第五話:鉄と火薬の勝利
カイトが二十歳を迎えた夏、帝国はついに牙を剥いた。辺境の小領地であるアルビオンが、異種族を囲い込み、独自の経済圏を築き、力をつけている。その報告を受けた帝国中央は、これを看過できない反乱分子とみなし、正規軍一個師団、総勢五千の兵力を派遣した。目的は、アルビオン領の完全な制圧と、指導者カイト・アルビオンの捕縛だった。
帝国の侵攻の報は、領内に激震を走らせた。アルビオン領の全兵力をかき集めても、千に満たない。兵の質も、歴戦の帝国軍とは比べ物にならなかった。誰もが、絶望的な未来を予感した。
だが、カイトだけは冷静だった。彼の頭脳は、この日のために、数年前から準備を重ねてきた。彼の前世の記憶、特に、歴史上の様々な戦いに関する知識が、彼の最大の武器だった。
「皆、落ち着いて聞いてほしい。数では我々が圧倒的に不利だ。だが、我々には地の利と、そして帝国が持ち得ない『知恵』がある。正攻法で戦う必要はない。我々のやり方で、彼らを迎え撃つ」
軍事会議の席で、カイトは揺るぎない自信と共に宣言した。その落ち着き払った態度は、不安に震える領主代行や兵士たちに、不思議な安心感を与えた。
カイトの戦術は、この世界の誰もが思いつかないような、画期的なものだった。彼は、帝国軍が侵攻してくるであろう谷間に、集中的な防衛陣地を構築させた。
まず、彼はフレア率いる獣人部隊に命じ、谷の斜面に無数の落とし穴や、簡単な罠を仕掛けさせた。獣人たちの地形に関する知識と、狩りの技術が、この作業で遺憾なく発揮された。
次に、彼はゲルダの工房で開発させていた、秘密兵器を投入した。それは、鉄の破片を詰め込んだ、巨大な筒状の容器だった。ゲルダは、カイトが「火薬」と呼ぶ、奇妙な黒い粉の調合と、その爆発力を制御する技術を、不本意ながらも完成させていた。彼女は、魂のないただの破壊兵器を作ることに強い抵抗を感じていたが、故郷の同胞を守るためだとカイトに説得され、協力したのだった。
そして、カイトの戦術の核心は、「塹壕」だった。彼は、兵士たちに、谷を見下ろす丘陵地帯に、深く、そして長く、迷路のような溝を掘らせた。兵士たちは、なぜこんな無意味な穴掘りをさせられるのかと不平を漏らしたが、カイトの命令は絶対だった。
帝国軍は、アルビオン領の抵抗を侮りきっていた。辺境の雑兵など、一蹴できる。彼らは、整然とした隊列を組み、鬨の声を上げながら、谷へと進軍してきた。
その瞬間、カイトの罠が牙を剥いた。
先頭部隊が、獣人たちの仕掛けた罠にかかり、混乱に陥る。側面からは、森に潜んだエルフの部隊が、正確無比な矢を放ち、指揮官たちを狙い撃ちにした。
だが、それらは全て、本命のための布石だった。混乱し、隊列を乱した帝国軍が、谷の中央に密集したその時、カイトは合図を送った。
丘の上から、ゲルダが作った火薬樽が、次々と投下され、谷底で轟音と共に炸裂した。凄まじい爆発音と、飛び散る鉄片が、帝国兵を薙ぎ倒していく。馬は嘶き、兵士たちは恐慌状態に陥った。彼らは、このような戦い方を知らなかった。それは、剣や魔法の理を超えた、不可解で、恐ろしい力だった。
そして、とどめを刺したのは、塹壕に潜んだアルビオンの兵士たちだった。彼らは、安全な溝の中から、混乱する帝国軍に向かって、弩や弓矢を一方的に撃ちかけた。帝国軍の反撃は、塹壕の土壁に阻まれ、ほとんど届かない。それは、もはや戦いではなく、一方的な殺戮だった。
帝国軍は、わずか半日で潰走した。五千の兵は、半数以上が死傷し、残りは武器を捨てて逃げ帰っていった。辺境の小領主が、帝国の正規軍を、ほとんど損害なく撃退した。それは、奇跡としか言いようのない、圧倒的な勝利だった。
その夜、アルビオン領は、勝利の歓喜に沸いた。領民たちは、カイトの名を連呼し、彼を英雄として、神のように崇めた。これ以上ない、痛快な「ザマァ」だった。帝国は、自分たちが「劣等」と見下していた辺境の民に、手痛い敗北を喫したのだ。
カイトは、祝宴の中心で、領民たちの賞賛を浴びながら、強い達成感に満たされていた。自分の知識が、自分の戦略が、この絶望的な状況を覆した。自分は、やはり「最強」なのだ。彼は、勝利の美酒に酔いしれた。
しかし、その祝宴の輪から、少し離れた場所に、三人の女性たちの姿があった。リシア、フレア、ゲルダ。彼女たちの表情は、勝利の喜びに輝いてはいなかった。むしろ、その瞳には、深い悲しみと、そしてカイトに対する、これまでとは質の違う、冷ややかな感情が浮かんでいた。
カイトの勝利は、彼の知恵の勝利であると同時に、彼が持ち込んだ、異質な論理の勝利でもあった。それは、敵を人間として見ず、ただ排除すべき「的」として扱う、効率と破壊の論理。その論理が、この土地の古い戦いの作法、森の掟、そしてものづくりの魂を、無慈悲に踏みにじっていくのを、彼女たちは目の当たりにしたのだった。
勝利の歓声が大きければ大きいほど、彼女たちの心に広がる溝は、より深く、より修復不可能なものになっていくのを、カイトはまだ知らなかった。