に合っていない喜怒哀楽を表してしまえば、「空気が読めない奴だ」「不謹慎だ」「失礼だ」と揶揄される。だったら、最初からそんなリスク取らなくてもいいのではないか、と次第に考えるようになった。
この性格は高校受験の時にも影響した。進路指導からは、
「佳奈の成績だったら、この高校でも受かりそうだぞ。チャレンジしてみないか?」
と勧められたが、不合格になる事を恐れて、確実に合格できる、レベルを下げた高校を受験した。そうして通っているのが今の高校なのだが、どこか一抹の後悔がある。もし、受験の時にチャレンジして違う高校に通っていたら…と、取り留めのないタラレバをしばしば考えてしまう。リスクを把握せずに、いたずらに突き進むのは浅はかだが、だからといって、怖がってばかりで何も挑戦しないほうが、実は愚かなのではないか。
延々と「全軍突撃」の指示しか出さない指揮官も困ったものだが、それよりも、ベストな指示を出そうと悩みすぎた結果、敵に攻め込まれてしまい全滅する指揮官の方が、よっぽど愚かだ。
リスクを恐れすぎるあまりに、他のリスクを生み出してしまう。言わば「リスクを取らないリスク」を抱えることになり、リスクの悪循環から抜け出せなくなってしまうのではないか。それならもう、取る必要はないと思えるリスクも取り続けて、いたずらに突き進み続ける。言わば「一周回ってバカになる」ほうが、好循環を生み出せるのではないか。
そんな事をダラダラと考えていたら、アシュアさんのタワーマンションに着いた。
指定された部屋番号をインターホンで押す。「4204」
「はい」
「あっ、はじめまして。メッセージで連絡したカナです。」
「どうぞ」
重厚なドアが開く。ホテルと勘違いしてしまうような、きれいな内観。入ってすぐのエントランスにあるカウンターにはコンシェルジュ。床は全面大理石。まだアシュアさんには会えていないが、既に十分すぎるほど、私は非日常を体験していた。
その後、四回のオートロックと長いエレベーターを経て、部屋の前に着いた。自然と気持ちが引き締まる。
ドアホンを押そうと手を伸ばしたとき、
「本当はアシュアさんなんていないんじゃないか。このドアの向こう側にいるのは屈強な男性で、お前はこれから襲われるんじゃないか」
私の嫌いな「私」が、囁いてきた。そうやっていつも「タラレバ」でしか考えられない私。ここまで来て帰るというのか。
いや、まだ帰れる。もし本当にそうだったら、今なら間に合う。ドアホンを押すという動作にすら、躊躇いを感じてしまっている自分に、辟易しながらも、嫌いな私はさらに追い打ちをかけるように、囁いてくる。
「今だったら間に合うぞ。ほら、振り返ってエレベーターに乗るんだ。アシュアさんなんて居るわけないだろう。巧妙に作られたフェイク動画だったんだよ。あれだけリスクを嫌ってきたお前が、こんなあからさまなリスクに騙されるのか。よく考えろ。ほら、振り向け。今すぐ帰るんだ」
嫌な汗が全身から吹き出してくる。動悸も激しくなる。「一周回ってバカになった私」は何処に行ってしまったのか。ドアホンに伸びた人差し指は、あと数センチのところから一向に動かない。頭の中を様々な言葉が駆け巡ってくる。
「ドアホンを押すだけだ。もしかしたらこれがなにか人生が変わるキッカケになるかもしれないんだぞ」
「そんな訳ないだろう。騙されるな。振り向け。エレベーターに乗って帰るんだ。また在り来りな日常を過ごすんだ」
「在り来りな日常に辟易してるのは自分でも分かっているだろう。ここで変わるんだ、ドアホンを押すんだ」
「私の嫌いな私」と「一周回ってバカになった私」が頭の中に言葉をぶちまけてくる。正気を保つのがやっとなほど、私の頭の中はグチャグチャになっていた。耐えかねて、逃げ出してしまいそうになった時、4204と書かれた大きなドアがゆっくりと開いた。
頭一個分空いたドアの隙間から、麦わらのカプリーヌがゆっくりと現れる。体は出さず、頭だけを斜めにしてひょっこりと顔が現れる。自然と目が合う。
「あら、丁度だったのね。入って。」
