第一話:凡庸な死と非凡な誕生
佐藤明人の人生の終焉は、彼が生きてきた三十年間と同じく、驚くほど凡庸だった。日付が変わる少し前、煌々と明かりが灯るコンビニエンスストアの自動ドアを抜けた直後、彼の視界は唐突にアスファルトの色で塗りつぶされた。身体が言うことを聞かない。遠のく意識の中で最後に聞こえたのは、無機質な自動販売機の駆動音と、自分とは無関係に響き渡る救急車のサイレン。もし最後の願いが許されるなら、と彼は思った。もっと楽に、もっと穏やかに、ただのんびりと生きてみたかった。
次に彼が認識したのは、視界いっぱいに広がる見慣れない木目の天井だった。身体は赤子のように小さく、柔らかな布にくるまれている。手足を動かそうにも、まだ神経が繋がっていないかのように自由が利かない。混乱する思考の中、優しい声が降り注いだ。
「おお、カイト。私の可愛い息子」
彼の新しい名は、カイト・アルビオン。
ここはテラ・ミスティカ。剣が舞い、魔法が実在し、人間以外の多様な種族が息づく世界。そして彼は、大陸中央に覇を唱える人間至上主義国家「ルーメン聖光帝国」から追放された、辺境貴族アルビオン家の末子として、二度目の生を受けたのだった。
「これだ。これこそが、物語の始まりだ」
カイトの魂、すなわち佐藤明人の精神は、歓喜に打ち震えた。前世で読み漁った数多の物語の記憶が、彼の頭脳を駆け巡る。追放された貴族、寂れた領地、不遇からのスタート。これは、現代日本で得た知識を武器に、理不尽な運命を覆し、かつて自分たちを虐げた帝国の中枢に痛烈なしっぺ返しを食らわせ、そして夢にまで見た悠々自適のスローライフをその手に掴むための、完璧すぎるほどの舞台設定ではないか。
彼は心に誓った。善良で、賢明な領主になる、と。前世の日本で、義務教育と社会生活の中で薄く広く身につけた、民主主義や基本的人権といった価値観。彼は、このいまだ前近代的で野蛮な世界に、真の意味での「多様性」と「共存」の光をもたらす指導者になるのだ、と固く決意した。自分は、あからさまな暴力や憎悪を振りかざす、帝国のような野蛮な差別主義者とは違う。自分は、異なる者たちを理解し、手を取り合う理想の世界を築くのだ。
この瞬間、カイト・アルビオンという存在は、生まれながらにして一つの役割を無意識に引き受けていた。自らの善意を微塵も疑わず、その善意が、生まれ持った「人間」であり「貴族」であるという立場、そして「転生者」であるという圧倒的な情報的優位性という、強固な特権の上に成り立っていることに、全く気づいていなかった。彼が掲げた種族間の融和という高潔な理想は、これから彼が出会うであろう他者たちを、自らの価値観で裁定し、導く権利を無意識のうちに自らに与えるための、最も巧妙で、最も誠実な顔をした自己正当化の始まりに過ぎなかった。彼の物語は、輝かしい理想と共に、深い影をその内に孕んで、静かに幕を開けた。
カイトの成長は、神童のそれだった。彼は三歳で文字を解し、五歳でアルビオン家に伝わる書物を読破した。父であるアルドリック卿は、末息子の非凡な才能に驚喜し、母であるセレスティーナは、その早熟さに一抹の不安を覚えながらも、深い愛情を注いだ。
カイトは、この世界の現実を貪欲に吸収した。ルーメン聖光帝国が、なぜ人間至上主義を掲げるに至ったのか。それは、かつて大陸の覇権を争った「古の種族」――エルフ、ドワーフ、獣人――との長きにわたる戦争の歴史に根差していた。帝国は、人間の「理性」と「秩序」こそが世界を正しく導く唯一の力であると宣言し、それ以外の種族を「感情的で、混沌とした、劣った存在」として定義づけた。そして、その論理の果てに、彼らを支配し、あるいは大陸の辺境へと追いやったのだ。
カイトの父、アルドリック卿は、その帝国のやり方に異を唱えた稀有な貴族だった。彼は、異種族との対話と共存こそが、真の平和をもたらすと信じていた。だが、その理想は「弱腰」「国賊」と断じられ、彼は全ての爵位を剥奪され、この痩せ細った辺境の地、アルビオン領へと追いやられたのだった。
「父上の理想は、間違ってはいなかった。ただ、やり方が甘かっただけだ」
書斎で歴史書を読み解きながら、カイトはそう結論付けた。理想を語るだけでは足りない。圧倒的な「力」――経済力、軍事力、そして技術力――をもって、理想が現実となりうることを証明しなくてはならない。そして、そのための知識は、全て自分の頭の中にある。
彼は、領内の子供たちを集め、簡単な計算や文字を教える「寺子屋」のようなものを開いた。領民たちは最初、貴族の気まぐれだと訝しんだが、子供たちが日に日に賢くなっていくのを見て、次第にカイトに敬意を払うようになった。彼は、領内の畑を巡り、前世の知識である輪作や、水路の効率的な整備方法を指導した。収穫量は、数年で目に見えて増加した。
カイトの行動は、全て善意に基づいていた。彼は領民の生活を豊かにし、子供たちに未来を与えたいと心から願っていた。そして、彼の施策はことごとく成功を収めた。領民たちは、若きカイトを「叡智の君」と呼び、心からの賞賛と感謝を捧げた。
その賞賛の言葉を浴びるたび、カイトの胸には温かい満足感が広がった。自分の知識が、自分の力が、人々を幸福にしている。この感覚は、前世の日本で、巨大な社会の歯車の一つとして無力感に苛まれていた佐藤明人には、決して味わうことのできないものだった。
彼は、自分が特別な存在であることを、日増しに強く実感していった。彼は、この世界の誰よりも先を見て、誰よりも正しい判断ができる。だからこそ、人々を導く責任がある。彼の心の中では、「導く」という言葉が、いつしか「支配する」という言葉と、区別がつかないほどに混じり合っていた。彼は、自分のやり方が唯一の正解であると信じて疑わなかった。領民たちの感謝の笑顔が、その信念を日々、強固なものへと変えていった。彼は、自分の視線が、いつの間にか人々を上から見下ろすものになっていることに、気づくことはなかった。