第八話:沈黙の旅立ち
カイトが自室に閉じこもってから、三日が過ぎた。その間、屋敷の中は、重苦しい沈黙に支配されていた。領主代行の者たちが、心配して何度も扉を叩いたが、カイトからの返事はなかった。
祝宴の夜の出来事は、すぐに屋敷中に広まった。リシア、フレア、ゲルダが、カイトを公然と非難した。その事実は、カイトを神のように崇めていた者たちに、大きな動揺を与えた。何が起きているのか、誰にも正確には分からなかったが、アルビオン領を支えてきた中心的な人物たちの間に、修復不可能な亀裂が生じたことだけは、明らかだった。
リシア、フレア、ゲルダの三人もまた、それぞれの場所で、複雑な思いを抱えていた。
リシアは、自室の窓から、自分が手入れをしてきた薬草園を眺めていた。カイトにあの言葉を突きつけたことに、後悔はなかった。あれは、言わなければならないことだった。だが、彼の打ちのめされた姿を思い出すと、胸が痛んだ。彼が、自分たちを救ってくれた恩人であることに、変わりはない。彼の善意は、本物だったはずだ。だが、その善意が、なぜ自分たちをこれほどまでに苦しめるのだろう。彼女は、その問いの答えを見つけられずにいた。
フレアは、獣人たちの集落で、黙々と斧の手入れをしていた。仲間たちは、口々にカイトへの不満を漏らしていた。「あいつは、俺たちのことを駒としか見ていなかった」「人間のやり方には、もう付き合いきれねえ」。フレアも、同感だった。だが、彼女は、カイトが見せた、絶望に染まった顔を忘れられなかった。あれは、ただの傲慢な支配者の顔ではなかった。自分の信じていた全てが崩れ去った、迷子の子供のような顔だった。彼女は、苛立ちと、そして奇妙な憐憫の情の間で、心を揺さぶられていた。
ゲルダは、鍛冶場で、火の消えた炉を前に、一人座っていた。彼女は、カイトに協力して兵器を作った自分自身を、深く恥じていた。あの若造は、道具の魂を理解していなかった。だが、自分もまた、同胞を守るという大義名分を盾に、自らの信条を曲げてしまった。カイトを断罪する資格など、自分にあるのだろうか。彼女の心は、自己嫌悪と後悔で重く沈んでいた。
三日目の夜、カイトの部屋の扉が、静かに開いた。現れたカイトの姿に、誰もが息をのんだ。彼は、数日の間に痩せこけ、その瞳からは、かつての自信に満ちた輝きが完全に消え失せていた。
彼は、領主代行や主だった家臣たちを集めると、か細いが、はっきりとした声で告げた。
「本日をもって、私はアルビオン家の家督を放棄し、領主の座を降りる」
広間に、衝撃と困惑が広がった。
「な、何を仰るのですか、カイト様!」
「あなた様がいなくては、この領地はどうなるのですか!」
カイトは、彼らの制止を、静かに手で制した。
「私には、もう、皆さんを導く資格がない。いや、初めから、そんな資格などなかったんだ。私は、自分の傲慢さと無知によって、この土地の最も大切なものを、踏みにじってしまった。これ以上、この地に留まることはできない」
彼は、集まった者たちに深く頭を下げると、踵を返した。そして、まっすぐに、リシア、フレア、ゲルダが待つ部屋へと向かった。
三人を前にして、カイトは、再び深く頭を下げた。
「すまなかった。私は、君たちを、君たちの世界を、何も理解しようとしていなかった。ただ、自分の価値観を押し付け、君たちを利用していただけだった。君たちの言葉は、全て正しかった」
それは、謝罪の言葉だった。だが、彼の声には、許しを請う響きはなかった。ただ、自らの過ちを認め、事実を事実として受け入れる、静かな諦念が満ちていた。
彼は、顔を上げた。
「私は、全てを捨てて、旅に出る。領主でも、何でもない、ただの一人の人間として、自分が何者なのかを、見つけ直すために。そして、もし許されるなら、知りたいんだ。君たちが生きている『世界』を。君たちの瞳に、この世界が、どのように映っているのかを」
それは、あまりにも自分勝手な願いだった。散々他者を踏みにじっておきながら、今度はそれを学びたいと言う。だが、その時のカイトの瞳には、かつてのような支配者の傲慢さはなく、ただ、道に迷った者の、切実な渇望だけが浮かんでいた。
リシア、フレア、ゲルダは、互いの顔を見合わせた。彼女たちの心の中にも、様々な感情が渦巻いていた。怒り、不信感、そして、ほんのわずかな共感。この男は、自分たちの世界を破壊した。しかし、今、彼は自らの世界を破壊され、その瓦礫の中から、何かを探し出そうとしている。
フレアが、ふいと顔をそむけながら、ぶっきらぼうに言った。
「勝手にしろ。どこへ行こうが、あんたの自由だ」
それは、拒絶の言葉のようにも、あるいは、好きにすればいいという、突き放した許可のようにも聞こえた。
カイトは、それを肯定と受け取った。彼は、もう一度、三人に頭を下げると、静かに部屋を後にした。彼は、貴族の衣服を脱ぎ捨て、最も質素な旅人の服に着替えた。背負った鞄には、わずかな食料と水、そして一振りの剣だけが入っていた。前世の知識も、領主としての地位も、全てをそこに置いていく。
夜明け前、カイトは誰にも見送られることなく、一人、アルビオンの屋敷の門をくぐった。彼がこれから向かうのは、目的地のない、答えのない旅だった。それは、彼が犯した罪の大きさと向き合い、他者と真に出会うとはどういうことなのかを、その身をもって学ぶための、長く、そして孤独な巡礼の始まりだった。彼の背後には、彼が築き、そして自ら壊した世界が、夜明け前の薄闇の中に、静かに沈んでいた。