心の中に鬱蒼と生い茂っていたツタが、一気に焼き払われた感覚になった。
アシュアさんは本当に居たんだ。私、強姦されないんだ。考えすぎだったんだ… という安堵から、全身の緊張がほぐれ、その場で立ち尽くしてしまった。
「何してるの。入って」
アシュアさんの声で我に返る。
「…おじゃまします…」
私は入るや否や、アシュアさんの部屋に圧倒された。スイートルームの様な内観。有り余るほどの部屋。長い廊下を抜けた正面には、広すぎるリビング。高さ五メートルほどのガラスで夜には摩天楼が見れるであろう一面の絶景。ディスポーザー付きのアイランドキッチン。どこを見渡しても隙のない、完璧すぎる部屋だった。
「そこ、座って。コーヒー飲める?」
「はい、大丈夫です。」
アシュアさんがキッチンに向かいながら、指差した先には、リビング中央に向かい合って置かれた無色透明なダイニングチェア。間には無垢な黒い一メートルほどのテーブルが置かれていた。テーブルは初対面の2人が、パーソナルスペースを確保するのに丁度よい大きさだった。やけに広いリビングに、目立った家具はこれと、白色円形のラグマットの上にカラーボックスが一つ。その中には本が隙間なく並べられていた。不思議だったのはその配置。壁沿いではなく、私が座ったチェアから数メートル離れた、部屋の中程にポツリと置かれている。アシュアさんはミニマリストなのだろうか。
しばらくして、キッチンからコーヒーの良い香りが広がってきた。2つのマグカップを持って、アシュアさんがテーブルに近づく。
「おまたせ。ミルクと砂糖は要る?」
「ブラックで大丈夫です」
「良かった。またキッチンに戻るのも面倒だし」
「じゃあ、なんでこんな広い部屋に住んでるんですか」という言葉が出そうになった。
向かいに座ったアシュアさんは、こちらをじっと見つめてくる。私もなんだか分からなかったが、視線を逸らさずアシュアさんの目をじっと見続けた。
しばらく目があった後、アシュアさんは視線を外の景色に移しながら、コーヒーを啜った。私も、それに続いてコーヒーを飲んだ。すると、アシュアさんはこちらに視線を戻して、
「貴方、相当警戒してるのね」
「えっ」
「私が飲むまでコーヒー飲まなかったでしょ。毒でも入ってると思った?」
「いやっ…その、意識してた訳じゃないんですけど…」
「意識してないなら尚更ね。人の本性は無意識に現れるのよ。」
こじつけっぽさは感じたが、それでも一本取られた気分になった。
「無理もないわ。こんな子どもみたいな見た目で、人様の相談に乗っている。それをSNSに投稿して…我ながら珍妙だわ」
動画を見たときから感じていたが、この人のワードセンスには何か独特なものがあった。子どもの語彙とは到底思えない、言葉だけ聞いたら"マダム"という言い方が似合う、そんな上品さを漂わせる言葉遣いだった。
「今日はどちらから?」
「下落合っていう駅から…」
「西武線ね。あの辺りは好きよ。新宿まで十分ぐらいで行けるアクセスの良さと、閑静な町並みのハイブリッド。でも一つ文句をつけるなら、西武線はもう少し本数を増やして欲しいわ。平日の日中なんか大体十分に一本だから、一本逃すと少し憂鬱になっちゃうの」
「わかります。ギリギリ間に合わなかった時に電光掲示板を見て、次の電車来るまで十分も待たないといけないのか、って…」
「"西武線あるある"ね。その点、東武線はもう少し本数が多いから、逃しても割り切れるの。下落合と新宿の距離感って意味だと、東武線なら上板橋が似てるかもしれないわね。でも終点が池袋なのよね。いっそ新宿まで延伸してほしいわ」
「そうなんですね…」
アイスブレイクには十分すぎる雑談を楽しんだ後、事の奇異から押し寄せる違和感を誤魔化せずにはいられなかった。
この子は何者なんだ。下落合という一つのキーワードから、ここまで広げられる小学校五年生ぐらいの女の子が実在するのか?ましてや、住んだことがないとわからないようなローカルな話も出してくる。もしかして、アシュアさんは人間じゃなくて、超高性能のアンドロイドなのでは?
