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辺境のアルビオン  作者: トスコニカ
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第九話:森の沈黙、狩りの掟

カイトが領地を去ってから、数日が過ぎた。彼は、あてもなく、ただひたすらに歩き続けた。かつて自分が整備した街道を避け、獣道や森の中を選んで進んだ。領主カイト・アルビオンという存在から、物理的に遠ざかりたかった。


しかし、一人になった彼を待っていたのは、過酷な現実だった。前世の知識があれば、サバイバルなど容易いと考えていた。だが、それは完全な思い上がりだった。知識として知っていることと、それを実践できることは、全くの別物だった。食べられる野草の見分けはつかず、火をおこすのにも一苦労した。夜の森は、彼の想像を絶するほどに暗く、冷たく、そして得体の知れない物音に満ちていた。


数日後、彼は飢えと疲労で行き倒れになった。意識が朦朧とする中、誰かが自分を覗き込んでいるのに気づいた。逆光の中に浮かび上がったそのシルエットには、見覚えのある、尖った耳があった。リシアだった。


カイトが次に目覚めた時、彼は森の中の小さな洞窟に寝かされていた。傍らでは、リシアが静かに薬草を煎じていた。

「……なぜ?」

かすれた声で、カイトは尋ねた。

「あなたを見ているように、長老に頼まれただけです」

リシアは、カイトに視線を合わせずに、淡々と答えた。彼女の声は、以前のような温かみはなく、どこかよそよそしかった。


「君たちの世界を知りたい、と言ったな。ならば、ここで生き延びてみせろ」

洞窟の入り口から、声がした。フレアだった。彼女は、仕留めたばかりの兎を肩に担いでいた。彼女の視線は、カイトを値踏みするように、鋭く、そして冷たかった。


こうして、カイトの奇妙な「学び」の旅が始まった。それは、教えを請うというような、生易しいものではなかった。リシアもフレアも、彼に何かを手取り足取り教えることは、一切なかった。彼らはただ、自分たちのやり方で、森の中で日々を過ごすだけだった。カイトは、それを傍らで見て、模倣し、そして失敗を繰り返しながら、生きる術を学んでいくしかなかった。


最初の試練は、「沈黙」だった。リシアは、森の中を歩くとき、ほとんど言葉を発しなかった。彼女は、カイトにも同じことを要求した。

「森では、言葉は無力です。いえ、むしろ邪魔になる。あなたの頭の中のおしゃべりをやめて、森の声を聞きなさい」


カイトにとって、それは苦痛だった。彼は、常に思考し、分析し、言語化することで、世界を理解してきた。沈黙は、彼を不安にさせた。だが、彼は従うしかなかった。


何日も、何週間も、彼はただリシアの後をついて森を歩いた。初めのうちは、何も聞こえなかった。だが、次第に、彼の感覚は研ぎ澄まされていった。風が木々の葉を揺らす音の違い、土の匂いの変化、動物たちの気配。それらが、言葉とは違う形で、膨大な情報を伝えていることに、彼は気づき始めた。彼の合理的な思考は、その非言語的な情報を前に、少しずつ沈黙を強いられていった。彼の身体が、頭脳よりも先に、森の文法を学び始めていた。


ある日、リシアは一本の巨木の前で立ち止まり、その幹にそっと手を触れた。彼女は、目を閉じ、長い時間、その場に佇んでいた。カイトも、それを真似て、木の幹に手を当ててみた。ざらざらとした、冷たい樹皮の感触。しかし、その奥から、何か巨大で、穏やかで、そして圧倒的な生命の流れのようなものが、微かに伝わってくるような気がした。それは、彼の思い込みだったのかもしれない。だが、その時彼は、リシアが語っていた「精霊との対話」が、単なる比喩や空想ではなく、彼女にとっての紛れもない現実なのだということを、初めて身体で感じ取った。


次の試練は、「狩り」だった。フレアは、カイトに一本の粗末な槍を渡し、言った。

「食いたければ、自分で獲物を捕れ」


カイトは、フレアの狩りについていった。フレアの動きは、獲物を追う獣そのものだった。彼女は、地面に残されたわずかな痕跡から獲物の種類と進行方向を読み取り、風の匂いからその距離を測った。彼女の五感は、カイトが持つどんな探知魔法よりも、正確で、鋭敏だった。


そして、彼女が獲物を仕留める瞬間、カイトは息をのんだ。彼女の動きには、一切の無駄も、ためらいもなかった。しかし、そこには、カイトが戦場で用いたような、冷たい殺意は感じられなかった。それは、生きるために、他の生命をいただくという、厳粛な儀式のように見えた。


フレアは、仕留めた獲物の心臓にナイフを突き立てると、その血を数滴、大地に垂らし、静かに目を閉じた。

「森の恵みに感謝を。お前の命は、我らの血肉となる」


カイトは、衝撃を受けた。彼にとって、敵を殺すことは、目的を達成するための「作業」であり、排除すべき障害を取り除く行為に過ぎなかった。しかし、フレアにとって、狩りは、生命の大きな循環の一部だった。そこには、奪う者と奪われる者の間に、敬意と感謝に基づいた、深い関係性が存在していた。


カイトは、何度も狩りに失敗した。彼の動きはぎこちなく、彼の気配は、すぐに動物たちに察知されてしまった。彼は、飢えと屈辱に何度も打ちのめされた。だが、その過程で、彼の身体は、少しずつ変わっていった。足音を殺して歩く方法、風下に立つ意味、そして、獲物の命の重み。それらは、書物や言葉では決して学べない、身体的な知恵だった。


これは、知的理解のプロセスではなかった。それは、彼の知覚の仕方、世界の感じ方、そして身体の構えそのものが、根こそぎ作り変えられていく、痛みを伴う実践だった。彼の頭脳が信奉してきた合理性や効率性といった価値観が、森の巨大な生命の循環の前では、いかに矮小で、傲慢なものであったかを、彼はその身体で、骨の髄まで思い知らされていた。彼は、領主カイト・アルビオンという殻を、一枚一枚、剥がされていき、ただの生き物として、森の中に放り出されていた。

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