「さてと、本題に入りましょうか」
火蓋を切ったのはアシュアさんだった。
「感情を取り戻すにはどうしたらいいですか、だったわね」
「はい」
「確かに、今までの会話の中で、感情を表すタイミングは幾つかあったけど、かなり控えめだったわ」
既に相談は始まっていたのかと、ここでも一本とられた気分になる。
「感情を取り戻すと書いているあたりから察するに、貴方自身は感情が自分の中にはもうないと思っているのかしら?」
「ないとは思ってないです。ただ、それが薄いというか、控えめというか…表すほどの大きさにならないんです」
「宝くじで一等が当たった時と、五等が当たった時だと、どちらも嬉しいけど、その程度が違うみたいな…そんな感じ?」
「うーん…」
曖昧な回答をしてしまった。でも仕方がなかった。暫く自分の感情から目を背けて来たので、自分でもその正体が分からなくなっていた。少し間が空いてアシュアさんが続く。
「もう少し整理しましょう。感情を表すということに対して英語で言うと、Don't,Can't,wouldn'tのどれかしら?」
絶対この子は普通じゃない。この質問でそれを確信した。小学生の子がそんな英語の細かいニュアンスを分かるわけがない。高校生の私ですら分からないんだぞ。…でも、インターナショナルスクールに通っている子もいるからあり得るのか?
とにかく、この質問でより一層、私の中の「アシュアさんアンドロイド説」は濃厚になっていった。
「すみません…その三つってどう違うんですかね?」
私は声色に恐る恐るの申し訳なさを醸し出しながらも、内心「小学生に説明できるわけないだろ」と高を括っていた。
「貴方、高校生でしょ」
私の心にグサッと刺さる、アシュアさんの言葉。
「すみません。英語は苦手で…」
アシュアさんは視線をそらして小さなため息を吐いてから、
「Don'tは能力は有しているけど、意思で行わないこと。Can'tは能力そのものを有していないこと。そしてWouldn'tは能力は有しているけど、意思による否定が強くて行わないこと。言い換えると、距離を取って考えていて、「どうせやらないんだろうなあ」っていう感じのこと」
恥ずかしくなった。タワーマンションに住んでいる小学生に英語を教わっている高校生。辛すぎる。明日、結にアシュアさんに会った事を話すだろうけど、このことは言わないでおこう。
「それだと…一番近いのはwouldn'tだと思います」
「だったら、意思を変えればいいだけ。巷では「人の性格や考え方は簡単には変わらない」なんて言われてるけど、そんなことはないわ。意思は人が持っている強力な武器よ。自由自在に形を変える、便利な武器。それを自分にとって都合の良い形に変えるだけ」
そんな事は疾うの昔にわかっている。苛立ちが募る。
「それが、出来ないんです」
声が震えて、力が入らない。動画で見た、恋愛相談をしている男性みたいになっていた。
「どうして」
アシュアさんは理路整然と畳み掛ける。
「それがわからないからここに来てるんですよ!出来たらとっくにやってます!」
立ち上がり、怒声、
「出来たじゃない」
論破。
座ったまま、私を見上げるアシュアさん。立ち上がったが、この後の所作を知らないので、とりあえずアシュアさんを見下ろす私。東京の喧騒に太陽が身を潜めようとしている。その斜陽は二人の顔を痛いほどに眩しく照らしていた。
「座って。まだ5割と言ったところだわ。ここから後半戦よ」
私はふと、先ほどの一件は西遊記みたいだな、と思った。お釈迦様の手のひらで踊らされる孫悟空。タワーマンションの一室で小学生に論破される高校生。気づきたくないシンパシーを受け止めながら、アシュアさんとの会話は続く。
「貴方は、物心が付いたころからそうだったの?」
「いえ、中学生の時に実は…」
そうして、アシュアさんに"吊橋落下事件"の事を伝えると、
「なるほどね…でもそれと感情が表せないことに、関係があるのかしら?」
「直接の関係は無いと思います。なんというか…リスクを取ったり挑戦するのが怖くなったんです」
「感情を表すのはリスクなのかしら?」
「上手く言葉に出来なんですけど…場にそぐわない感情を出したら損するなって考えちゃうんです。それでクラスで浮いたりしたら嫌だから、だったら、他の人が正解の感情を出してから自分もそれに合わせればいいかな…みたいな」
「それは考えすぎなんじゃないの?感情を表すことに限らず、何事も成功したり失敗したりしていくなかで、正しいものが見えてくる。試行回数をゼロにしたら、何も得られないわよ」
「それはそうなんですけど…」
私の中でも、なぜあの事件がここまで影響しているのか分からなかった。アシュアさんが言っている、感情を表すのがリスクなのか、という問いは自分でもしたことがある。でも上手く結論が出せずにいた。だからといって、これ以外に思い当たる節も無い。
お互いに視線を合わさずに、沈黙が続く。アシュアさんも膠着状態であることを感づいたのだろう。
「貴方、私にまだ話していない事はないかしら。思いつくことならなんでもいい。実際にあった出来事でも、今思っていることでも、ありのままにそのまま話してみて」
暫く考えて、こんなフランクな言葉でいいのかと思い躊躇したが、アシュアさんの"ありのままにそのまま話してみて"が背中を押してくれた。
「なんというか…コスパ悪いなあ、って思っちゃうんです」
「コスパ?」
アシュアさんが首を傾げて聞き返す。
「だってそうじゃないですか。周りと合わせていれば、クラスメイトから浮くっていうリスク、つまりコストがかからないですよね。でも、自分が思った気持ちをそのまま表すコストから得られるものなんて殆ど無いじゃないですか。だったら、周りと合わせてそれっぽくしておけば、コスパ良いなぁって…」
アシュアさんに向かって話しているというよりは、呟きの様なものだった。
「私が思ってるより、結構「わけあり」みたいね。だったら荒療治しかないわね」
「えっ」
「そんなにコスパを求めるなら死ねば?」
「えっ」
「だってそうでしょ。貴方が死んでしまえば、コスパを考えなくて良くなる。コスパを考えなくて済むほど、コスパの良い事ってある?」
アシュアさんが畳み掛ける。
「社会を作り協力することを生存戦略として生きながらえてきた人間において、周りの空気を読む、周りと合わせることは大切かもしれない。でも、それしかやらないんだったら、そんなのロボットと一緒。協力をしない、周りと合わせない可能性があるからこそ、協力をすることの強みが発揮される。そして同じことをしなかった、周りと合わせなかった人間がいたからこそ、色々な発明や技術が生まれて、こうやって進歩してこれたんじゃないの?人間がまだ狩猟民族だった時、獲物が取れなければ、ご飯は食べられなかった。獲物が取れなくても、追いかけた時の体力は戻ってこない。こんなの、リスクの塊じゃない。そうやって未知数のリスクを取り続けて、生き残ってきた種族の根幹を否定するなら、あなたは人間じゃないわ。だったら、いっそ死んだほうが楽なんじゃない?」
やはり、アシュアさんの声は理路整然と、抑揚が抑えられていた。なのに、温かい。
心の奥底に閉まっていた、「気づいてはいるけど、気づきたくないこと」をアシュアさんが掘り返す。
私の心に封をしていた南京錠がバラバラに崩れていく。
ダムの放水のように、今まで抑え続けてきた感情が放出する。
涙が、鼻水が、感情が、止まらなくなる。抑えられない嗚咽。
「私、まだ人間で居たいです」
鼻水をすすりながら、涙をぼたぼた流しながら、必死に声を出す。
「なにそれ」
鼻で笑うアシュアさん。
「私ロボットじゃない!人間だもん!」
顔も、声も、ぐちゃぐちゃになりながら、必死に叫ぶ。
「それちょっと面白いからやめてくれる?」
手で口を隠しながら、クスクス笑うアシュアさん。初対面の人の部屋で嗚咽する私。
これ、現実なんだよね?夢じゃないよね?
どれくらい泣いていたのかわからない。日は沈んでいた。東京の摩天楼が大きな窓越しに一望できる。
「落ち着いた?」
「すみません。こんな…」
こんな… の続きが思い浮かばなかった。今日はもう、疲れた。
「いいの。相談が解決したなら本望よ」
「本当にありがとうございました。じゃぁ、そろそろ…」
席を立ち上がろうと腰を上げたとき、
「まだ、少し時間ある?」
アシュアさんからだった。
「はい、大丈夫です」
「ありがと。座ったままでいいわ」
上げかけた腰を再び下ろす。
「久々ね。あなたには教えてもいいかと思ったの。今年に入ってからは二人目ね」
私は黙ってアシュアさんの動向を見守った。
アシュアさんがカプリーヌに手を添える。これまでずっと被っていたカプリーヌが外される。
「えっ」
なぜカプリーヌを被り続けていたのか。気にしてはいなかったが、外された今、合点がいった。
その長髪をもってしても、隠しきれていない、横に鋭く、三角に伸びた耳。やはり、アシュアさんは人間じゃなかった。アンドロイドだったのだ。
「貴方、変な事考えてるでしょ」
「うっ…」
「図星ね。まぁ、なんでもいいわ。私、エルフなの」
「は?」
「見た目は幼いけど、私、あなたよりもずっと長生きなのよ」
目の前で繰り広げられる怒涛の超怪異に混乱する私を尻目に、アシュアさんは話し続ける。
「アリストテレスって知ってる?」
「名前は聞いたことあります」
「私の友達」
「は?」
「だから、それぐらい昔から生きてるってこと」
怒涛の超怪異が、インフルエンザの時に見る夢に姿を変えている最中にも、アシュアさんは話し続ける。
「今まで色々な人を見てきたんだけどね、なんか皆、同じことで悩んだり失敗したりしてるのよ。それをずっと見てたら、我慢できなくなっちゃって。それでこうやって相談に乗ってる、というわけ」
「アシュアさんは…人に優しいエルフってことですか?」
「そんなところ」
アリストテレスという人が紀元前に生まれた人ということは覚えていたので、少なくともアシュアさんの年齢は二千歳以上ということなのだろうか。
「もちろんこれは、貴方と私だけの内緒。口外しないこと」
「わかりました」
言えるわけがない。SNSでバズっているアシュアさんはエルフだったんだよ、なんてクラスで言った次の日には、除け者にされる。
別れが近づいている。さっきは自分から能動的に上げられた腰が、上がらない。帰りたくない。アシュアさんと、別れたくない。
「アシュアさん」
「なに」
「…また会えますか」
返答はすぐ返って来なかった。
「約束はできないわ。今は少しでも多くの人の相談に乗りたいから、一度相談を聞いた人とは会わないようにしてるの」
「そうですか…」
悲しげな声色を隠せなかった。また会いたい。アシュアさんとこうやって話したい。
「悲しそうね。ちゃんと感情を表せてるじゃない」
何も言えなかった。何かを言ったら、また泣いてしまう。
「じゃあ、お別れの前に、こっち来て」
アシュアさんが立ち上がる。向かった先は、本が詰まったカラーボックスだった。私もついていく。
「一冊、好きなのを持っていって」
椅子に座っていたときにはよく見えなかったが、そこには哲学書と言われるものが並んでいた。先程出てきたアリストテレスの本もある。哲学なんて全く知らないので、難しそうな本ばかりで、どれを選んだらいいのかわからない。少し悩んで、ふと目に止まった一冊を手に取った。『プラトンの哲学』と書かれていた。
私が手に取った本を覗きながらアシュアさんが、
「それだめ」
首を横に振りながら言う。
「えっ」
「イデア論をあなたぐらいの年齢で読むと、厨二病をこじらせる可能性があるわ。他のにしなさい」
「私、高校生ですよ。好きなの持っていって、って言いましたよね。」
「これは例外。もう少し大人になってからね。お酒と一緒。早すぎると毒よ」
「偏見じゃないですか」
「プラトンから直接イデア論を説かれた私が言ってるのよ。間違いないわ」
字面では嘘にしか聞こえないのに、アシュアさんが声にしたら、信憑性の塊に化ける暴論に説き伏せられ、その本を戻し、他の本を取る。『方法序説-ルネ・デカルト』と書かれている。
「それもちょっと怪しいけど…まぁ、イデア論よりはマシかな」
「これもこじらせる可能性があるんですか」
「まぁ、正直哲学自体が、そういう嫌いがあるからね。方法序説でいうなら「Je pense, donc je suis. 我思う、ゆえに我あり」 とかね」
「そりゃそうでしょ。なんでそんな当たり前のこと言ってるんですか」
「他にも「無知の知」とか」
「セクハラですか?」
「「ムチムチ」じゃない。無知の知。知らないということを知るってこと」
「ちょっと言ってることが分からないんですけど」
「読んだらわかるわ」
「じゃぁ、これにします」
方法序説、ルネ・デカルト。ただでさえ普段から本を読まないのに、こんな難しそうな本。アシュアさんと出会わなければ、この本とも出会えなかっただろう。
本を片手に、部屋を出ようと、テーブルを横切ったとき、
「このゴミ箱空っぽだったんだよ。あなたのティッシュでいっぱいじゃない」
「すみません…」
「いいのよ」
黒い円柱のゴミ箱に、私が嗚咽している時に使ったティッシュが山盛りに詰まっていた。
私が泣き始めたとき、アシュアさんが何処からか、ティッシュとゴミ箱を持ってきてくれた。
「男の子の部屋だったら…考えたくもないわね」
なにか含みのある言い方だったが、私には理解できなかった。
「どういうことですか?」
「あら、そっちはまだ疎いのね。仕方ないか。「マグロ」だもんね」
疑問が増えるだけだった。
後日、母に、
「女の人に鮪って言うの、どういう意味なの?」
と聞いたところ、急に焦りだして、
「何処でそんな言葉覚えてきたの!?忘れなさい!」
と怒られた。
鮪は誰でも知ってるだろ。結局教えてもらえなかった。新しいアシュアさんの動画が投稿されたら、コメントしよう。
「マグロってどういう意味ですか?」